最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2013年8月

2013年8月24日

orange pekoe Live at 音霊 OTODAMA SEA STUDIO 2013

音霊私はそんなに頻繁にライブに行けるわけではないのでワンマンでないと二の足を踏んでしまいますが、場所が比較的近いので行ってみました。オレペコは16:00頃スタートということでちょうどに入り、40分のライブが終わり即帰りました。日中に陽ざしがなかったせいか蒸し風呂ということはなく、風も少しだけ入って来ました。

この日は二人だけです。シンプルなライブでした。

ちょうどこのライブの前日にキマグレンの方から音霊が今年で最後である告知が出ました(ナタリーの記事)。オレペコは昨年は出ていませんが、2005年の開始時より2011年までずっと休みなく出演している常連です。開始当初こそ若者が逗子海岸に戻ってきたと評判も良かったのですが、ここ2~3年は逗子市民からのクレームが続き悪評の声の方が強くなっていました。音霊事務局側も完璧とは言えない対応で(丸太埋めてっちゃったことがありましたね)、どこまでもつのだろうと思っていました。

治安の悪化は音楽イベントのせいではないと事務局側は言います。例えばアルコール禁止をしてからだろうというなら、それならもっと早くそうすべきでした。ゴミを捨てるのはライブに来る人ではない、刺青を入れているのはライブに来る人ではない、それはそうだと思います。確かに直接的な原因ではありませんが、逗子海岸はもともとあまり若い人が来ない海岸でした。特に遠方からわざわざ行くような海岸ではありません。音楽イベントを目的にした人が来て、そうして若い人に逗子海岸の認知度があがり、そこで音楽イベント目的でない人も増えたというのが結果です。それは遠方の人というわけではありません。地元の若い人も混じっているでしょう。

規制を強化したら元の静かな逗子海岸が戻って来るのでしょうか?眺めるだけの海が欲しいのなら、私は遊泳禁止にすればいいのになと思います。皮肉でもなんでもなく、現実的なのかなと。結局、観光客が増えることによる利益より、治安が悪化し地価が落ちることの不利益が上回ったと言えるでしょう。

Set List
1.やわらかな夜
2.Corrida de Jangada
3.Foggy Star
4.虹
5.FLOWER
6.Love Life

場所:音霊 OTODAMA SEA STUDIO(神奈川県逗子市新宿 海岸 カンティーナ前)
日時:2013年8月24日(土)12:00開場、13:00開演
料金:前売4,000円/当日4,500円
出演:orange pekoe/片平里菜/小林祐介(THE NOVEMBERS)/田島貴男(ORIGINAL LOVE)/手嶌葵/向井秀徳アコースティック&エレクトリック/Rihwa/ほか

2013年8月 4日

境界なき土地/ホセ・ドノソ

境界なき土地/ホセ・ドノソ娼館でマヌエラが目を覚ますところから物語は始まる。娘のハポネシータと二人で一つのベッドで寝ているらしい。その娘のために朝食を用意しなくてはならない。店の方は娘の方が有能なために仕切られてしまい、母親である彼女は娘に頭があがらないようだ...と読み進めていくと、突然「あれでも一応ハポネシータの父親だぞ」という言葉が出て来て、慌てて最初に戻る。すると、頭の方で"カマ親父"という言葉が出てくるのに、気付かなかった。ストーリーはずっとマヌエラの一人称で進むわけではないが、意図的に冒頭はマヌエラなので、思わず苦笑してしまう。語り手はハポネシータに移動したり、三人称になったり、パンチョになったりもする。その辺はスムースに読んでいける。

マヌエラは物語の最初からずっとパンチョを恐れ、乱暴な口をきく男を嫌い、ドン・アレホのような紳士は違うと言い続けるのだが、一方でその乱暴さと情熱を強く求めていて、破滅願望があるように読める。また、パンチョの方も冗談でマヌエラに惚れていると言いながら、実は完全に本気で、一方それを義弟に見とがめられることを恐れていて、自分でも認めるのも怖がっている。

終盤、酔っぱらっていい気分になった二人が、それぞれハっと我にかえるシーン。オクタビオがいなければ、二人そのまま行くところまで行っただろう。マヌエラの方は同じような経験があって、いつもこうやって邪魔する奴がいると思う。一方、パンチョは自分の中にわき上がってきた感情を否定するためにマヌエラを殴る。そこでようやくマヌエラは目が覚めるのだが、その後の顛末は結局のところ彼女の望みどおりではなかったのか。

ハポネシータは土地や血縁に縛り付けられている。ハポネサと呼ばれたふくよかな母の後を継いでこの娼館を切り盛りする彼女は女としては欠陥をもっている。娼婦=女として求められているのはふくよかさ、あたたかさ。マヌエラにも終始ハポネシータは冷たいと言われている。心の冷たさだけでなく、体温と両方の意味らしい。父親に男を奪われてしまうという哀しい宿命を背負った若い娘だが、このままこの街で埋もれていくのだろうか。

ところで、ドン・アレホの犬の名前「ネグス、スルタン、モロ、オテロ」には何か意味があるような気がする。紳士と言われるドン・アレホの残虐さが現れているエピソードで、この犬たちがやがてマヌエラを食い尽くすだろうとの予感を残して終わる。


読み進めるうちに感じたのが、マヌエラが「蜘蛛女のキス」のモリーナと重なること。それもそのはず。この作品が映画化された際、脚本を書いたのはマヌエル・プイグ。1978年公開映画で、「蜘蛛女のキス」の刊行は1979年。プイグがインスピレーションを受けたことは間違いないだろう。

「夜のみだらな鳥」の前に書かれた作品で、あれに比べたらかなりおとなしい作品だ。だが一つの物語としてはとてもよくまとまっていて、バルガス=リョサが絶賛するのも納得だ。またブニュエルが映画化したがったのもわかる。電気も通っていない陰気な街に赤いトラックと赤いドレス。絵が浮かぶ。残念ながらブニュエルは映画化できなかったが、他の監督が映画化した。

映画の話や他の作品の刊行について、まとめてみたのがこちら。→ホセ・ドノソ祭り―故人であるチリの作家の新刊が出るのでお祭り。

■書誌事項
著者:ホセ・ドノソ著,寺尾隆吉訳
書誌事項:水声社(フィクションのエル・ドラード) 2013.7.15 171p ISBN978-4-89176-952-9
原題:El lugar sin límites,1966 José Donoso

※オビに「バルガス=ジョサ」とあって、最初から脱力してしまうが何とか読み切る。私はスペイン語のことはよくわからないので、「ジョサ」の方が正しいのだと言われたら「そうですか」としか言いようがないが、ではどうしてずっと「リョサ」だったのか。多数の作品がすでに刊行されているのだ。それに合わせることにどんな不都合があるのか。研究者として「ジョサ」を主張する方は多いに語って欲しい。そうでなければ、もともと数少ない海外文学の読者を混乱させること、書店員や司書さんたちの迷惑、最終的には販売数というところに還ってきて出版社の不利益などのデメリットに鑑み、強行に「ジョサ」を使うことのメリットはなんなのでしょうか?この訳者の方は「嘘から出たまこと」のときもそうだったので、多分版元ではなく、ご本人の主張なのでしょう。せっかくたくさん翻訳して下さっているのに、このことだけがトゲのようにずっと刺さっていて、手放しで読む気になれません。