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2005年3月27日

山猫

山猫■原題:Il Gattopardo(英:The Leopard)
■制作年・国:1963年 イタリア/フランス 186分
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:ゴッフリード・ロンバルド
■原作:ランペドゥーサ「山猫」
■脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ/パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ/エンリコ・メディオーリ/マッシモ・フランチオーザ/ルキノ・ヴィスコンティ
■撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ
■音楽:ニーノ・ロータ
■衣装:ヴェラ・マルツォ
■出演:バート・ランカスター(サリーナ公爵)/アラン・ドロン(タンクレディ)/クラウディア・カルディナーレ(アンジェリカ)/リーナ・モレッリ(侯爵夫人ステラ)/パオロ・ストッパ(カロージェロ・セダーラ)/ロモーロ・ヴァッリ(ピローネ神父)/ピエール・クレマンティ(長男フランチェスコ・パオロ)/セルジュ・レジアニ(チッチョ)/レスリー・フレンチ(シュバレ)/マリオ・ジロッティ(カヴリアーギ伯爵)/オッタヴィア・ピッコロ(三女カテリーナ)/ジュリアーノ・ジェンマ(ロンバルディ軍の将軍)

■内容
1860年5月、祖国統一と腐敗した貴族支配からの解放を叫ぶガリバルディと彼の率いる赤シャツ隊がシチリア島に上陸した。シチリアを長きに渡り統治してきた名門サリーナ公爵家の庭に王党派の兵士の死体が発見され、この家にも上陸の知らせが入る。侯爵の甥のタンクレディは侯爵が自分の子供よりも目をかけており、目端の利く彼は革命軍に参加するため、いとまごいに来る。侯爵は反対するが、多くの金貨を手みやげに甥を送り出してやる。
毎年恒例の避暑のため、サリーナ侯爵は一家でドンナフガータ村の別荘へ行く。途中、戦闘で片目を負傷したタンクレディが合流。村では例年通り侯爵一家を迎える。村長で新興ブルジョワジーのカロージェロを晩餐会に招く。彼の燕尾服は侯爵家の物笑いの種だが、娘が登場して一気に空気が変わる。絶世の美女アンジェリカと出会い、タンクレディはすぐさま恋に落ちる。そういう目端の利く甥を侯爵は応援するのだが、一方で侯爵の娘コンチェッタは失恋してしまうのだった…。

■感想
〔イタリア語・完全復元版〕を映画館のスクリーンで見た。この復元版は2004年10月に新宿で公開され、その後全国を回っている。ほんの数日だけ東京、下高井戸に戻って来た間隙をつくことができて幸いだった。

ヴィスコンティの作品群の中で、大きな分水嶺となった作品。この前と後ろで繋がっているテーマは多数あるが、この後の作品で社会的な弱者を取り扱うことはなくなり、滅び行く貴族が主要な登場人物になっていく。また、ヴィスコンティの最大のスペクタクル作品であることは間違いない。3時間に及ぶ映画の終わりの40分強を費やす舞踏会シーンは登場人物が多く、できるだけ誰が何をやっているか、全部見てやろうとすると非常に疲れる。例えば、何のダンスをどういう背景の人物が踊っているか、それだけ調べても面白そうだ。このシークエンスだけで論文が書けるに違いない。なにせ200人以上の本物のシチリア貴族がエキストラで参加しているのだそうだ。本物のランペドゥーサ家の食器たちも参加している。この人数のシーンを全部演出したのだと思うと、ヴィスコンティの力強さに圧倒される。出演者が全員ちゃんと演技していて、それを全部納得行くように演出したなど、実際パラノイアではないかと思うほど凄い。

最初のシークエンス、家長たる侯爵の威厳ある姿で始まり、タンクレディの後ろ姿で終わる。叔父にいとまごいに来た彼が、侯爵の部屋を飛び出し、家族の人々に別れの挨拶をする。彼の動きは犬の動きと相まって、実に快活で躍動的である。そして彼は馬車で去る。そのとき初めて侯爵家の広大な敷地が見える。見送る侯爵の堂々とした姿とタンクレディのカッコ良さ、そして広大な風景に圧倒される。

バート・ランカスターのサリーナ侯爵は複雑な役だ。ある時は頑迷で強健、ある時は繊細で疲れている。自らの階級が没落するであろうと感じ、新興ブルジョアジーに対して軽蔑を感じながら冷静にその力を認めている。自分たちの立場を客観的に判断し、生き延びる道を模索できる能力は、長い歴史を見つめてきたその重みから作られているのだろう。こういう複雑な貴族の心情、生活などはやはり貴族出身の監督ならでは。ほかの作品にももちろんヴィスコンティの出自が反映されてはいるが、「山猫」はその最たるものだろう。

準主役とも言えるタンクレディは侯爵の長女に気のあるそぶりを見せながら、ブルジョアジーのアンジェリカにあっさり寝返る。コンチェッタに求婚していたわけではないので裏切りにはならないが、心情的にはどうもなぁというところがある。最初は単にアンジェリカに惹かれただけだが、自分が父親のせいで財産がないことをよく承知している彼はコンチェッタよりも持参金が多いことを当然計算して求婚している。それを利に聡いというよりは、聡明だと侯爵は考え、頼もしく感じる。その現実感覚は私も好ましいと思う。でも、罪の意識からか、コンチェッタに気のある友達のカヴリアーギ伯爵を連れて来るあたりは、やり過ぎだという気がする。

ガリバルディ軍の戦闘シーンでは、私が白兵戦を見るといつも感じる恐怖感が更に強く感じられた。これは市街戦なのだが、おそらくは夫だろう、銃殺された男にすがる女性がいたり、黒い服を着たおそらくは警察署長を追いかけ回し、銃殺の仕返しにリンチにする婦人たちの姿があったり、戦闘場面にふと迷い込んだ小さな女の子がいたり、そういったリアリティあふれる場面の積み重ねか、CGでは感じ得ない、何とも言えないざらついた印象を残す。

その後、一瞬にしてシチリアの広大な風景の中を侯爵一家が旅するシーンになる。到着した一家はすぐに教会に入るが、この一列に並んだ家族全員がほこりまみれで憔悴しきっている。その姿が何故か滑稽だ。戦争中にもかかわらず旅するのは、毎年恒例の避暑だからというよりは自分の地所に対して安心感を与えるためだろうなと思う。侯爵の領地に対する思いが伝わって来る。

別荘の中でアラン・ドロンとカルディナーレが部屋を次々に移っていくシーンの意味がよくわからなかった。「数えられるような部屋数の屋敷には意味がない」という貴族の価値観を表現したシーンだが、なんとなく腑に落ちない。これはどうも原作に詳細な記述があるようだが、本当は何のために時間を費やしたのだろうか?原作を読んで解決することにしよう。

そして舞踏会に話を戻すが、とにかく熱気がすごい。人が多いせいだけではなく、ほとんどの人が扇で煽っているせいだ。これは実際に撮影時にすさまじい熱気で、失神する人が多数出たという話だ。最初に見た侯爵は、例によって丈夫そうなのだが、若い娘たちの一群を見たシーンで「猿ですな」と言った後あたりで、どっと疲労が見える。人々の喧噪を逃げるようにして入り込んだ主人の書斎のシーンは更に疲れている。その後にアンジェリカとのワルツのシーンが来て、侯爵が急にしゃきっとして、軽やかなステップを踏む。そしてその後また疲れたように帰って行く。長い舞踏会のシーンの中では侯爵とアンジェリカのワルツを踊るシーンが中心だとよくわかるように、浮き上がらせている。

今回、アラン・ドロンは「若者のすべて」の無垢で純粋なロッコとは正反対とも言える青年で、「太陽がいっぱい」のリプリーに近い。野心が男を美しく見せる、というパターン。私はこちらの方が好きだ。クラウディア・カルディナーレは目のふちが黒くて、私はどうも怖い。でも少しハスキーな声が魅力的だ。

3時間強の映画を飽きもせず、楽しく見せることが出来たのだから、当然これは娯楽大作だ。20世紀FOXの資本が入ったからではなく(舞踏会のシーンを丸ごとカットしたという馬鹿なアメリカ人)、原作がエンターテイメント性が高かったからではなく、ヴィスコンティがわかりやすく、豪華に作ったからに違いない。

一通り全国を回ったら、是非DVD化して欲しい。