最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

ラテンアメリカ文学

2012年1月22日

悪い娘の悪戯/マリオ・バルガス=リョサ

悪い娘の悪戯あまりの読後感の良さに、この本から去りがたく、もう一度最初から最後まで読んでしまった。これは純愛小説と言えるのだろうか。1950年代から40年余にわたる一組の男女の愛の物語......というと、まるで映画のようだが映画にするには内容が濃すぎるようだ。

読み始めたときはバルガス=リョサがこんなものを書くのかと、ちょっと驚いた。コメディであれば「フリアとシナリオライター」、エロティックな小説であれば「継母礼賛」「官能の夢」がある。けれど、いずれも構造はリョサらしい入れ子構造の語り口で、幾分か実験的なものや幻想的なものが含まれていた。ところがこの作品はどストレートな恋愛小説のようで、すんなりと読めてしまう作品だ。

ただ、どこにでもある恋愛小説と少し違うのは、その時代の世界情勢や流行といった時代背景を描いていること、海外へ移住した人間から見たペルーの現代史を追っていることだろう。1950年代のリマ、1960年代のパリのカルチエ・ラタン近辺、1960年代終盤から70年代にかけてのロンドンのヒッピーや外国人のたまり場アールズコート、1970年代末頃の東京、そしてパリへ戻り、最後はスペインのマドリー、フランス南西部地中海沿岸のセートで終幕を迎える。

niña mala(ニーニャ・マラ)は書名通りの「悪い女」で、最初はリリーと呼ばれていたが、次々と名前が変わるため、結局ずっとニーニャ・マラと呼ばれることになる(本名は最後の方に判明する)。主人公のリカルドは niño bueno(ニーニョ・ブエノ)と呼ばれるが、これは直訳の「良い男」というよりは日本でいうところの「(どうでも)いい人」に近いと思われる。書名の「悪い娘の悪戯」はかなり考えた末のものだろうと思うが、「ニーニャ・マラの悪戯」でもよかったような気がする。

以下、ネタバレになります。


貧しい生活から抜け出したいという野心をもったニーニャ・マラだが、結局何がしたかったのだろうか。死ぬまで自分でもよくわかっていなかったのではないか。最初はとにかく贅沢がしたい、いい生活をしてちやほやされたい、というところから出発していて、手段は何でも良いと思っている。しかしキューバの軍事訓練に応募するところがかなり無茶だなと思うのだが、それしか方法がなかったのか。外国に出さえすればなんとでもなると思ったのか。

キューバの司令官の情婦→フランスの外交官の妻へと登っていくが、外交官は実際のところさほど金持ちではない。それでもパリでの生活が気に入って楽しんでいるようにも見えたのだが、夫に満足できないからか、イギリスへ夫の財産をもって逃げる。もちろん男と一緒だろう。

次にイギリスではかなりの富豪の夫人となり、贅沢な生活をして世界中を旅して楽しむが、夫の家での環境になじめず、退屈で暇をもてあましている。そこで今度は慰謝料をとって逃げようとしたが、過去がばれて失敗。東京へ移動する。そこで怪しいビジネスをしている男の愛人となり危険な仕事をして、初めて「何かの役に立つ」ことに喜びを覚える。そして、過去に男に支配されることのなかった彼女はフクダに支配され虐待されることに依存してしまった。命からがら逃げ出して、パリに舞い戻る。

その間、ずっとリカルドは彼女を追い求め、祭り上げる以外に何をしたのか。何もしていない。しかしこの時点で初めて彼女の役に立つことをする。相手が弱っているときだから出来たことかもしれないが、さすがに年月が経過して貧乏だった彼も少しは使える金が出来ていたのだろう。病気療養中、金銭面でも精神面でも彼女を助ける。

ところが、また彼女は逃げ出す。が、一度は逃げ出したもののすぐにまた舞い戻って来る。それは何故なんだろう?さすがにリカルドに悪いと思ったのか、それとももう肉体的に女性を武器に生きていくことは厳しいと思ったのか。どちらかというと後者なような気がする。そこできちんと結婚し、働いて、主婦もするという平凡な生活を歩む。何かの役に立てるという喜びを上手にコントロールできなかった東京での生活での反省もあるのだろう。計算すると、7~8年はこの生活をしているように思えるのだが、間違っているかもしれない。

結局またそこから逃げ出すことになるのだが、それは彼女の言うとおり「平凡な生活に耐えられなくなった」のだが、結果的には「最後の花火を打ち上げた」形になってしまっている。

金持ちの妻になるのは良いが、結局夫の財産や職業に生活が左右されるのは間違いないわけで、それなら夫の財産をベースに自分で事業でも興した方が良いし、出来るだけの能力・胆力もおそらくある彼女なのだが、そうはしない。一方で自分の力で好きなことが出来るだけの仕事や家庭をもっても、逆に縛られていると感じてしまったようだ。結局のところ、彼女が望んだのは「冒険に満ちた人生」なのだろう。

ずっと一方的に追いかけていたニーニョ・ブエノだけれど、最後にはニーニャ・マラに必死で探し求められる。上記でパリに舞い戻るまで彼女に対して「何もしていない」と書いたが、長い間ニーニャ・マラの精神的な支えであり続けたように思える。純粋に自分を追い求めてくれる男がいたら、それだけで辛いときにも強気になれるものだ。リカルドの気持ちが報われたことが、この物語のさわやかな読後感の理由だと思った。


■書誌事項
マリオ・バルガス=リョサ著,八重樫克彦,八重樫由貴子訳
書誌事項:作品社 2012.1.5 426p ISBN978-4-86182-361-9
原題:Travesuras de la Niña Mala : Mario Vargas Llosa, 2006

2011年12月15日

崖っぷち/フェルナンド・バジェホ

崖っぷち/フェルナンド・バジェホコロンビアの作家の小説で舞台がメデジンと聞くだけで、ホルヘ・フランコ「ロサリオの鋏」のような麻薬とゲリラと暗殺者、といった雰囲気を想像したら、トーマス・ベルンハルトだった、といった感じ。実際このフェルナンド・バジェホには映画化された「暗殺者の聖母」という作品があり、これがシカリオ(暗殺者)の物語で、どちらを訳すか迷ったという話が訳者あとがきに記載されていた。

思わずトーマス・ベルンハルトと言ったが、「夜になる前に」のレイナルド・アレナスもその傾向がある。罵倒罵倒、すがすがしく罵倒。なので一気に読める。

主人公がエイズに犯された弟の見舞いに実家に帰って来たところから話は始まる。遡って父親が死んだときの話や、弟とニューヨークで暮らしていた頃の話も出てくる。読んでいくうちに主人公の家庭が裕福であることに気付く。父親が大臣を経験したこともある政治家であり、兄弟も多く(そこがまた母親への憎悪の理由になるのだが)、実家も大きなお屋敷のようだ。それが弟と二人で不法移民として暮らしていたニューヨークでは守衛、トイレ掃除といった仕事をしている。NYで社会保障に守られている黒人への罵倒は編集部が後書きの後に一言断りをいれたのもわかるほどの内容だ。

ここで罵倒されているのは国(コロンビア)、宗教(カトリック)、女(母親)。その三種類を繰り返し罵倒する。とにかくしつこい。自伝的な色の強い作品で、バジェホ自身5人兄弟の長男。父親は新聞社を経営したこともある人物で、母親の姓の「レンドン」は作品の中でも罵倒の対象として何度も出てくる。表紙の写真は作家本人と弟の子供の頃の写真だそうで、後ろの方が本人。この美しい時代の後に二人は実際にどうなって行くのだろうか?作品の中では悲惨な行く末となるのだが。

主人公は母親や他の兄弟たちは罵倒するが、父親とすぐ下の弟ダーリオへだけは掛け値のない愛情を抱いている。しかしダーリオがエイズになったのはゲイだからであって、弟をゲイへと導いたのは主人公自身だ。

ところで、本当は何人兄弟なのだろうか?23人とか20数人とか言う数字が出てくるが、それはお話としても少々現実味に欠けるので、最初に出てきた9人が正しいのだろう。長男・フェルナンド(主人公)、次男・ダリーオ(エイズで死にかけ)、三男・シルビオ(25歳で自殺)、[以下順不明]弟・アニバル(その妻ノラは父親の屋敷に住んでいる)、弟・カルロス、妹・グロリア、妹・マルタ、弟・マヌエル、末っ子・グエン・グエポン。作家の本当に兄弟の数は5人だそうだ。

フェルナンド・バジェホは1942年生まれだから70歳近い。作家になる前に映画監督をしていたせいか作家デビューが43歳のときと遅いせいか、意外に年齢が高い。それにしても初翻訳とは。先に挙げた「暗殺者の聖母」も訳して欲しい。


■書誌事項
フェルナンド・バジェホ著,久野量一訳
書誌事項:松籟社 2011.12.8 212p ISBN978-487984-298-5(創造するラテンアメリカ 1)
原題:El Desbarrancadero : Fernando Vallejo, 2001

2011年10月27日

ブエノスアイレス食堂/カルロス・バルマセーダ

ブエノスアイレス食堂「猟奇的」とオビに書いてあったので、その辺は覚悟しつつ読み始めるが、のっけから衝撃。すぐに話が変わり、ほっとして読み進めるが、時折ちらちらと彼=セサル・ロンブーソの影が見えると、少々身構えるような感じになってしまう。

気を取り直そう。この作品の内容は白水社のページを見た方が早いので省くが、アルゼンチン移民の年代記なのだ。面白くないはずがない。前世紀から約四代にわたり、母系を軸として受け継がれていく食堂の物語。最初は船乗りの双子の兄弟。順風満々だったのが、突然の死。叔父とその子供達が引き継いでいく間にも戦争があり、戦後の軍事政権があり。夫が死んだり、レストランが焼かれたり、夫婦で殺されたりと波瀾万丈ながら、なんとか生き延びていく食堂。料理人たちはみな料理に情熱をもつ気持ちの良い職人たちばかりだ。

そして、この食堂がビストロなのだけど、実際は結構高級なイタリアンレストランなのだ。マル・デル・プラタへ休暇でやってくるような要人や富裕層が大勢やって来るようなお店だが、庶民も来店している。料理が主役の文学作品は好きだ。「バベットの晩餐会」「赤い薔薇ソースの伝説」「柘榴のスープ」などが瞬時に思い起こされる。食材や調味料の大量の言葉を浴びてすっかりうっとりとしてしまった。

アルゼンチン移民史と料理史。この二つで充分おなかがいっぱいなのに、その上「猟奇的」と来られたら...。

セサル・ロンブーソという人物の心理はほとんど出てこない。当然のことかもしれない。彼は生まれついての狂人なのだから。彼の心理はわかるはずはない。だから、余計に不気味なのだ。彼の時代に来る前までがみんなわかりやすい人物ばかりなのだが、不気味なのはセサルだけではなく、叔母や叔父という人物がやはり少々薄汚れた感じが否めない。これが一気に変わっていくわけではなく、流れの中にセサル・ロンブーソの生い立ちも入ってきたりするので、なんだか南の島でジョーズがひそかに現れるような気配を感じつつ読み進めていった。

「アルゼンチン・ノワール」はみんなこんなに怖いのか?著者の他の作品、あるいは最近のこの分野の作品に興味はそそられた。

■書誌事項
カルロス・バルマセーダ著,柳原孝敦訳
書誌事項:白水社 2011.10.25 227p ISBN978-4-560-09018-3 (エクス・リブリス)
原題:Manual del canibal : Carlos Balmaceda, 2005

2011年8月 8日

紙の民/サルバドール・プラセンシア

紙の民奇想天外というか奇妙キテレツというか、とんでもなく変な小説。アメリカ西海岸におけるチカーノ文学にこんなものが登場したのか。今年出た本では「オスカー・ワオ」に匹敵するかというくらい。どうもラテン系移民のアメリカ文学は今とても「来ている」のかもしれない。

「紙の民」は文字通り紙で出来た人のこと。創世記のような壮大な物語が始まったかと思うと、物語はいくつかに分岐していく。フェデリコ・デ・ラ・フェとメルセドの夫婦、それに娘のリトル・メルセドを加えた親子のストーリーが一つ目。土星ことサルバドール・プラセンシアのストーリーが二つ目。そして紙の民の末裔であるメルセド・デ・パペルのストーリーや聖人サントスとサヤマサトルのプロレス物語、本当はメキシコ生まれではないがそういう設定になっているリタ・ヘイワースの物語などが同時進行で進んで行く(ラテンの人はリタ・ヘイワース好きだな。プイグの「リタ・ヘイワースの背信」を思い出した)。

自分の夜尿症が原因で妻に去られたフェデリコ・デ・ラ・フェは娘を連れてメキシコからロサンゼルス郊外の花卉栽培を主産業とする町エルモンテに落ち着く。土星にすべてを上から見られているような気がしていたが、鉛の甲羅の中に隠れていれば見られないことに気付く。彼はエルモンテの若者たちEMFと組んで、土星への戦いを開始する。一方、土星はと言えば、この戦争のせいでリズに去られ、カメルーンにも逃げられそう。土星とEMFの戦いの幕は切って落とされた。しかし、どんな戦いをするんだ、この人たちは?と思いながらどんどん読み進めて行く。

けれど、読んでいると、とにかく痛いのである。「イタイ」とカタカナで言うところの痛さではなく、物理的な痛さを感じてしまう。私は刃物で切ったことはないのでわからないのだが、紙で切ったときの痛さはわかるから、それをいちいち思い出すため、メルセド・デ・パペルの物語はあまり一生懸命読むことができない。フェデリコ・デ・ラ・フェはやけどを負うことで夜尿症を治すし、カメルーンがハチに刺されることで精神的な安定を得る話は麻薬の暗喩かなぁと思いつつ、いやこれは本当にハチにさされる話だなと思ったり。

それから、なんだかいろいろにおってくる。「香り」ではなく「臭い」。フェデリコ・デ・ラ・フェの尿のにおい。リトル・メルセドが中毒になっているライムのにおい、エルモンテの町のカーネーションのにおい。土のにおい。さまざまな形で小説が触覚と嗅覚を刺激してくる。そして視覚的にも。大枠が物語る側と物語られる側の戦いのため、ページ上で戦いがすごいことになっている。普通の本ではあり得ないレイアウト。泥棒教会やアポロニオの母親の聖人の話などはメキシコでは普通にあることのように思えてしまう。五感を刺激しながら物語が渾然一体となって迫ってくる感じを受ける。

フェデリコ・デ・ラ・フェも土星もフロッギーも、女性に去られた後の男の情けなさを見せてくれるが、それでもフロッギーとフェデリコ・デ・ラ・フェはしつこくおいかけたりはしないので、まだいい。この土星の情けなささ、未練たらしさと言ったら。非常にうざくて、たいへん良いです。この情けなさが物語世界を一本貫いている筋のようなもので、これを頼りに進んで行けば迷わないような気がした。


■書誌事項
著者:サルバドール・プラセンシア著,藤井光訳
書誌事項:白水社 2011.8.10 284p ISBN978-4-560-08151-8
原題:The People of Paper , 2005, Salvador Plascencia

2011年6月22日

バルガス=リョサ講演会(東京大学)

バルガス=リョサ講演会チラシバルガス=リョサの東大での講演会に行ってきた。まず、バルガス=リョサ氏へ、日本人の一人として、今この時に予定どおり来日してくれて、世界へ向けてメッセージを発信してくれたことに感謝します。日本はとても危険に思われ、来日を断ったり帰国する人が多い中でのこの男気というか仁義というか、大作家らしい態度はさすが。

実物のバルガス=リョサを見て、まず、なんて華やかな人だろうと思った。大柄で、背筋がしっかりと伸び、75歳とは思えない声量で精力的に話している。さすが、一時は政治家を目ざしただけのことはある。

最初に話したのはこの世界における文学の役割。文学は偏見や暴力、不正義から人々を守る役割がある、等々。ノーベル文学賞受賞者だから、そういうお話をしなくてはならない。例えば「作家にとって生きることは書くことだ」なんていう言葉を彼がスペイン語で言うと、たいへんな重みがあるのだけれど、それは書いた文ではとても伝えられない。

面白かったのが、「密林の語り部」ができるきっかけ。この作品はバルガス=リョサが実際に行ったアマゾンへの先住民に対する調査というか冒険の体験に基づくものであることは知っていたが、その詳細を話してくれた。大学在学中(?)、アマゾン川流域の街プカルバへ赴き、分散してしまった先住民であるマチゲンガ族のコミュニティを調査する調査隊に参加した。その中には文化人類学者であり宣教師でもある米国人夫妻がいて、彼等から自分は語り部の話を聞いた。分散してしまった部族の人と人を物語でつなぐのが語り部である。自分はこの語り部になろうと思った。文学はこのような役割を果たすものである、と。細かい言葉としては違うかもしれないが、そのような趣旨の話だった。20年後に再開した夫妻が覚えていなかったというオチがついていたが。

質疑応答タイムは野谷先生の教え子の学生たちが先を争って?あるいはきちんと仕込まれて?質問し、司会を務められる野谷先生も「若い人!」とご指名。

氏は詩人のルベン・ダリオの研究論文を発表しているが、詩という文学ジャンルについてはどう思うか?という質問に対し、すべての作家は詩を書くことから文学から入っており、詩人を羨望のまなざしで見ている。詩は完璧なものをつくることが出来るが、小説は完璧なものはつくり得ない。自分は詩人としては、ヘボでした、とのことで会場から笑いがもれる。

「専門化が進むことにより人々が分断されていく」という話をしていたが、研究者がどんどん専門的に先鋭化していくことについてはどう思うか?あるいは研究者の役割とは何?という大変良い質問が出たが、「批評家は読者と作家の橋渡しをするのが役割」という、わりと平凡でかつしごくまっとうな回答。

作品については昨日のセルバンテス文化センターの方が話が濃かったのかもしれない。少しうらやましい。

ゲットしてきた大事な情報を。

1.絶版中の「密林の語り部」が岩波文庫から出るらしい。

2.氏は今日の午前中、神保町で古書店巡りをした。かつてオクタビオ=パスが入ったのと同じ古書店で「北斎漫画」を見る。その際、偶然NHKがロケ中で急遽出演した。妖怪を扱った番組で、放送は後日とのこと。どこからか情報が出ると良いのだが。


最後にちょいと。

1. 東大文学部(教授)席が空きすぎ。バルガス=リョサの邦訳としては最新作の訳者である田村さと子先生をたいへん良い席ではあるけれど東大側の案内もなく一般席に座らせておいて、それはないんじゃないかなーと思った。

2. そんな中でも柴田元幸先生は英米文学の方だが、研究熱心な方だけあって出席されていたことを確認。さすが。(他にもおられましたが、どなたかまでは確認できず)。

3. 赤いポロシャツの素敵な先生は幻だったようです...。

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