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2005年1月26日

揺れる大地(海の神話)

揺れる大地(海の神話)■原題:La Terra Trema - Episodio del mar
■制作年・国:1948年 イタリア
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■撮影:G.R.アルド 
■助監督:フランチェスコ・ロージ/フランコ・ゼフィレッリ
■出演:アントニオ・アルチディアコノ/ジュゼッペ・アルチディアコノ/アントニーノ・ミカーレ


戦後、舞台演出に集中していたヴィスコンティが満を持して撮った作品で、単独の監督作品としては6年ぶりの第二作目。登場人物に実際の漁師たちを使い、ドキュメンタリータッチに描いた、なるほど、これがネオ・レアリスモの決定版というわけか。

舞台はシチリアの貧しい漁村アーチトレッツア。若い漁師アントーニは網元の搾取に苦しむ漁師たちに組合を結成して魚の卸値の交渉をするが、騒動になり警察に捕まってしまう。網元は漁師がいないと仕事にならないため、保釈させる。アントーニは自分たちで魚を直接売って網元の搾取を受けないようにしようと呼びかける。アントーニは家を抵当に入れて借金をし、自分たちで自営し始めるが、リスクを恐れて誰も続かなかった。アントーニ一家は好漁に恵まれ、鰯を塩漬けにして値が上がるのを待とうとする。しかし時化の日に漁に出て、船の帆も網もなくしてしまう。商売道具を失ったため、漁ができなくなり、困窮していく姿を描いている。

それにしても2時間40分もの長丁場、バラストロ一家の隆盛と没落の姿をじっくり見せてくれた。が一家が没落していくのを描く時間の方が長いのだ。導入で1/3使い、少しだけいい目を見せてあげて、あとはじわじわと悲惨に落としていく。後年のヴィスコンティを考えると、実にらしいなと思う。労働者の団結を訴えている映画にはとても見えない。つまらないプロパガンダ映画はやっぱりヴィスコンティは撮らない。

映像がとても貧しい人たちを描いているにしては美しい。汚らしさや猥雑さがなく、非常に厳かだ。モノクロの海や畑にたなびく風といった風景が荘厳ささえ感じさせる。厳しい風景だが、やはり美しい。

ところで、バラストロ一家は大勢いいるので、少し整理してみたい。
アントーニ(祖父)=ショックのあまり倒れて入院
名知らない(母)=いつも黙って見守っている
アントーニ(長男)=ネッダにふられる&アル中→雇われ漁師
コーラ(次男)=密輸業者に連れられれて家出
マーラ(長女)=左官のニコラとの結婚を諦める
ルシア(次女)=警察署長の慰み者になり、誰も結婚してくれなくなる
あとは子供:ヴァンノ(三男)、アルフィオ(四男)、?(三女)、赤ん坊(四女)
総勢10人の家族と思われる

家を抵当に入れたために銀行に取られてしまうほど落ちぶれたが、この一家は嵐に遭うという運が悪かっただけだ。村人たちは何故彼らを村八分にするのだろう?仲買人を恐れて、というのは理解できるのだが、仕事を与えないところまで追いつめるのは何故だろう?貧しい人たちの連帯などは幻なのだということを、仮借なきまでに見せつけられる。アントーニが立ったとき、リスクを恐れて連帯できない面はあっただろうが、ほんの一時の成功を妬み、同情心すら覚えない。貧しさは心の卑しさになるのかもしれないと思わせる。

女の目から見ると、アントーニは傲慢で無知で無責任だ。リスクを負ってやったのだから、失敗したらプライドは捨てて働かないと、一家を背負う資格はない。生活の手段をもたない女たちや小さな弟たちはどうなるのだろう。無知というのは、どうして保険に入らなかったんだろうな。稼ぐ道具に何かあったらどうするとか考えないんだろうか。それともそこまで余裕がなかったんだろうか。みんなのためという前に自分の家族のことを考えないのは傲慢だし、見栄っ張りだ。

直接的には関係ないが、イタリアの庶民っていうのはどうしてこう子だくさんなんだろう。カソリックだから産児制限できないという問題もあるのだろうが、この一家の父親が死ぬまで母親は子供を産み続けたことが、一番下の子が赤ん坊であるところから見てとれる。

この映画、最初から私の中では「聖バルバラの漁民一揆」のイメージがあった。戦前の貧しい漁村を描いている点で共通しているが、あれは団結と挫折の物語だった。これは団結しないまま早急に一人で戦った若者の挫折の物語であると言えるだろう。

強情を張っていたアントーニも最後はプライドを捨てて漁師に戻る。私はこれは希望だと思う。仕事に戻っても再び搾取されるだけだし、漁師たちはそうやって生き続けるしかないのだろうけれど、仕事をするということは、とにかく生き延びるということだ。生き延びればまだ希望が出てくるかもしれないし、よそへ移動できるかもしれない。ラストのアントーニの厳しい顔が神々しく見える。