ラテンアメリカ文学 : アーカイブ

2008年5月18日

バートルビーと仲間たち

バートルビーと仲間たちバートルビーというタイトルに惹かれて買ってしまったが、なかなか面白かった。最初の方はいわゆる文学エッセイみたいなものかな‥?と思っていた。25年前に小説を上梓したものの、書けなくなってしまった事務員「私」があらためて書く気になったテーマは「書けなくなった作家たちのことを書く」ということだった‥という設定で書かれた小説だった。しかもとても多作で期待されているスペインの現役の作家だった。

内容的にスペイン語圏の知らない作家の名前も多数出てくるが、大物も多いので、比較的平易に感じられる。一つの論旨を堀り下げたりはせず、メモを書き散らすというスタイルをとっているため、様々な作家が様々な理由をつけて書かなくなった話を断続的に次々出してくるだけなので、どんどん読み進めることが出来る。

ルルフォの話が最初の方に出てくる。この人も評価が高いわりに寡作だなーと思っていたら「ペドロ・パラモ」と「燃える平原」だけしか本当に書いていないんだ。どうりで翻訳が他に出てこないわけだ。当たり前だ。

書かなかった人といえばヴィトゲンシュタインの甥の方なんかも、実際何も書いてないけど、有名なんだがな‥。とかふと思ったりもする。
帯にゲーテの名前が出ているけど、本文中に名前は出ているが書けなくなった人の一人として言及されているわけではないんだがな‥とか。カフカなんかの場合、書けなくなったとかではなくて、己の作品を否定したという代表例としては正しい。ヘルダリンなんかも意志として書かなくなったわけではなく、狂気故に書けなくなった代表例だ。しかし、それ以外あまりドイツ語圏の作家が出てこないな‥。フランスやスペイン、イタリア人に比べるとたゆまぬ努力を惜しまない人たちだからかな‥。

ところで、中に出てきて気になった名前は次の二人。ロドルフォ・ウィルコック(Jules Flamart Wilcock 1919-78、アルゼンチン-イタリア)とフリオ・ラモン・リベイロ(Julio Ramon Ribeyro、1929-1994ペルー)。特にリベイロの方は「どこで衝突するかわからないバルガス=リョサにぶつからないようたえず用心しながら執筆していた」というくだりが笑えた。リベイロの方は各種短編集に入っているが、ウィルコックの方は翻訳はない。どこかで読めないものかな。

■著者:エンリーケ・ビラ=マタス著 木村榮一訳
■書誌事項:新潮社 2008.2.29 223p ISBN978-4-10-505771-8/ISBN4-10-505771-5
■原題:Bartleby de Compaña, Enrique Vila-Matas, 2000
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memo
ロドルフォ・ウィルコック(Jules Flamart Wilcock 1919-78、アルゼンチン-イタリア)

フリオ・ラモン・リベイロ(Julio Ramon Ribeyro)
「記章(バツジ)」 La insignia
井尻香代子訳 「エバは猫の中」サンリオ 1987.1.20(サンリオ文庫)/「美しい水死人」福武書店 1995.3.10(福武文庫)

「ジャカランダ」 Los Jacarandas
 井上義一訳「ラテンアメリカ怪談集」河出書房 1990.11.2(河出文庫)

「分身」 Doblaje
 木村榮一訳「遠い女―ラテンアメリカ短篇集 (文学の冒険シリーズ)」国書刊行会 1996.11

2008年3月20日

ユリイカ 2008年3月号 特集・新しい世界文学

ユリイカ 2008年3月号 特集・新しい世界文学「ユリイカ」の海外文学全般特集。最近海外文学を取り上げる頻度が低いので、年2~3回くらいのペースでやってもらいたい。今回の特集で特に注目したのが、ドイツ文学とラテンアメリカ文学。ドイツ文学の解説は瀬川裕司。瀬川裕司と言えばドイツ映画の人…と思っていたのだけど、考えてみたら、そんな狭い範囲のわけがないか。ベストセラーで話題のダニエル・ケールマン「世界の測量―ガウスとフンボルトの物語」(三修社 瀬川)2008年春刊だそうだ。楽しみ~。あとは、モーニカ・マローン「かなしい生きもの」とウーヴェ・ティム「カレーソーセージをめぐるレーナの物語」あたりを読んでみようか。

収録作品の中で気になったのが以下3点。

イグナシオ・パディージャ(メキシコ)「動物小寓話」Ignacio Padilla, "Bestiario Mínimo", 2001
エドムンド・パス=ソルダン(Edmundo Paz Soldán, ボリビア)「夕暮れの儀式」"Ritual del atardecer", 1998
セサル・アイラ(César Aira, アルゼンチン)「悪魔の日記」"Diarion de un demonio"収録
※セサル・アイラは映画『ある日、突然』の原作として知られる。

ラテンアメリカ文学は「ブーム」以後の作家がなかなか日本に入ってこない。ガルシア=マルケスやバルガス=リョサの新作も良いが、そろそろいいかげん新人のを読みたい。別に私は「マジックリアリズム」に限って好き、というわけではないし、南米の人ならなんでもいいというわけでも、もちろんない。ただ、ちっさい話(身近な、卑近な話)があまり好きじゃないというだけだから。

以下は今後なんらかの形でひっかかってくるかもしれないので、キーワードとしてメモをしておく。下で読んだことがあったのはホルヘ・フランコだけだ。というか、それしか翻訳されていないのだから仕方がない。


「ウォークマンと短篇を」
アルベルト・フゲー/セルヒオ・ゴメス(チリ)

「マッコンド」
ロドリーゴ・フレサン/ファン・フォルン/マルティン・レットマン(アルゼンチン)
サンティアゴ・ガンボア(コロンビア)
エドムンド・パス=ソルダン(ボリビア)
ホセ・アンヘル・マニャス/マルティン・カサリエゴ/ライ・ロリガ(スペイン)
ホルディ・ソレール/ナイエフ・イェヤ(メキシコ)


「クラック宣言」
ペドロ・アンヘル・パロウ/エロイ・ウロス/イグナシオ・パディージャ/リカルド・チャベス・カスタニェダ/ホルヘ・ボルピ(メキシコ)

ほか、まとめて。
ロベルト・ボラーニョ(チリ)
フェルナンド・イワサキ/イバン・タイス(ペルー)
ホルヘ・フランコ/マリオ・メンドーサ/(コロンビア)
クリスティーナ・リベラ=ガルサ(メキシコ)
ゴンサロ・ガルセス(アルゼンチン)

2008年2月28日

愛しのグレンダ

愛しのグレンダフリオ・コルタサル(1914-1984)はアルゼンチンの作家で、1960年代のラテン・アメリカ文学のブームの代表的な作家の一人。だから好きかと聞かれたとしたら、おそらく私は即答できないだろう。ボルヘスは積極的に読まないけれど、コルタサルは消極的に読む、といった感じ。「石蹴り遊び」に挫折したのも消極的になってしまう理由の一つだ。が、一応短編集なら読める。コルタサルの短編は非常によく出来た短編で、スタイリッシュというか技術的に洗練された作品が多い。もともと私は短編は長編より好きではない。その理由は短編ならではのストイックさやにあるのかもしれないが、コルタサルの場合は特に洗練されすぎているのかもしれない。

しかし、面白いことは確かだ。今回の短編集は後期を代表する短編集だそうだが、とても怖かった。ミステリー仕立てだから怖いというのもあるだろうが、日常の中に潜む幻想的な部分や、現実の中にちらと顔を覗かせる恐ろしい出来事が多いからだろう。超現実的なホラーは怖くないが、日常に潜む恐怖は本当に怖い。

「猫の視線」は導入にふさわしい美しい一品。「愛しのグレンダ」は狂信的な女優のファンたちの話で、最後に彼女にふさわしい贈り物を贈る話。出来としては一番良いと思う。

「トリクイグモのいる話」は南の島のバンガローにやってきた「私たち」が隣のバンガローにいる女性二人を気にしつつ、休暇を過ごす。この二人が何かをフラッシュバックのように記憶しているが、「ミシェルの農園に戻ってきたマイケルの白い裸体」が何を意味するのか。そしてこの二人と隣のバンガローの二人の女性の意味は?と思いつつ読み進めると、日本語には男性名詞・女性名詞がないから最後まで読んでようやくわかることがある。

「ノートへの書付」はブエノスアイレスの地下鉄に住む、地上転覆を企む組織の人々を追った話。理不尽にも地下鉄に住む人々の様子から全体主義への怒りが感じられる。目的は何にせよ、地下鉄に密かに住む人々がいて、その人たちがどうやって食事をとり、服を取り替え、眠っているのか、詳細な調査の結果はまさに「肥大化した妄想」だ。アルゼンチンの地下鉄と言えば昔の丸の内線の電車が走っているので有名だが(私も乗ったことがある)、この話に出てくる駅は実際はないものが多い。「フロリダ通り」とか実際にある有名な通りなので、騙されそうになった。路線図(Subte.com.ar)

「ふたつの切り抜き」はこの短編集の中で一番印象に残った作品だが、1970年代のアルゼンチンの軍事政権のすさまじさのせいだろう。「帰還のタンゴ」は痴情のもつれの果ての殺人が描かれている。タンゴは男が女を刺すのだが、この話は女が男を刺す。日本語の「帰還」の単語に「タンゴの逆」という意味をダブルミーニングさせているようだ。「クローン」も痴情のもつれの果ての殺人事件。8人の登場人物の相関図を楽器の編成になぞらえて本編の後ろに補足するというマニアックぶりがコルタサルらしい。「グラフィティ」はあからさまにアルゼンチン軍事政権の背景がある。一つとばして「メビウスの輪」はあと書きにあるように確かに不愉快な面もあるが、この短編集の中では最も実験的な作品と言えるだろう。女性を宇宙と一体化する視点も確かに感じられるが、私にとって印象的だったのは「形のない何か」が何らかの「意識」にとりついて形を成す、という不思議なイメージがあることだ。これはおそらく昔読んだ日本の昔話に「形のない意識のような生命体」というようなものが出てきて、その連想だろうと思う。だが、その話が具体的にどんなものだったのか思い出せなくて、ちょっと悔しい。

最後に、「自分に話す物語」を読んでいて、どうして私がコルタサルに対して、面白いとは思うものの、積極的になれないかがわかった気がした。コルタサルの作品にはここにあるようなユーモアが欠けているのではないだろうか。私が若い頃一応専門で読んでいたドイツ文学から抜け出したかったのは、あのユーモアのなさのせいだ。ラテンアメリカ文学のくせに何故ユーモアが欠けているのか?南米の中では暗めのアルゼンチンの作家だから仕方がないのか?などと勝手なことを思いつつ、この作品のラストは気に入った。幻想的でエロティックな流れにもっていきつつ、最後オムツ取り替えてるんだから。コルタサルにしては、少し意外なオチだった。

■著者:フリオ・コルタサル著,野谷文昭訳
■書誌事項: 2008.1.25 220p ISBN4-00-022152-3/ISBN978-4-00-022152-8
■原題:Queremos tanto a Glenda. Cortázar, Julio, 1980
■目次
猫の視線
愛しのグレンダ
トリクイグモのいる話
ノートへの書付
ふたつの切り抜き
帰還のタンゴ
クローン
グラフィティ
自分に話す物語
メビウスの輪

2008年2月16日

優男たち―アレナス、ロルカ、プイグ、そして私

優男たち―アレナス、ロルカ、プイグ、そして私文学者の評伝であり、作家の自伝であり、文学評論でもある、非常に面白い本で、一気に読んでしまった。

プイグもアレナスも邦訳は全部読んでいる大好きな作家だ。アレナスは自伝が出ていてそれが映画になっているくらいなのでその人となりも知られているが、プイグの方はあまり知らなかった。「リタ・ヘイワースの背信」のトートーや「蜘蛛女」のモーリーナがプイグ自身の反映であることは知っていたが、あのウィリアム・ハートの仕草がプイグ自身のものだったとは…。プイグって本当の「オカマ」だったんだなぁと。本書での訳もプイグの話し方は、完全に「オネエ」言葉だし。

でもアレナスはオカマっぽい感じはしないのだけど、マッチョ系の「ゲイ」のようなイメージだった。なんというか、ラテンのゲイっぽい田舎くささが抜けない人だなと思っていたら、本書でも記載されていたので、少し笑えた。ニューヨークのゲイは日本のゲイと同様「短髪・ダテメガネ・ピチピチTシャツ」がお約束なのかな?

「優男」は「優しい男」と「優れた男」のダブルミーニングだそうで、原題は「オカマ偉人伝」なんだそうな。芸術家にゲイが多いことを当然のように受け止めている私からすると、彼らの苦悩は意外にすら思えるが、考えてみたら、ガルシア・ロルカはファシズムの時代だから当然としても、アルゼンチンの1970年代の軍事政権やキューバのカストロ政権の弾圧なんてまったくもって前近代的だから、ゲイが容認されない世界なんだなぁと。3人ともニューヨークで己の本性を開花させることが出来たところが、さすがはニューヨークというべきだろう。

それにしてもプイグもアレナスももう亡くなってるんだな…と、今更ながらだが、残念に思う。というのも、バルガス=リョサやガルシア=マルケスが未だ精力的に本を書いているからなのだが。プイグの方は本書でも明確にはなっていないし、公には言われていないが、やはりAIDSの可能性を捨てきれない。アレナスはもちろんAIDSのせいだ。AIDSが心底憎い。

最初と最後にハイメ・マンリケ自身の自伝が書いてあったが、特に青年期までの自伝はラテンアメリカ作家のある意味土くさい感じがすごく好みだった。小説の方の翻訳が出ないかと期待している。

それにしても、どうして刊行から1年以上経過してからこういう本があることに気づいたのか。たまたま「プイグ」で検索したら出てきたのだけど、どうしてその前に気づかなかったのかとつくづく思う。

■著者:ハイメ・マンリケ著,太田晋訳
■書誌事項:青土社 2006.12.25 285p ISBN4-7917-6316-5/ISBN978-4-7917-6316-0
■原題:Eminent Maricones : Arenas, Lorca, Puig, and Me by Jaime Manrique, 1999
■目次
1 脚―幼年期と思春期の回想
2 マヌエル・プイグ―ディーバとしての作家
3 レイナルド・アレナス最後の日々―海のごとく深い悲しみ
4 フェデリコ・ガルシア・ロルカと内面化されたホモフォビア
5 もうひとりのハイメ・マンリケ―死せる魂
6 最近

2008年2月11日

楽園への道

楽園への道/マリオ・バルガス=リョサバルガス=リョサの2003年の作品が「河出世界文学全集」の第二巻として刊行された。この文学全集、初訳が少ないのだが、この巻は初訳で、全集の目玉の一つと言えるのではないだろうか。フローラ・トリスタンとポール・ゴーギャン。違う時代に生きた祖母と孫だが、共通点は波乱に満ちた生涯を送ったこと、そしてペルーである。フローラの父親はペルー人で、成人後ペルーを訪れ、得難い体験をしており、この女性が労働運動家・女性運動家として活動するきっかけを作ったのは、ペルーの女性たちの自由さだったという。また、ゴーギャンも幼い頃ペルーで過ごしている。特にゴーギャンの南方指向にはペルーでの幼児体験が大きく影響しているとリョサは考えている。

ゴーギャンの方は1892年4月に最初にタヒチに着いた時から物語は始まる。同年「死霊は見ている」はテハッアマナというタヒチに渡って2番目の愛人がモデルである。

床に敷いた敷布団の上で、裸でうつ伏せになったテハッアマナが、丸みを帯びた尻を少し浮かせ、背中をやや曲げて、顔を半分彼のほうに向けながら、動物のようにひどくおびえた表情で、目も口も鼻も引きつらせたまま顔をしかめるようにして、彼を見つめていた。

「マナオ・トゥパパウ」と名付けられたその絵は、ゴーギャンがヨーロッパではもう見つけることの出来ない何かに触れた、幻想的な経験だった。

1893年「神秘の水」(パペ・モエ)は中性的な少年を描いた、水彩画である。

花や葉、水、淫らな形をした石の森の真ん中で、岩にもたれ、渇きをいやすためか、その土地の見えない神をあがめるためか、その陰影のある美しい身体を小さな滝のほうに傾けている一人の人間である。

「アイタ・タマリ(ジャワ女アンナ)はゴーギャンがパリに戻った後、一緒に暮らした女性だが、その絵の裏には実はジュディットというモラール家の令嬢が描かれているというリョサの解釈が書かれている。

ゴーギャンが再び タヒチを訪れ、描いた「ネヴァーモア」はゴーギャンの子を妊娠中のパウッウラを描いたもので、失敗に終わった自殺を前に描いた大作「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」の詳細な解説もある。最晩年の「ヒヴァ・オアの呪術師」(妖術使いあるいはヒヴァ=オア島の魔法使い) の男とも女ともわからないように呪術師を描いている。このモデルになった人物も登場する。

というように、まずはゴーギャンの画集を購入した方が良いと思う。リョサ自身もゴーギャンの絵の入ったものを刊行することが希望だそうだが、それも当然だろう。

フローラ・トリスタンを知っている人はプロレタリア思想などに詳しい人だけではないだろうか。ジョルジュ・サンドは知っていても、フローラ・トリスタンは知らないのは仕方あるまい。リョサがこの人を発掘してくれなかったくれなかったら、私はずっと知らないままだったのではないだろうか。彼女の著書「ペルー旅行記―ある女バリアの遍歴」「ロンドン散策」は邦訳が出ている。

パリは世界でも最も女性の強い街だろうと思うが、こういう人たちが150年以上前にえらくひどい目に遭って、戦って勝ち得て来たものなのだろう。

ゴーギャンとトリスタンの二人の物語が交互に進行するが、互いに浸食し合うことはない。彼らの生涯のうち最晩年の頃が時系列に物語られつつ、彼ら自身が回想する形で遡って伝記がたどられる。騎士道物語の体裁をとっているそうで、突然語り手が主人公たちに語りかけるような調子が入るが、基本的に第三者の語り手のまま、混乱することなく進んでいく。

リョサの初期の作品に比べれば、小説技法としては拍子抜けするほどわかりやすく、画期的な試みは見られない。ゴーギャンとフローラ・トリスタンの手紙や著作などの歴史的事実をベースに著者が自由にフィクションを作り上げていることは見て取れる。だが、やもすれば普通の歴史小説のようで、少々物足りなさを感じてしまうのは私だけだろうか。量的には500ページ以上なので、充分すぎるほど充分なのだが…

■著者:マリオ・バルガス=リョサ著, 田村さと子訳
■書誌事項:河出書房新社 2008.1.10 516p ISBN4-309-70942-7/ISBN978-4-309-70942-0
■原題:El Paraíso en la Otra Esquina: Mario Vargas Llyosa, 2003

2008年1月 6日

愛その他の悪霊について

410509016X.jpg長編「コレラ時代の愛」と最近の「わが悲しき娼婦たちの思い出」の間に書かれた中編。後期というか、多分もう晩年の作品の一つと呼んでも良いのではないかと思う。物語の前段として、マルケスは1949年10月に自分が取材したサンタ・クララ修道院の納骨堂の遺骨撤去作業の現場を持ち出す。そこで22メートルの髪をもつ少女の頭蓋骨が出てきて、その少女の名前がシエルバ・マリア・デ・トードス・ロス・アンヘレス。修道院から22メートルの髪をもった頭蓋骨が出てきたことが事実かどうかを確認する作業は省略させてもらうが、事実でないとしても、ノンフィクションの体裁をとった幻想的な作品と言えよう。

両親の怠惰と無関心のせいで黒人奴隷の間で育ち、黒人の宗教(呪術?)や文化(アクセサリや衣装)を身につけて育った少女が狂犬病の犬に噛まれたことによって悲劇が始まる。先代のおかげで侯爵の地位にいる父親の無為無気力、砂糖の密輸などで興隆を極めた後、男やカカオ酒に溺れたことによって落ちぶれてしまう母親の怠惰ぶり、これはガルシア=マルケスらしい衰退の物語だ。

狂犬病にかかる=悪霊が憑くということで、父親は修道院に娘を追いやってしまう。神父カエターノ・デラウラは悪霊払いを行う。キリスト教世界の偏見の物語として読んでいるので、彼女は悪霊に憑かれてなんかいないという前提でいると、下記のような箇所にあたってしまう。

そして、デラウラは、ほんものの悪霊憑きの恐るべき光景を目にすることになった。シエルバ・マリアの髪は独自の生命を得てメドゥーサの蛇のように逆立ち、口からは緑色の涎が、そして邪教のことばの罵詈雑言が果てることなくあふれ出した。デラウラは十字架を振りかざし、彼女の顔に近づけ、恐怖のさなかで叫んだ――「そこから出ろ、何者なのか知らぬが、地獄のけだものよ、出ろ」

このシーンが読む者をたぶらかそうとしているような気がして、落ち着かなくなる。どう考えても、これではただの悪魔憑きではないだろうか?

200年前のコロンビアの「異端」に対する執拗な攻撃やそれに伴う少女の悲劇を、ガボは現代の何ととらえて物語ろうとしたのだろうか。

■著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス著, 旦敬介訳
■書誌事項:新潮社 2007.8.31 244p ISBN4-10-509016-X/ISBN978-4-10-509016-6
■原題:Del amor y otros demonios Gabriel García Márquez, 1994

2007年10月29日

悪い時 他9篇

悪い時 他9篇新潮社から出ている中編「悪い時」+集英社から出ている短編集「ママ・グランデの葬儀」の組み合わせだが、本来の刊行順に近いため、できれば一気に読んだ方が関連性が見えて良い。「悪い時」が群像劇だとすると、その中に出てくる端役の人たちが、「ママ・グランデの葬儀」に収録されている短編集にちりばめられている。「この村に泥棒はいない」のドン・ローケは町長ら街の人たちが集う酒場の親父。「バルタサルの素敵な午後」で義理堅いバルタサルが鳥かごを届ける先がモンティエル家。「モンティエルの未亡人」は少し頭がおかしいと言われるモンティエル夫人。「造花のバラ」でミナが袖のない服では礼拝に出られないと言った意味が「悪い時」で明かされる…といった具合。

「大佐に手紙は来ない」のじりじりとした感じ…。フランスであてのない手紙を待つ、困窮したガボの心情を反映しているそうだが、私はどうしても、最近頻発している餓死事件を思い出してしまう。10年前にこの手の餓死事件で最初のものが起き、母親の方の日記が本になって出版された(池袋・母子 餓死日記)。これがつい読んでしまって、もう壮絶で。つくづく読まなきゃよかったなと思った。「大佐に手紙は来ない」はそれがメインテーマではない筈なのだが、「飢え」の方に興味が行ってしまう。

ガボの短編の中でも「火曜日の昼寝」のような映画的な作品が好きだ。まるでクレーンに吊り下げられたカメラから見ているような記述方法、暑さやほこりっぽさが伝わって来る感じがいいなと。それにしても厳しい生活環境で子どもを育てたであろう母親の、なんと凜としていることよ。

「悪い時」は群像劇になっているので、登場人物を書き出さないと全部思い出せないくらいだが、どうも私には町長の顔が浮かんで来ないのだが…他のメンバーは割と自分なりに絵が出てくるのだが。あまりに象徴的な人物に感じられてならないせいかとも思ったりする。本当は全員書き出したいのだが、さすがに時間がない…。

■著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス著,高見英一,桑名一博,内田吉彦,木村榮一,安藤哲行訳
■書誌事項:新潮社 2007年6月26日 486p ISBN978-4-10-509010-4
■内容
大佐に手紙は来ない El colonel no tiene quien le escriba, 1958(内田吉彦訳)
火曜日の昼寝 La siesta del martes, 1959(桑名一博訳)
最近のある日 Un día de éstos, 1959(桑名一博訳)
この村に泥棒はいない En este pueblo no hay radrones, 1960(安藤哲行訳)
バルタサルの素敵な午後 La prodigiosa tarde de Baltazar, 1960(桑名一博訳)
失われた時の海 El mar del tiempo perdido, 1961(木村榮一訳)
モンティエルの未亡人 La viuda de Montiel, 1961(桑名一博訳)
造花のバラ Rosas artificiales, 1961(桑名一博訳)
ママ・グランデの葬儀 Los funerales de la mamá grande, 1962(安藤哲行訳)
悪い時 La mara hora, 1962(高見英一訳)

「悪い時」 高見英一訳 新潮社 1882.9.15 ISBN4-10-509003-8
「ママ・グランデの葬儀」 集英社 1982.12.25 ISBN4-08-760079-3

2007年8月13日

族長の秋 他6篇

族長の秋「族長の秋」は面白いガルシア=マルケスの作品の中でも特に面白いとまずは率直に思う。「百年の孤独」ほどではないが、これも3回目くらいの再読になるだろうか。荒唐無稽というか、デフォルメされすぎというか、グロテスクというかナンセンスというか、もう滅茶苦茶なんである。裏切ったかつての友を丸焼きにして祝宴に出す、宝くじの不正を隠すため2000人もの子供たちを乗せた船を沖に出して爆破する、妻子は犬に八つ裂きにされるし、列挙したらきりがない。

誰にでも読みやすいとは言えないかもしれない。改行のない文章が延々続く(改段は4ヶ所くらいだったように思う)。それから、語り手が不特定である。「わたし」だったり「われわれ」だったり、違う時代のはずなのに、同じような顔をしてでも異なった語り手が現れる。また、例によって時系列もぐちゃぐちゃで、死んだ後からスタートし、さかのぼったり、後ろへ行ったり、概ねもう年齢の行ったところから死ぬまでの流れにはなっているものの、ゆらゆらと揺れる感じがして、これっていつの話?などと思うのを止めてしまう。これだけでも相当読みづらいのだが、全然感じさせないパワーがあるし、何にせよおもしろいエピソードが満載なので、全然疲れない。

荒れ果てた宮殿をさまよう牛と孤独な独裁者のイメージ。そして足のつぶれた、ヘルニアの腫れ上がった、女のような手をした老いた独裁者。このイメージを決めて、語り口をあのゆら~っとしたやつに収めたところで、著者の勝ちだったような気がする。そしてそのイメージの世界に入り込めば、読む方も苦労せず、すっと楽しめるようになる。
ラテン・アメリカの複数の独裁者がモデルだそうだが、カリブ海沿岸の臭いはエクアドル、ホンジュラスあたりかな?海がないというあたりがボリビアっぽいし。あの辺の生ぬるい空気の感じをつかんでおくと、もっと楽しめる。

「族長の秋」は新潮社から全集の中の一冊→文庫で出され、その他の6篇はサンリオ→ちくま文庫の「エレンディラ」7篇の中から「失われた時の海」を除いた6篇。「エレンディラ」の映画ってDVDにならないのかなぁ。クラウディオ・オハラのコマーシャル、まだ覚えてる。すごい印象的だった。ビデオにはなっていたんだけど、DVDになって欲しい。そういや芝居が始まっているんだな。芝居で盛り上がって、DVDになってくれないかな。「大きな翼のある、ひどく年取った男」もDVDになって欲しい作品の一つ。

■著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス著,高見英一訳
■書誌事項:新潮社 2007年4月25日 446p ISBN978-4-10-509012-8
■目次:
大きな翼のある、ひどく年取った男 Un senor muy viejo von unas alas enormes(鼓直)
奇跡の行商人、善人のブラカマン Blacamán el bueno vendedor de milagros(木村榮一)
幽霊船の最後の航海 El último viaji del buque fantasma(鼓直)
無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語 La increible y triste historia de la cándida eréndira y de su abuela desalmada(鼓直)
この世でいちばん美しい水死人 El ahogado más hermoso del mundo(木村榮一)
愛の彼方の変わることなき死 Muerte constante más allá del amor(木村榮一)
族長の秋 El otono del patriarca(鼓直)

2007年6月30日

落葉 他12篇

蹴る群れすでに持っているものばかりなので、新潮社から再編集されているガルシア=マルケスの一連の新刊を買おうか買うまいか、ものすごく迷って、結局買ってしまった。というのも、読んだのがあまりにも前で、内容も細かいことは覚えていないし、同じタイトルでも収録作品が違い、時系列に再編集されているためだ。短編集「青い犬の目」(福武書店)の全編、「落葉』」(新潮社)から表題作、「ママ・グランデの葬儀」(集英社)から「土曜日の次の日」をまとめたもので、1947~55年の初期の作品を集めた短編集となっている。

「土曜日の次の日」「落葉」「マコンドに降る雨を見たイサベルの独白」をこうやって並べて読んでみて、なるほど、連作だと実感する。実を言うと「落葉」より「マコンドに降る雨…」の方が記憶に残っている。雨がずっと降りっぱなしだと、人間だらけていくというより感覚が鈍くなっていく感じがよくわかる。生きていく気力がなくなるというか、気迫が薄くなるというか、そういう感じがじわっと伝わってきて、妙にぬめっとした感じの残る作品だった。最後は晴れて本当に良かったなーと思うのだけど、そこら辺の決着の付け方がマルケスは初期の頃からとんでもなくうまい。

表題作「落葉」だけが短編ではなくて中編。大佐と呼ばれる祖父、その娘と孫の3人の意識が同時進行で進んでいく。この話、なぜかとてつもなく怖い。大佐は約束を果たすことで満足しているのかもしれないが、所詮老い先短い。残された娘と孫を永遠の孤独の中に閉じこめてしまう怖さがじわっと伝わってくる。で、あとがきを読んで「ダロウェイ夫人」の影響について触れられていて、なるほどなと気づく。

「三度目の諦め」の中にカフカの香りがぷんぷんする。「六時に来た女」はヘミングウェイのきざったらしさ(と私は思う)がそのまんま出ている。この短い会話のスタイルがオシャレに感じられたんだろうなぁと思う。この辺の作品は“修業時代”という感じが強くする。

「エバは猫の中に」はサンリオから出ているラテンアメリカ作家のアンソロジーの表題作にもなっているのでよく覚えている。寝ている少女から魂が抜け出して、猫を探しているときの浮遊感が妙に生々しく伝わってくる。この感じはずっと忘れられなかった。これからもきっと忘れないだろう。

■著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス著,高見英一訳
■書誌事項:新潮社 2007年2月16日 341p ISBN978-4-10-509009-8
■目次:
「三度目の諦め」 La tercera resignacion(井上義一訳)
「エバは猫の中に」 Eva esta dentro de su gato(井上義一訳)
「死のむこう側」 La otra costilla de la muerte(井上義一訳)
「三人の夢遊病者の苦しみ」 Amargura para tres sonambulos(井上義一訳)
「鏡の対話」 Dialogo con el espejo(井上義一訳)
「青い犬の目」 Ojos de perro azul(井上義一訳)
「六時に来た女」 La mujer que llega a las seis(井上義一訳)
「天使を待たせた黒人、ナボ」 Nabo, el negro que hizo esperar a los angeles(井上義一訳)
「誰かが薔薇を荒らす」 Alguien desordena estas rosas(井上義一訳)
「イシチドリの夜」 La noche de los alcaravanes(井上義一訳)
「土曜日の次の日」 Un dia despues del sabado(桑名一博訳)
「落葉」 La hojarasca(高見英一訳)
「マコンドに降る雨を見たイサベルの独白」 Monologo de Isabel viendo llover en Macondo(井上義一訳)

2007年3月21日

ガルシア=マルケスに葬られた女

ガルシア=マルケスに葬られた女ガルシア=マルケスの「予告された殺人の記録」のモデルとなったマルガリータ・チータの実像を追いかけたルポルタージュ。ルポルタージュのくせにわざと私信ふうなエッセイっぽい書き方にしているのは、「予告された殺人の記録」がいかにもルポルタージュ風に書いているのに、小説だと言い張るガボへの皮肉だろうか。

内容は小説家という生き物がいかに業の深い、情けのない生き物か、というよくあるお話。ガルシア=マルケスはマルガリータ・チータという人物の人生を自分の小説のモデルとしてとりあげたことでメチャクチャにした。にもかかわらず、彼女からの謝罪や訂正の要求を一切無視し続けた(彼女の死の直前に電話をかけたが、受けてもらえなかったというエピソードが入っているが‥)。

作家は、まずモデルとなった人物に取材をしておらず、事前に一言の断りも入れず本を上梓した。そのことを著者は非難する。だが、まず彼女自身に取材はできなかったと思う。すでにガボは小説家だったのだから、取材なんかしたら本に書くことがバレバレで、拒否されるのが明らかだったからだろう。それともカエターノが死んで彼の証言を聴けないのなら、マルガリータの証言も聴くべきでないと考えたのかもしれない。

この本の価値は最後の方、唯一のマルガリータのインタビュアーであるブラス・ピーニャの証言の部分だ。実際にマルガリータのインタビュー内容も載っている。彼女自身が家族の名誉のために受けたインタビューだが、著者は実際にブラスに会い、マルガリータが彼に対して嘘をついていたようには思えないと判断している。だから、真相と判断しても差し支えないのだろう。

著者は執拗に真相を求めているが、私は別に真相はわりとどうでも良いと思っている。もともと小説なのだし、カエターノなのかどうか微妙な感じで描いているのだから、そのまま受け取っておいた方が良いのだろうなと思う。「予告された殺人の記録」が真実を求めてのものではなく、「何故殺人が起こることがわかっていたのに、誰も止められなかったのか」というテーマを追いたかったものだから、この著者が何故ここまで真相に執拗なのか今ひとつピンとこない。

ただ、「予告された殺人の記録」の最後の部分、彼女が夫に手紙を送り続け、30年後1通も封を開けずにもってきた、というエピソードはいかにも嘘くさい。でも小説なのだからそれはそれで良いと思うのだが、モデル本人にとってみたら、一番気に入らないところなのだろうとは思う。

著者は明らかにマルガリータに対して同情的に書いているのだが、しかし彼女が結婚前にミゲルにはっきり言わなかったせいでカエターノが殺されたという事実をあまり重視していないように思われる。「結婚式初夜に処女でなかったことがわかったら実家に戻される」という風習自体がたとえ理不尽なものであったとしても、当時としては一般的なことだったわけだし、どういうことになるか明確にわかっていたのに何も言わなかった。そこに、この著者も認めているが、どこかで彼女が自分を裏切ったカエターノに対して「罰したい」という気持ちがなかったとは言えないのではないだろうか。

まぁ、ガボ愛好家にとっては、前出のブラスのインタビューやスクレという町の雰囲気なんかが少し参考になる程度かなというレベルです。

■著者:藤原章生著
■書誌事項: 2007年1月30日 246p ISBN978-4-08-781358-4
■内容:マルガリータ―de México/イシドロ―del Rio Magdalena/エスペランサ―de Sucre/ジーナ、マルタ、ウーゴ―de Sucre/ハイメ―de Cartagena/ハイメ、マーゴ―de Cartagena/ガブリエラ―de Cali/ルイサ―de Sincelejo/ルイサ―de Sincelejo/アマリア、ブランカ―de Sudáfrica,Sincelejo/ブラス―de Sincelejo/ブラス、ルイサ―de Sincelejo

2006年12月10日

コレラの時代の愛

コレラの時代の愛マジック・リアリズムではなく、ストレートなリアリズムで幻想的な恋を描く、1985年の長篇作品を今ようやく読むことができた。

51年と9ヶ月と4日の間、待ち続けたフロレンティーノ・アリーサより、50年以上の長きにわたり、連れ添ったフナベル・ウルビーノ博士とフェルミーナ・ダーサの夫婦愛の方が面白おかしく読んでしまうのも、それもまた私が平凡な人間だからなのだろう。最初は一応アツアツだったが、姑・小姑と同居すると見えてくる夫の優柔不断、愛の欠片を探して旅立ち、その後訪れる社会的にも家庭的にも充実した穏やかな時期、突然やってくる別離の時期、再び戻っていき、夫婦のまま片方は天寿を全うする。二人とも最初から愛があったわけではなく、それぞれの思いがあって結婚したが、少しずついろいろな苦難を越えて行く様がおもしろおかしく描かれている。二人ともきちんと自分の思いを表明して、戦って、対策を実行して、時間をかけて、関係を続けていくのは、本当に一言では表せない。ありきたりだが、紋切り型の言葉では表せないことを、実に微妙に語ってくれる。

「床に落ちたものは拾わない、明かりは消さない、ドアは閉めないという点では完璧な夫だった。」家事を任せたら何もできない。夫の浮気が発覚したため家出したら、2年も経てからようやく迎えに来てもらえて、それでももう失神しそうなほど嬉しい妻。人間ってわけのわからない生き物だなぁと、思わせるエピソードがさりげなくちりばめられている。

しかし、フロレンティーノ・アリーサの方もどこぞの恋愛小説の主人公のように、あるいは童話の主人公のようにただ待ち続けていたわけではなく、とても人間くさく、面白おかしく生きていた。その間の様々な女性たちとの関係も一筋縄ではなく、こちらの方も笑えるエピソードが満載。

どちらの愛がどうということではなく、それぞれが愛なのだなと納得させられる力業。何世代にもわたる歴史ドラマではなく、たった3人の生きた姿をこれだけの大河ドラマにしてしまうところが、さすが稀代の物語作家だなと思った。

映画が撮影中。「Love in the Time of Cholera」だそうだ。そのうち日本でも見られるといいな。

■原題:El amor en los tiempos del c&ocute;lera : Gabriel García Márquez
■著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス著,木村榮一訳
■書誌事項:新潮社 2006年10月28日 526p ISBN4-10-509014-3

2006年10月19日

わが悲しき娼婦たちの思い出

わが悲しき娼婦たちの思い出できることなら、「コレラ時代の愛」を読んでから、の方が良いと思ったのだが、待ちきれずつい読んでしまった。これは少し前に話題になった最新刊。マルケスの作品はかなりちゃんと邦訳が出ているのに、ずっと出ていなかった1985年の作品が「コレラ時代の愛」。順は追った方が良いと思いますよ、木村先生。まぁ、分量が違いますが。

川端康成の「眠れる美女」に想を得た、90歳になった老人が自分の誕生日祝いに娼婦を買うお話と聞いて、もっと隠微な内容なのかと思ったら、全然違った。90歳にして、このピュアさと前向きさ加減はいったいなんだ。老人の愛なんていうと、川端先生の真骨頂なところで、日本だとなんだか陰々滅々してしまうのが、このラテン文学の明るさと前向きさで押し切ってしまうところが、とてもいい。財産家の息子で、教養のあるコラムニストで、でも90歳になるまで独身。そして、自分で自分のことを醜男と言っているのだから、まぁ、何かとちくるって、娼婦を買おうとしているのかと思ったら、生涯で買った女性は5000人は越える遊び人。お金を払わないといけない人もいけなくない人も、ひとしくお金を払ったことしかないという、仰天な遊びっぷり。そして、90歳にして真実の愛に目覚めて前向きに生きて行ってしまうわけだ。無茶苦茶だな。

新潮社はこの後、過去に出したものも全部出し直すらしい。卑怯な。買うか、買わないか、結構迷う。というのも、すでに全部入手済みだから。一般的に手に入りにくい状況よりはいいけど、新装版を出されると、ちょっと憎いな。もちろん、自伝は買う予定だが、ほかのものは悩む。

■原題:Memoria de mis putas tristes : Gabriel Garcia Márquez, 2004
■著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス著,木村榮一訳
■書誌事項:新潮社 2006.9.28 ISBN4-10-509017-8 160p

2006年6月14日

ダイヤモンドと火打ち石

ダイヤモンドと火打ち石■原題:Diamantes y pedernales
■著者:ホセ・マリア・アルゲダス著,杉山晃訳
■書誌事項:彩流社 2005.6.15 ISBN4-02-250187-1
■感想

私は何故アルゲダスが好きなんだろう。

アルゼダスの作品にはちょっとわけのわからない詩や言葉がたくさん入って来る。インディオの言葉を日本語に翻訳するのは無理なんだろう。インディオの世界で育った白人で、アイデンティティは完全にインディオなのに、肉体は白人という、なんというか人種同一性症候群といったような症状を見せるアルゲダス。そのアイデンティティの不安定さゆえか。

インディオというと、やはり虐げられた民、先住民なのに白人に侮蔑され、搾取される対象であるというイメージがある。アルゲダス作品の中のインディオも、やはり同そのようなの扱いは受けているが、外から眺めた「かわいそうな」インディオとはまったく違う。独自のカルチャーをしっかりともち、骨太に大地に生きる民といった印象が残る描き方だ。それでも「哀しさ」は強く伝わって来る。

アルゲダス作品では、理知的だったり、優しさをもったりする人物がいるにもかかわらず、突然暴力的な場面が勃発することが頻繁に起こる。それが南米的な乱暴さと哀しさの両極端な面を感じるからかもしれない。静と動の差が激しい。

更に、今回はアルゲダスが後年悩まされた子供の頃のひどい性体験をセラピーのために書き記した面もあり、猥雑さが伴ってさらに複雑な世界になっている。

少々知恵遅れのインディオに優しくしていたのに突然爆発する郷士や、鋏をもって踊る戦士や、不思議な人物がたくさん登場する不思議な短篇集だった。

2005年1月 5日

魔法の書

魔法の書■著者:エンリケ・アンデルソン=インベル著,鼓直、西川喬訳
■原題:El Grimorio, 1961 : Enrique Anderson Imbert
■書誌事項:国書刊行会  1994.11.25 ISBN4-336-03597-0
■内容
魔法の書
将軍、見事な死体となる
ツァンツァ
亡霊
船旅
事例
身軽なペドロ
空気と人間

屋根裏の犯罪

水の死
決定論者の妖精
授業
ファントマ、人間を救う
解放者パトリス・オハラ
アレーホ・サロ、時のなかに消える
森の女王
ニューヨークの黄昏

■感想
何となく、アルゼンチンの作家だし、国書刊行会だし、文学の冒険シリーズだし、という気楽な感じで古書店で買ってしまった。あぁしまった。考えてみりゃそりゃあそうだ。今まで知らなかったアルゼンチンの作家なんだから、幻想文学に決まってるじゃん。南米文学好きのくせに、ボルヘスなど純(pure)な幻想文学がいまいち苦手だ(カサレスはそうでもないが)。理由は主に三つ。「短篇ばかり」(嫌いじゃないけど、長篇の方が好き)。「難しい」(のもあるし、そうでないのもあるが、難しい方が多い)。
三つ目は「時々気持ち悪いのがある」幽霊譚などは全然嫌いじゃないのだが、例えば本書でいうところの「将軍見事な死体となる」のカニバリズムや「ツァンツァ」の干し首の作り方など。何しろスプラッターがダメだ。「魔法の書」や「ニューヨークの黄昏」も別の意味で気持ち悪い。終わりのない物語とか、誰かの夢の中に自分が登場するので、夢から覚めたら消えてしまった、とか。うー怖いなぁ。
と文句言うわりには、それなりに楽しんでいたりするから、この手の本は不思議だ。こういうのを質が高いというんだろうか?

2004年12月11日

小犬たち/ボスたち

■著者:マリオ・バルガス=リョサ〈Mario Vargas Llosa〉著、鈴木恵子、野谷文昭訳
■原題:Los jefes, 1967/Los cachorros, 1959
■書誌事項 国書刊行会 1978.3.30(ラテンアメリカ文学叢書7)

■内容:
「小犬たち」:クエリャルは少年期に性器を犬に食いちぎられるというショッキングな事件に遭う。だが、スポーツに熱中して普通の少年として成長し、ハンサムでスポーツ万能の青年になる。だが思春期になり、仲間に彼女ができるようになると、大いに悩むようになって‥。
「ボスたち」:昨年まで発表されていた学期末試験の時間割が今年になって発表されなくなった。中等科3年の4人は学校当局への抗議ストにたった。低学年の少年たちのスト破りなどに合い、ストの行方はどうなるのか。
「決闘」:日頃から憎み合っていた「ちんば」とフストがついに決闘するとレオニーダスが告げた。フストの友人たちは決闘を見届けに行く。
弟:妹に乱暴を働いたインディオを追ってダビーとフワンの兄弟は山に入って行く。インディオに発砲したのは都会から帰って来た弟のフワンだった。家に戻ると、インディオがどうなったのか妹が知りたがったが、その理由は‥。
「日曜日」:ミゲルはGFのフローラをルベンが狙っていることを知り、気が気でない。ルベンはスポーツ万能で女の子にモテモテだから、フローラを取られてしまうかもしれない。フローラの友達の女の子がルベンを紹介する手はずになっているらしい。その日曜日の午後、ミゲルは邪魔をしてやろうと、仲間の溜まり場に行き、ルベンを酒に酔わせて行かせまいとする。ミゲルの挑発にルベンはのり、海で決着をつけることになる。二人は極寒の冬の海に飛び込むが‥。
「ある訪問者」:ドニャ・メルセディータスの安宿にジャマイカ人の男がやって来る。おたずね者のヌーマを逮捕するため、警察が刑務所に入っていたこのジャマイカ人を利用し、仕組んだ罠だ。果たしてヌーマはやってくるのか‥。
「祖父」:ある日老人は子供のものかと思われる髑髏を拾う。孫を驚かそうと、この髑髏の中に入れるろうそくを買い、髑髏の汚れをぬぐう。そしてこっそり庭に忍び込むが‥。

■感想
バルガス=リョサを一から再読してみようかと思う。いつ終わるのかわからないが。

「小犬たち」は「ボスたち」の8年後に書かれた中篇。とてもポップで軽快な文章で、俗語を多く含み、若者たちの仲間意識の高さを現しているように思われる。少年期から青年期への仲間たちとの交流の中で、少しずつ大人になっていく姿は普通の少年そのものなのだが、滑稽でとても哀しい短篇。マチズモの南米だから、というばかりではないだろうが、周囲の少年たちの無理解が寂しい。自暴自棄な人生を歩むしかなかったクエリャルを遠巻きに見て中産階級の大人になっていく仲間たち。その両方を鮮やかに対比することによって中産階級の青年たちの無神経さやだらしなさが強く感じられる。

「ボスたち」は著者の処女作にして数少ない短篇集。非常に軽快なリズムだが、切れ味の鋭い言葉で紡いでいく短篇集。「ボスたち」はストの先頭に立った少年たちのやわな「ボス猿」っぽさを皮肉ったタイトルなのだろうか。「決闘」にはラストにリョサお得意のオチというようなものが見られる。しかし決闘した彼は生きているんだろうか?「弟」は都会の感覚をもった弟と野蛮な兄と無茶区茶なわがままさをもつ妹の対比でペルーの田舎と都会のメンタリティの差が現れている。「日曜日」は女の子を争って命を落とすかもしれない危険な決闘をする若者のお話。実にバカバカしいマチズムに支配された若者たちを、緊張感のある文章で描いている。「ある訪問者」は記念すべきリトゥーマ軍曹が初登場するお話。「緑の家」だけでなく、この後いろいろなところに顔を出すキャラクターである。ストーリーとしては非常に愉快なオチのある話だが、まるで西部劇のような一幕ものである。「祖父」はちょっと面白さがわからない‥というか髑髏のグロテスクさにちょっとイヤな感じがしてしまう。孫を驚かそうとする無邪気な老人の話なのだけど、この孫が受けた印象を思うと、南米の暴力的な寓話なのかなと思ってしまう。
全体として「暴力」や「マチズム」を取り上げ、そのばかばかしさ、虚しさを訴えているような気がした。"

2004年10月25日

ガルシア=マルケス新作 Memoria de mis putas tristes

Memoria de mis putas tristesマルケスの新作発売-10年ぶり、スペイン語圏で
ラテンアメリカ文学の巨匠マルケス、最終修正で海賊版も退治

めでたい!やぁやぁ。生きててよかったす。
でも「私のメランコリーな娼婦の想い出」‥?。
どこか手を出してくれないかなぁ。国書刊行会でも集英社でも何でもいいから。

2004年10月24日

世界文学のフロンティア 3 夢のかけら

世界文学のフロンティア 3 夢のかけら■著者:今福龍太編
■書誌事項:1997.1.10 岩波書店 ISBN4-00-026143-6
■内容
死者の百科事典―生涯のすべて(ダニロ・キシュ著,山崎佳代子訳)
海岸のテクスト(ガブリエル・ガルシア=マルケス著,旦敬介訳)
最後の涙(ステーファノ・ベンニ著,和田忠彦訳)
一分間(スタニスワフ・レム著,長谷見一雄訳)
災厄を運ぶ男(イスマイル・カダレ著,平岡敦訳)
ユートピア奇跡の市(ヴィスワヴァ・シンボルスカ著,沼野充義訳)
ゆるぎない土地(ヴォルフガング・ヒルビッヒ著,園田みどり訳)
魔法のフルート(ボフミル・フラバル著,赤塚若樹訳)
かつて描かれたことのない境地(残雪著,近藤直子訳)
コサック・ダヴレート(アナトーリイ・キム著,有賀祐子訳)
ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし―見えない都市(エステルハージ・ペーテル著,早稲田みか訳)
金色のひも(アブラム・テルツ著,沼野充義訳)

■感想
「夢」を扱っていると単純に考えると幻想文学のアンソロジーのように一瞬思われるが、テーマは「ポスト・ユートピア」である。「実現されたユートピア」であるロシア革命に対する反ユートピア文学は社会主義批判の作品である。そしてその後の文学は?ということになる。となると単純に旧東ドイツの作品かと思われるが、そう簡単なくくりでもない。確かにこの中の「ゆるぎない土地」は旧東独出身の作家の手によるものだし、チェコやロシアから亡命した作家の作品もあるのだが‥。
ガルシア=マルケスの「海岸のテクスト」を読みたくて買ったのだが、これは本当にほんの一部だった。なんだか不動産情報誌に載っている「吊り」の物件のようだが、他がはずれてないので文句はない。印象に残ったものだけ。
「死者の百科事典」は死んだ人のすべての行動を記録した百科事典。全員掲載されているわけではないが、対象となった人物の誕生から死までをとある委員会が影ながら見守って報告し、まとめたものだ。非常に詳細なディティールを客観的に記述したものとなっている。これを娘が読む話だが、どこかで同じようなアイディアの作品を読んだことがあるような気がするのだが思い出せない。多分ラテンアメリカ作家の短編だと思うのだが‥。ダニロ・キシュはセルビア語で書く作家というか、旧ユーゴスラビアを代表する作家。東京創元社から同名の短編集「若き日の哀しみ」が刊行されている。
「最後の涙」はイタリアの作家。学校が舞台の作品はどうも苦手なんだな。学校が嫌いだったわけじゃないが、教師が嫌いでね。「聖女チェレステ団の悪童」は売れたようだ。
「災厄を呼ぶ男」のイスマイル・カダレはアルバニアの作家。映画「ビハインド・ザ・サン」はイスマイル・カダレの小説「砕かれた四月」を原案としたもの。この映画の監督は「モーターサイクル・ダイヤリーズ」のウォルター・サレス監督だったりする。ご縁だなぁ。この人の作品は単行本で出ている。
「ゆるぎない土地」は前述のように旧東独出身の作家の手によるもの。他の訳出されたものは
「魔法のフルート」はチェコの作家、故ボフミル・フラバルはちょっと読んでみたいと「世界×現在×文学 作家ファイル」を読んで思っていた作家だ。雑誌「すばる」のチェコ特集とこのアンソロジーにしか入っていないのが残念。単行本出ないかなぁ。こちらのホームページに作品が掲載されている。

2004年10月13日

世界文学のフロンティア 5 私の謎

世界文学のフロンティア 5 私の謎■著者:今福龍太編
■書誌事項:1997.2.10 岩波書店 ISBN4-00-026145-2
■内容
〈わたし〉をめぐる揮発性の原理(今福龍太)
だれでもない人々(フェルナンド・ペソア著,菅啓次郎選・訳)
雨に踊る人(アルトゥーロ・イスラス著,今福龍太訳)
暗闇にとりくむ(ジミー・サンティアゴ・バカ著,佐藤ひろみ,菅啓次郎訳)
『ヴォルケイノ』より(ギャレット・ホンゴー著,菅啓次郎訳)
シャム双生児と黄色人種―メタファーの不条理性を通して語る文化的専有とステレオタイプの脱構築(カレン・テイ・ヤマシタ著,風間賢二訳)
『ザミ 私の名の新しい綴り』より(オードリー・ロード著,有満麻美子訳)
記憶の場所(トニ・モリスン著,斎藤文子訳)
『私の父はトルテカ族』より(アナ・カスティーリョ著,今福龍太選・訳)
裸足のパン(ムハンマド・ショクリー著,奴田原睦明訳)
写真に抗して(アンドレイ・コドレスク著,菅啓次郎訳)
物語の終り(レイナルド・アレーナス著,杉浦勉訳)

■感想
レイナルド・アレナスの「物語の終り」を読みたくて買ったのだが、ついでに他の作品も読んでみると、これがまた非常に濃い。一作ごと読むのがたいへんだ。全体のトーンとして、何らかの形でマイノリティに所属するたちの物語である。
フェルナンド・ペソアはポルトガルの詩人。ヴェンダースの「リスボン物語」で言及されていたのを思い出す。アルトゥーロ・イスラスはメキシコ系アメリカ人(チカーノ)文化の先駆者。ジミー・サンティアゴ・バカもやはりチカーノで、自伝的なエッセイ「暗闇にとりくむ」の暗闇とはチカーノたちがみなもっている暗闇を正面から見つめたものだ。
「ヴォルケイノ」のギャレット・ホンゴーはハワイの日系三世だが、幼いうちにロサンゼルスに転居し、ティーンエイジャーの時代をそこで過ごし、大学以後、アメリカの諸都市に住む。「ヴォルケイノ」では結婚してハワイに帰って暮らしていた頃のことが描かれている。祖母は日本人の芸妓だった。そしてその息子である自分の父親の孤独な人生。ホンゴーの日本人としての系譜、ハワイ人の系譜、そしてアメリカ人としての育ち。最終的に「帰郷」した気持ちを見つけるまでの物語である。
カレン・テイ・ヤマシタの小説も何というか、複雑なもので、ヤマシタの書いた小説に対する論文という形式をとっているが、そんな小説はもちろんない。論文の注がマジメに探すと実は本物も混じっているらしいが、私には当然わからない。アジア系アメリカ人だ。
オードリー・ロードは黒人でレズビアン。またまた二重の意味でマイノリティ。今でこそ「黒人」はマイノリティなのか?だが、1960年代だから、それはもうマイノリティだ。詩とノンフィクションを書くので、どうも小説はないようだ。この作品が当初の目的だったアレナスを除くと一番面白かった。
「裸足のパン」はアラビア語で書くモロッコ方面の作家。悲惨な物語だが、こういうピカレスク文学は大好きだったりする。
さて、アレナスだが、遺稿集の中の一品で、美しいが死の予感に充ち満ちた、少々陰鬱な作品。この人はエネルギッシュなものばかりなので、こういう静かなものは意外だった。もっと翻訳出ないかな。
もう最近は国際情勢が複雑で、○○という国の作家、というのは意味をなさず、○○語で書く作家という表記をするよりほかない。独文は昔からそうで、スイス、オーストリア、ドイツの三国にまたがるので、私たちは「ドイツ語で書く作家」だと教わって来た。旧ユーゴや旧チェコ・スロヴァキアも、それぞれ言語があり、何語を選択するかも作家の主義主張や背景を映し出すため、非常に重要な要素になる。

2004年7月10日

天使の運命

天使の運命 上天使の運命 上■原題:Huja de la Fortuna ; Isabel Allende ,1999
■著者:イサベル・アジェンデ著,木村勝美訳
■書誌事項:PHP研究所 2004.3.2 ISBN4-5696-2826-5,4-5696-3262-9
■感想
23ヶ国で400万部を売ったそうだ。イサベル・アジェンデが愛娘パウラを亡くした後、数年のブランクを経て出したフィクション。Amazon.co.jpでスペイン文学に分類されておらず、刊行に気づかなかった。ジュンク堂書店で見つけたのだ。なになに?「世界23カ国で大ベストセラーとなった恋愛大河小説」??むむむ…。元々文学くさいところは少ない人だし、いわゆるノベルズ扱いされている作家だからなぁ…どうしよう。読もうかなぁ。メロドラマは大丈夫だと思うけど、ハーレクインとか1ページ目で挫折しちゃうタイプだもんな…。これまでずっと国書刊行会だったのが、PHPに移ってるってことは、そういうことなんだろうなぁ。

実際、上巻の1/3まで読み進めたところでげんなりしてイヤになってしまった。もう少し頑張ろうと思って読み進めて、でも2/3で挫折。そこからブランクを経て、何とか上巻を読み終えたら、後は早かったなぁ。ローズの恋愛話が最初の1/3ね。で、エリサとホアキンの恋愛話が2/3ね。あのー。ハーレクインですよね、やっぱり。無意味な官能の世界は…。うんざり、げっそり。でも中国へ話が飛ぶと、なかなかなんである。

下巻に入ると、実際のところ恋愛物語は全然関係なくなってしまう。サンフランシスコおよびカリフォルニアの建設の歴史というか、ゴールドラッシュを描いて行くのである。これは面白かった。登場人物が増えるし多彩になる。著者はチリ出身だが、サンフランシスコ在住のため、なんだこれが書きたかったんだね、と。白人とヒスパニック、中国人らのそれぞれの姿をそれなりには書けてるような気がするなぁ。それなり、だけど。
恋愛小説のわりに問題となった主人公の恋愛には最後にあっさりした、というか冷たい「恋に恋してただけだよね」という結論をつけてしまう。これはハーレクインを要求する人を裏切ってないか?まぁ、あのまままた出会いと別れを繰り返し…なんてやってたら、もう全然歯が立たず読み進めることが出来なかったんだが。

安手のラブロマンスのふりをして、実際そういうところもあったりする。が、ちゃんと裏切ってもいる。実に中途半端な作品だ。まともな教養小説になりそうな気配を感じさせながら、これも中途半端。従来のイサベル・アジェンデのラインまで戻ってくれないかな。とにかく必然性のない、無意味なめくるめく官能の世界だけは勘弁して下さい。
でもって、三部作の第一作だそうだ。続きが刊行されたらどうしよう…。

2004年6月22日

フリアとシナリオライター

フリアとシナリオライター■原題:La t´ia Julia y el escribidor, 1977
■著者:マリオ・バルガス=リョサ著,野谷文昭訳
■書誌事項:国書刊行会 2004.5.31 ISBN4-336-03598-9
■感想
国書刊行会「文学の冒険シリーズ」第一期の目録に掲載されたのが、約15年前だそうだ。私がリョサの「緑の家」を読んだのがもう10年くらい前になるのかなぁ。その頃から「まだ出ないのかなぁ」と思っていた。この度ようやく翻訳が出た。

15年前というと1990年頃。やはり映画「ラジオタウンで恋をして」が製作されたからでしょう。すぐに出せれば良かったんでしょうけど、タイミング逸してずるずると…って感じかな?そんな簡単に翻訳できるような量じゃなかった。ちなみに、先に映画を見てしまったので、マリオくんはキアヌ・リーブスの顔で刷り込まれてしまった。

バルガス=リョサが若い頃ペルーのラジオ局に勤めていたこと、親戚で年上の女性と結婚したことは事実らしいが、それ以外は基本的にフィクションと思われる。シナリオライターであるペドロ・カマーチョなる人物が想像の人物かどうかはともかく、リョサのある意味分身だろうという後書の説には納得。元々作者は自伝的要素をベースにリアリズムあふれる作品を書くタイプ。初期はばりばりのシリアスだったのに、この頃は「パンタレオン大尉と女たち」なんかも書いていて、スラップスティックコメディがお得意だった時期。実際面白い。何が面白いって、シナリオの方。

本作は「マリオ(自分)とフリアおばさんの恋愛物語」「ペドロ・カマーチョの書いたラジオドラマのスクリプト」が概ね交互に来るという構成になっている。全部で20章なのだが、9章はスクリプトにあてられている。壮大なメロドラマで、読む者をわくわくさせておきながら、常に「こうご期待」で終わるそのシナリオはどうなるのか?

ちなみに、映画の方ではそのいくつかだけをピックアップし、最後にちゃんと落ちをつけている。また、映画ではアルゼンチン人がアルバニア人になっている。映画の鑑賞人口を考えると当然の配慮か。

マリオの「同国人の人と結婚したいと思っているのだが…」の返事にカマーチョが実はボリビア人ではないことが伺われる。オチはちょっと悲しいな。

2004年5月31日

ロサリオの鋏

ロサリオの鋏■原題:Jorge Franco : Rosario Tijeras, 1999
■著者:ホルヘ・フランコ著,田村さと子訳
■書誌事項:河出書房新社 2003.12.30 ISBN4-309-20398-1
■感想
コロンビアはメデジン出身の作家、ホルヘ・フランコは「百年の孤独」のガルシア=マルケスの系譜を継ぐと言われる。実際ガルシア=マルケス自身がそう言ってるし、バルガス=リョサの評価も高い。まずベストセラーになった、売れた、という事実が大事。久しぶりにラテンアメリカ作家で売れる作家が出た、ということが出版界としては大きいことなのだ。大型新人であることは確かだろう。

一気に読ませるパワーのある小説。一言で言うとそういうこと。暴力とドラッグ。その暴力がまたクールな殺人なのだ。映画館でポテトチップスを食べてるのがうるさいからと言って腹にズドンと一発だし、急ブレーキをかけて追突したとごちゃごちゃ言われたからとズドンと一発だ。日本のやくざやアメリカのマフィアの原始的な形と言っていいだろう。コロンビアはサッカー選手が殺されるような国だからねぇ。

メデジンと言えば、メレジン・カルテル。1980〜90年頃にアメリカに麻薬戦争をふっかけたマフィアのことですが、このあたりのことが背景になっている。若い人にとってマフィアに雇われることは貧困から抜け出すこと。兄とその親友が雇われ、自分自身もその道に入り込む主人公。しかし、ロサリオってのは殺し屋なんだろうか?そう解説にはあるのだが、仕事としての殺しは描かれていない気がするんだけどな。兄貴は鉄砲玉だけどね。かといって、マフィアの情婦といったふうでもないし…。

ロサリオ・ティヘーラスのティへーラス(鋏)というのは日本で言うところの「緋牡丹お竜」みたいなもので、呼び名というかあだ名というか冠のようなものらしい。このロサリオに巻き込まれるいいとこのボンボンが主人公。友達の恋人を好きになって、自分の気持ちを抑えながら、恋人とは違う濃密な関係を築くのだ。彼が、ロサリオとの日々を時間は前後しながらも追想する形をとっている。最後の最後にこの語り手の名前が出てくるところがいい。こういう落とし方は好きだな。

この小説は映画になるらしい。カメラがパンをするみたいに場面場面が描かれているので、非常に映画向けな作品だと思う。たとえば殺人のシーンや墓地のシーンなど、ちょっと非現実的な場面にそれが顕著である。日本で公開されるといいな。

2004年5月20日

マジカル・ラテン・ミステリー・ツアー

マジカル・ラテン・ミステリー・ツアー■著者:野谷文昭
■書誌事項:五柳書院 2003.12. ISBN4