最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2002年3月

2002年3月30日

アインダ

■マドレデウス Ainda / Madredeus
■東芝EMI 1995.8.23
■内容

  • Guitarra
  • Milagre
  • Céu Da Mouraria
  • Miradouro de Santa Catarina
  • A Cidade e os Campos
  • O Tejo
  • Viagens Interditas
  • Alfama
  • Ainda
  • Maio Maduro Maio
    ■感想
    「リスボン物語」を観てすぐに購入。1990年代のヴェンダースを観ずに損をしたなと思ったのは、リスボン物語とマドレデウス出会えなかったことくらいなものかもしれない。
    フォルクローレが好きなわけではないのだが、アコースティックな弦楽器の響きは元々好きだから、すぐに受け入れられた。フォルクローレというと、すぐケーナとか言われてしまうけど、そういう独特の民族楽器が出てくるわけじゃないが、アコーディオンが入っているところが、それっぽい。シンプルな5人の弦楽器と打楽器、それと女性ボーカル。低めの声が好きなため、女性ボーカルも好みではないけれど、それでもこの透明感と寂寥感には圧倒される。
    もう割と知られているバンドだから、特に言うことはないけど。映画のための音楽ではなくて、音楽のための映画だったのだな、ということがあらためてわかる。「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」は音楽のためのドキュメンタリーだが、こうやって音楽のための物語を作る方が合っていると思うけどな。

  • 2002年3月21日

    ウォーターメソッドマン/ジョン・アーヴィング

    The Water‐Method Man, 1972

    ウォーターメソッドマン I/ジョン・アーヴィング ウォーターメソッドマン II/ジョン・アーヴィング 川本三郎,柴田元幸,岸本佐知子 訳
    国書刊行会 文学の冒険シリーズ 1989.3.1 各1700円
    I:ISBN978-4-336-02465-7
    II:ISBN978-4-336-02464-0

    〈ある種の感染症〉により、放尿時の異常な痛みに苦しむ男、フレッド・トランパーは、古代低地ノルド語で書かれた神話を研究する大学院生である。将来の見込みは殆どない。しかもスキーのアメリカ代表選手ビギーを妊娠させたことで父の逆鱗に触れ、援助を絶たれてしまう。息子コルムも生まれたものの、トランパーの生活はいっこうに落ち着かない...。トランパーは遂に家出し、旧友メリルに会うためウィーンへ飛ぶが、行方不明だった彼はドナウ河で水死していたことがわかる。その上、帰国してみれば、妻ビギーはトランパーの親友と結婚していた。傷心のトランパーはニューヨークで映画製作に加わり、トゥルペンという女性と暮らし始めるが...。現実から逃げ続けてきたトランパーに救いは訪れるのか?コミカルな現代の寓話。


    「熊を放つ」の売れ行きはさんざんだったが、幸運にも後に「スターウォーズ 帝国の逆襲」の監督になるアーヴィン・カーシュナーの目にとまり、映画化権が売れた。映画化は実現しなかったが、映画化権が売れたことで経済的に余裕ができ、妻子とともにオーストラリアに2年間滞在。この間に書かれたのが「ウォーター・メソッドマン」である。
    「ウォーター・メソッドマン」とは直訳すると「水治療の男」。尿道の感染症にかかり、その治療として水をとにかく飲む、という変わった治療をしている男、という意味。言外に「大人になりきれない男」という意味をもたせているように思われる。
    小説は実験的な色合いが強く、だからと言ってつまらないわけではないのだが、大きく分けると過去と現在の二つの物語が入り組んで進んでいる。過去から唐突に大昔に突入したりするので、下記のような流れになる。

    ・現在:ニューヨークでのトゥルペンとの同棲生活。治療中。
    ・過去:アイオワ大学でのペギーとコルムとの生活
    ・大昔:ウィーン留学中、メリル・オーヴァーターフとスキーに行ってペギーに出会った頃の話

    それぞれの物語が進んでいくが、「過去の話→大昔→過去→現在の出発点→現在から→」という流れに組み替えることもできる。
    アイオワ大学時代、生活が苦しくて、公共料金をためてしまい、あちらこちらに支払いを待ってくれという手紙を書くが、それをずらずらと並べていたり、構成上は様々な試みがなされている。内容が面白いので、失敗してる、とは言えないが、後の作品を考えると、あまり成功しているとも言い難い。
    また、人称の問題もある。主人公はトランパー、ボーガス、サンプー=サンプなど複数の名前で呼ばれる。しかも、三人称だったり、一人称だったり、語り手が時折入れ替わる。過去の物語の場合は一人称で、現在の物語になると三人称になったりする。
    これらの試みはすべて、ボーガスが「大人になりきれない」「行き当たりばったりで中途半端」「何事も成しきれない」男のドタバタぶりを描くのに効果的に使われているように見える。本当にどうしようもない奴である。ラルフという実験映画の監督がトランパーの生活を描いた映画を作り、上映するのだが、この映画評の中に「どうしてこんなどうしようもない男に立派な女性がふたりも関わる気になったのか不思議」というくだりがあるが、まったくその通りだ。
    気になるのが、実際のメリル・オーヴァーターフが大活躍してくれないところかなと思う。彼はジギーの生まれ変わりなのだから、もう少し頑張って欲しかった。でないと、どうしてウィーンまで探しに行ったのか、の意味が薄れているような気がする。
    結局、このどうしようもない「夫にはなれない。だが、父親には...」というトランパーが何かを成し遂げ、父親として、夫として、社会に立ち向かうべくたたずむところで終わる。主人公が成長する過程を描くなんて、これも一種の教養小説か。
    最初の3作までのアーヴィングは意外と小説の古典的なテーマのベースをもって、実験的な試みを行う「小説を学んでいる学生」っぽさがあり、後の巧みさから考えると、かえって新鮮に見えたりもする。もちろん、だからと言って内容がつまらないわけではない、というところが最大のポイントだが。

    ウォーターメソッドマン 上ウォーターメソッドマン 下新潮文庫 1993.7.25 各520円
    上:ISBN4-10-227306-9
    下:ISBN4-10-227307-7

    リスボン物語

    ■Lisbon Story, 1995 ドイツ/ポルトガル
    ■スタッフ
    監督・脚本:ヴィム・ヴェンダース Wim Wenders
    製作:ウルリッヒ・フェルスベルク Ulrich Felsberg/パウロ・ブランコ Paolo Branco
    撮影:リサ・リンズラー Lisa Rinzler
    音楽:マドレデウス/ユルゲン・クニーパー Jurgen Knieper
    出演:リュディガー・フォグラー Rudiger Vogler/パトリック・ボーショー Patrick Bauchau/テレーザ・サルゲイロ/ペドロ・アイレス・マジャルハス/ロドリゴ・レアオ/ホセ・ピショット/ガブリエル・ゴメス/フランシスコ・リベイロ/マノエル・デ・オリヴェイラ Manoel de Oliveira
    ■感想
    こんな映画があることを最近まで知らなかった。「夢の涯てまでも」(1991)以降、如何に自分が興味を失っていたかがよくわかる。「時の翼にのって」(1993)もカンヌ国際映画祭でブーイングくらったことを聞いて、まぁ、そうなんだろうな、と思った記憶しかない。
    しかし、見ておけばよかった、と思った。全作品はまだ見てないが、これは90年代の作品の中でもっとも良いのではないか?これで5度目のフィリップ・ウィンター役のリュディガー・フォーグラー、「ことの次第」で死んだ筈の映画監督フレデリック・モンロー役にパトリック・ボーショーと昔の仲間と楽しそうに映画を撮っているのがよくわかる。当初はリスボン市の依頼により、リスボンのドキュメンタリー映画を撮るつもりが、リスボンでドキュメンタリー映画を撮る人の話にしてしまったヴェンダース。映画100年を記念したお祝いの映画らしく、明るく、コメディタッチの作品に仕上がっている。長年暖めていた大作を撮って、それが不評だった。そこで肩の力を抜いて原点に帰り、映画を撮ることを楽しむ、その思いが画面にあふれているようなロード・ムービーだ。
    出だしから非常に快調にとばす。欧州統合で国境のなくなったヨーロッパ。フランクフルトからリスボンまですっ飛ばす車内からの画像に気分をよくさせられる。ポルトガルまであと一息のところでパンクしてしまい、やむを得ずタイヤ交換をするが、橋の上に新品のタイヤをおく。この時点で予想がつく。パンクしたタイヤからささった釘を抜き、川に捨てようとして、新品のタイヤをつい落としてしまい、呆然とするウィンター。
    録音技師が映画監督の元に走る。それだけで、また「映画についての映画」だなとわかる。やっとの思いでリスボンの映画監督の元にたどり着いたのに、本人が失踪。録音技師なので、音を作るための様々な小道具をもって来ている。馬の蹄の音やフライパンで卵を焼く音などを子供たちに教えるシーンが、個人的には非常に懐かしい。学生の頃教わった作り方、そのままだ。
    実際に録音された音も鮮明に町の音をとらえて、素晴らしい出来だ。風景を音で見る、ということができるのは、私は知っている。ゼンハイザーのマイクにソニーのDATも嬉しい。画像を撮影するのは手回しカメラというのがミスマッチで面白い。
    ポルトガルのフォルクローレバンド・マドレデウスが登場するリハーサル・シーンはその辺のプロモーションビデオより遙かに格好いい。正直、この女性ボーカルはあまり好みではないが、バックの演奏はとても好みだ。
    加えて、ポルトガルの現代詩人フェルナン・ペソアの詩もうまく織り込まれている。結局こういうリリカルな言葉の使い方、音の使い方。音楽、映像もすべてリリカルだ。それがヴェンダースなんだと思う。
    DVDになっていないため、LDを探したが、当然絶版。ラッキーなことにネットで見つけて最後の1枚(新品)を買うことができた。

    2002年3月12日

    158ポンドの結婚/ジョン・アーヴィング

    The 158‐Pound Marriage, 1973-74

    158ポンドの結婚/ジョン・アーヴィング斎藤数衛訳 サンリオ 1987.1.15 1,500円 ISBN4-387-86152-5

    歴史小説家である「僕」には、ウィーンで数奇な育ちをしたウチという妻がいる。一方、「僕」の友人で大学でレスリングのコーチをしているセイヴァリンは、ウィーンで知り合ったヤンキー娘のイーディスと結婚した。これら2組のカップルのユーモラスで鮮烈な夫婦交換の物語を通して浮かびあるがる現代人の内面風景とは?『熊を放つ』と『ガープの世界』をつなぐJ・アーヴィング会心の力編。


    ウィーン、りんご園、新聞記者を逃したタクシー運転手、熊などに続き、戦時中に動物園に入って檻から逃がそうとして(あるいは食糧難だったために食べようとして?)食べられてしまった男の話など「熊を放つ」から引き続き使われるモチーフが出てくる。今回初めて出てきたのは「レスリング」という要素で、前回の「バイク」に代わるものだ。

    物語はアメリカの大学での話だが、登場人物のうち二人は戦前のオーストリア出身だ。セイヴァリンとイーディス、ウチと僕の2組の夫婦はそれぞれ見た目にも不釣り合いなカップル。前者は体格の良い背の低いレスラーと上品な教養ある作家、ドイツの子牛のような妻と年齢より老けて見える細身のインテリ歴史作家。レスリングコーチと歴史作家が同じ大学の教員というあたりがそもそも変てこりんな話だ。

    このウチという女性は学生の頃のドイツ語会話の先生の奥さんを彷彿とさせる。本当に人間か?と思えるほどお尻がでかい。単なる日本によくいるデブとは違って、はじけそうなくらいパンパンに張ったお尻なのだ。

    この物語はゲーテの「親和力」である。二組の男女がそれぞれの連れ合いでない相手に惹かれ合うというメロドラマを物理学的な言葉を用いて文学に浄化させた作品だ。ありがち設定を芸術作品に仕上げるあたりが文豪だなぁと思ったものだ。というか、当時アメリカで流行り始めた言葉でいうと単に「スワッピング」なんだけど。

    この関係は四人のうち誰か一人でも不満を感じたら、そこで終わり、という危ういものだった。そもそも一人が自分の妻(夫)を寝取られながらも、妻(夫)以外の人物と関係をもつことで「お互い様」という関係を成り立たせようという、無茶な話である。人間はそんなに公平には出来ていない。公平であろうと思っても、自分にとってメリットであることだけを残し、自分にとってマイナスな要因はできるだけ排除したいものだ。

    彼らには子供がそれぞれ二人いる。子供を愛しているようでいて、誰もが子供のことよりも自分たちの欲望に忠実で、放っておいたり、一緒に食事をしなかったり、である。所詮「子供」であることを脱し切れてない中途半端な大人なのだ。

    セイヴァリンとイーディスの二人の問題からこの関係は発生しているのだから、同じ問題に立ち返ったとき、四人の関係は崩壊する。崩壊後もウチはセイヴァリンを愛し続け、「僕」はそれが許せず、ウチの抱えている問題と取り組もうとせず、放っておくことで復讐しようとする。結果、「僕」からウチは去って行く。

    「僕」にとってイーディスは魅力的な相手だったけれど、イーディスの方は「僕」に恋をしていたわけではなかったわけだから、実際、セイヴァリンとイーディスの二人に「してやられた」夫婦だっただけのこと、という結論が明らかになる。「僕」はイーディスとの情事に夢中になり、ウチのことを本当は考えていなかった。それはセイヴァリンにしても同じことで、ウチのことはろくに考えていなかった。だが、イーディスのためにこの関係を続けていたのだから、セイヴァリンとイーディスには修復の余地があるとも考えられる。

    果たして、この「歴史小説家」は何かを学んだのか、それとも何も学ばなかったのか。ウチと彼は復縁できるのか?彼は未来に希望をもってウチを迎えに行くのだが、それは実を結ぶのだろうか?


    158ポンドの結婚/ジョン・アーヴィング斎藤数衛訳 新潮社 新潮文庫 1990.8.25 560円 ISBN4-10-227305-0

    2002年3月 4日

    熊を放つ/ジョン・アーヴィング

    Setting Free The Bears, 1968

    熊を放つ/ジョン・アーヴィング熊を放つ/ジョン・アーヴィング
    村上春樹訳 中央公論社 村上春樹翻訳ライブラリー 2008.5.25
    上:1365円
    ISBN978-4-12-403509-4
    下:1260円
    ISBN978-4-12-403510-0

    ウィーンの市庁舎公園で出会った二人の若者ジギーとグラフ。中古のロイヤル・エンフィールド700ccを駆り、オーストラリアの田舎を旅する二人が見つけたものは、美しい季節の輝きと、手足のすらりとした女の子ガレン。すべてはうまく運ぶはずだった。ジギーが、動物園襲撃などという奇妙な計画を持ち出すまでは...。瑞々しく、痛々しく、優しく、そして未完成な青春を描くジョン・アーヴィングの処女長篇。


    アーヴィングのデビュー作。デビュー作と言っても、アイオワ大学での修士論文として書かれたものである。1963年から64年にかけてウィーンに留学していたときの経験に基づき、65年からアイオワ大学のライターズ・ワークショップに入って本格的に長篇を書き始めた。68年に刊行されたが、部数は微々たるものだった。ちなみに日本での刊行は「ガープの世界」の後。
    第一部はウィーンの学生グラフとジギーの出会いと旅。サイダーハウス(りんご園)とか熊とか、後々アーヴィング作品に出現するのアイテムがすでに出て来ている。これは作家のウィーン留学時代の体験に基づいて書かれたもの。

    第二部は動物園潜入記とジギーの自伝の二部構成。ジギーの自伝の方はドイツ軍によるオーストリア侵攻からユーゴ内戦、ドイツ敗戦が描かれている。ジギーの母親とその家族、母の最初の婚約者の物語。この婚約者がものすごい「変わり者」なのである。この変わり者というキャラクターも延々と続いて出てくることになるのだが、何というか、ともかく「変わり者」なのだ。突拍子もない行動をとる人物、とでも言おうか。
    その後はジギーの父親であるユーゴ人(当時はセルヴィア、クロアチア)のヤヴォトニクの物語。ドイツ人のオートバイ隊の体調ヴッドとの出会いとオートバイによる戦争からの逃避旅行。二人は敗戦を迎え、ウィーンに赴く。ヤヴォトニクとジギーの母との出会いや終戦直後のウィーンでの生活が描かれる。
    この第二部を読んでいて気づいたのだが、後年の作品に比べると、面白くない。というか、短い話が入れこになっている二部構成という構造自体が悪いわけではなく、どうしてもこの動物園の偵察記が興味を引かれないのだ。そのせいで、中身全体がぼやけてしまった気がする。
    アーヴィングの作品というのは非常に長いものが多いが、印象に残るエピソードが多く、長さを感じさせないストーリー展開が特徴。小説を書くために小説を書く、という実験的というよりは、つまらない試みにすぎない小説に対するアンチテーゼのような作家なのに。これが若書きと言うのか?カート・ヴォネガット・Jr.の影響と言われるが、私はカート・ヴォネガットを読んだことがないからわからない。
    第三部はグラフが動物園に潜入する話。ジギーの遺志をついで?なのか、ジギーに乗っ取られてしまったのか。ともあれ、展開はスリル満点、結末はなかなか愉快なものとなっている。第二部の停滞感を払拭して、一気にエンディングまでもっていく力に、後年の作家としての力量がかいま見られる。

    熊を放つ/ジョン・アーヴィング熊を放つ/ジョン・アーヴィング熊を放つ/ジョン・アーヴィング
    初版
    1986.5.23 1,500円
    ISBN4-12-001480-0
    中公文庫 上
    1989.3.10 500円
    ISBN4-12-201593-6
    中公文庫 下
    1989.3.10 500円
    ISBN4-12-201594-4
     改版 中公文庫
    上 1996.2.18 800円
    ISBN4-12-202539-7
    改訂版 中高文庫 下
    1996.2.18 800円
    ISBN4-12-202540-0