最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2006年2月

2006年2月25日

破滅者―グレン・グールドを見つめて

破滅者―グレン・グールドを見つめて■原題:Der Untergeher : Thomas Bernhard, 1983
■著者:トーマス・ベルンハルト著,岩下真好訳
■書誌事項:音楽之友社 1992.7.25 ISBN4-276-21412-2
■感想
グレン・グールドについて書かれた伝記ではまったくない。事実にも基づいてないし、主人公ですらない。騙された人は多いんじゃないだろうか。でも、クラシック音楽ファンが読まないと実は楽しめないという不思議な小説である。

内容的にはグレン・グールドという実在のピアニストについて書かれているのではなく、グレン・グールドとザルツブルクで一緒にホロビッツの門下で学んだ(史実にはない)というやはりピアニストであるヴェルトハイマー、そして語り手である「私」の3人の男の50年を描いた物語である。というとわかりやすいのだが、実はまったく「物語」などといえるような代物ではなく、「私」が3人に関しての思考を、少しずつ少しずつ階層を変え、変奏しながら進行するという不思議な語り口になっている。訳文は読みやすくするために適当に改行が入っているが、原文はどうやらセンテンスまったくなしという状態らしい(ケルアックみたい)。

一番主な人物はヴェルトハイマーで、彼が自殺したと聞いて、友人である「私」が葬式に行き、その帰りに彼が最後に住んでいたトライヒという町の旅館に宿泊しようとチェックインするところで小説は開始される。そして、3人が出会ったところから始まり、直前の葬儀の様子までを時系列を無視してぐるぐるとまわりながら、チェックインするところで、一息入れる。が、そのときはすでに話は終盤なんである。そしてチェックインして女将と話し、彼の最後に住んでいた家に行って、終わる。なんだか、3人の男たち一代記のようで、まったくそうではないというのが、読後「何と説明してよいものやら」という戸惑いを隠せない。

Untergeherという原題は直訳すると「下へ行く人」=落ちぶれた人、堕落者、で、この場合は破滅者と訳している。この破滅者はグレン・グールドではなく、ヴェルトハイマーのことを指す。ヴェルトハイマーがグレン・グールドに出会い、そのピアノ(ゴルトベルク協奏曲)を聞いた瞬間に、彼は破滅する運命にあったという主題が、何度も何度も繰り返される。その間に「私」がいかにピアノを捨てることが出来たか、ピアノを捨てることで生き延びたかという話も何度も何度も繰り返される。さらに、ヴェルトハイマーが捨てきれず、未練たらたらで、そのせいで自殺するしかなかったかのような、それでいて本当の原因は彼の元を去った妹のせいであるかのような、矛盾している話がずっと繰り返される。

繰り返すのは単純に繰り返しているのではなく、少しずつ位相を変えていくというか、違うバリエーションになっていくところが不思議な感じだ。一見だらだらしているようだが、リズムに載って読み進めることが出来る。どうやら、小説自体が変奏曲になっているようだ。その辺はある程度クラシック音楽の知識があった方が楽しめる作りになっているらしいのだ。

とはいえ、音楽之友社からオースラリアの作家の作品が出版されていたとは、気付かない。独文の現代作家は1990年代の日本ではまったく恵まれていなかったことがよくわかる。文芸出版社からは出せなくて、なんとか音楽関係者の目を惹こうという目論見で刊行されたのだろう。苦労が忍ばれる。最近また注目度があがったからよかったようなものの、誤解されっぱなしになってしまったところだ。

当分ベルンハルトで行こう。唐突に放り投げるかもしれないが。

2006年2月20日

アメリカ、家族のいる風景

アメリカ、家族のいる風景■原題:Don't come knocking 2004年 独=米 124分
■監督:ヴィム・ヴェンダース
■出演:サム・シェパード/ジェシカ・ラング/ティム・ロス/サラ・ポーリー/フェアルーザ・バーク<Fairuza Balk>/エヴァ・マリー・セイント/カブリエル・マン
■感想
この監督も60歳を過ぎて、肩の力の抜けた、ステキな映画を作ったなぁと素直に思う。子供がいることを知らないで20数年を過ごしてしまい、30年以上放っておいた自分の母親から子供のいることを聞かされて、息子とその母親を探しに行く父親の物語。平凡で使い古された家族再生のストーリーだけれど、映像美はさすがなんです。


サム・シェパードは老けてもカッコイイが、それでもやっぱり若い頃の方がもっとカッコ良かった。感想はこちら

2006年2月18日

ヒトラー 最期の12日間

ヒトラー 最期の12日間■原題:Der Untergang 2005年 独=伊 155分
公式サイト

2005年に公開されて物議を呼んだ作品。ヒトラーをドイツでドイツ人監督や俳優たちが真正面から作成した初めての映画として話題となった。本当はロードショーに行きたかったのだが、なかなか時間がとれず、DVDで初見となった。一言でいうと、素材は重く暗いものなのに、とても上質なエンターテイメント作品に仕上がっていることに意外な驚きを感じた。

私はもともとブルーノ・ガンツのファンだ。もちろんヴェンダースのせいだが、ヴェンダース作品以外の「白い町で」なんかも大好きだ。とてもピュアで素朴なおじさんという役所が多い。それがドイツ人俳優が演じるにはタブーというか、最も難しいと言われるヒトラーをやった、しかもものすごく似ているという話だった。本拠地は舞台俳優だし、ドイツ人らしい執拗な研究に基づいた細かい仕草が似ているという評判だ。といっても本当に似ているのかどうかは私はわからないので、ブルーノ・ガンツのヒトラーの仕草がヒトラーらしいのだと、今回インプットした次第だ。

ヒトラーを生身の人間として描くことは、多少は人間味のある人物として描かざるを得なく、ある意味彼の犯罪を否定するに近いとされて、ドイツ人にとってはタブーの題材だったのが、逆にそうではないことがよくわかった。ヒトラーは普通の人とは思えないが、狂人でも精神異常でもない。女性には親切でていねいだが、部下を罵倒する姿は常人とは思えないすさまじい姿だ。まさに人間が人間に対して行った最大の犯罪行為=虐殺が人間の手で発想され、実行されたことの恐ろしさを実感できる。

舞台は有名なベルリンの地下要塞だが、そこが最初は混乱したラビリンスのように見えて、実はとてもシステマチックに出来上がっていることが徐々にわかってくる仕組みになっている。兵士や事務員が普通に仕事して、普通にさぼってたばこを吸っている姿が、かえって奇妙だ。一方でベルリン陥落直前の状況は悲惨の極みだ。無茶苦茶な防衛戦、死を目前にして恐怖から娼館で遊ぶ兵士、犬死にしていく無謀な市民兵、非協力的な市民に対する同じ市民の手による壮絶なリンチ、などなど。

この映画で一番しんどかったのが、やっぱりゲッペルス夫人が6人の子供を青酸カリで殺す場面。生き残っていたら、どういう目に遭っていたかわからないとは言え、昔なら大丈夫だったと思うのだけど、今の私にはきつかった。

それにしてもうまいというかうますぎるオチだ。映画全体は秘書トラウデル・ユンゲの手記「私はヒトラーの秘書だった」(とヨアヒム・フェストの「ヒトラー最後の12日間」)をベースにしているのだが、この人自身は戦後戦争犯罪には問われていない。ヒトラーの戦争犯罪について何も知らなかったということになっているのだが、本人が最後にインタビューで出てくる。何も知らなかったから自分は悪くないなどとは言えない。耳をそばだてていれば知っていた筈だと語る。同じ歳に生まれ、自分がヒトラーの秘書になった年に殺されたゾフィー・ショルのことを知り、ユンゲはそう悟るのだ。(ゾフィー・ショルを描いた「白バラの祈り」は日比谷シャンテシネで2006年1月28日より公開)

本来もつべきメッセージ性を押さえに押さえ、客観的に描こうとしていた作品なだけに、見方によってはあざといかもしれないが、力強いメッセージだと私は感じた。

2006年2月12日

ふちなし帽

ふちなし帽■原題:Die Mütze : Thomas Bernhard, 1988
■著者:トーマス・ベルンハルト著,西川賢一訳
■書誌事項:柏書房 2005.8.10 ISBN4-7601-2732-1
■感想
ついにトーマス・ベルンハルトである。何がついにかっていうと、「周辺部をうろうろしていたけれど、ついに独文に戻って来たなぁ…」という感慨があってのことである。だって18年も遠ざかっていたのですもの(ゼーバルトはドイツ人だけど、英語で書いてるので独文ではない)。ベルンハルトは故人ではあるが、立派な現代作家。それも最近非常に評価の高い作家である。でも、「カフカやベケットに通じる…」っていうのは、当たらずといえども遠からずではあるが、うたい文句としては逆効果じゃないだろうか。少なくとも私にはそうだ。ちょっと敬遠したくなるふれこみだ。

おそるおそる短篇集から入ってみた。面白い。頭のおかしい人の話なんだけど、いわゆる不条理系のもつ(なんていいかげんな表現…)不時着感というか、「落ち着かないな…」という感じがない。それから、短篇のせいもあるのか、じわじわと真綿でしめつけていくようなところがない。先日読んだ「オリエント急行戦線異状なし」のような、と言えばいいだろうか。この先主人公がどういうところから抜け出せなくなっていくのか、私の場合先を読もう読もうとしてしまい、あまり楽しめないのだ。


「ヴィクトル・ハルプナル」は800シリングの賭けに勝つために、2500シリングの義足を無駄にするのだが、何故か彼の行動に何の矛盾も違和感も感じず、おかしさしか見いだせない。「喜劇? 悲劇?」では演劇を軽蔑しながらも、前売り券を買う男が出てくるが、こういう人物は現実生活でよく見かける気がする。実際は文句を言うために実際に見てしまうのだが、この短篇では結局芝居を見てはいない。

刑務所を出ることを恐れる模範囚「クルテラー」。後から解説を読むと主人公が自殺するという最後の一節が抜けているとのこと。確かにそれがあった方が「オチ」があると言えるのだが、ないからといって気持ち悪いとは思わない。妙な浮遊感のある終わり方ということもなく、彼が消えてしまうことが明示されていると感じるエンディングなのである。件の一節はとても余計な気がする。

「大工」が気に入っている。いわれのない暴力に脅かされているのは妹やまわりではなく、ほかでもない本人なんだろう。それにしてもこの弁護士の冷静沈着ぶりがかなり怖い。

表題作「ふちなし帽」の秀逸さは、よくわからないようで、わかる気がする…。そんなことをする必要性がないのに、こうしなくっちゃと思う思いに突き動かされていく有様がおかしくもあり、怖くもある。

「イタリア人」なんかは金持ちのイタリア人やドイツ人はよく屋敷で芝居をするのだなと、ゲーテしかり、ヴィスコンティしかり、と思った以外は、よくわからない…この話は難しい。

全編に共通するのが、狂っているとか、矛盾しているとか、不条理だとか、言えなくもないのだが、とても身近な感じがするのが不思議だ。怖いのだけど、おかしい。トーマス・ベルンハルトははまりやすい作家だそうだが、このまま私もベルンハルトにはまっていくのか、いかないのか、まだ結論は出ない。とりあえず次、何か読んでみよう。

2006年2月 5日

黄色い雨

黄色い雨■原題:La Lluvia Amarilla : Julio Llamazares, 1988
■著者:フリオ・リャマサーレス著,木村榮一訳
■書誌事項:ソニー・マガジンズ 2005.9.10 ISBN4-7897-2512-X
■感想
木村榮一の翻訳だから読んでみた。リョサやコルタサルの翻訳をした人で、ラテンアメリカ作家の方面の人だと思っていたから、スペイン作家は珍しいと思いつつ、手にとってみる。そんなとき2000円以下だと即決で買えるのだが、2000円以上だと、ちょっと考えてしまう。
亡霊が出てくる=幻想文学だというふれこみもあったが、そこから離れた方が良い。孤独と親しみ、孤独を愉しむ、よくある文学のテーマの一つと思って取りかかると、それもまた期待外れに終わる。これは壮絶な孤独との戦いの記録である。廃村に取り残されてたった一人になってしまった老人の10年に渡る物理的、精神的な戦いの様子が、簡素な文章で詩のようにつづられている。
物理的、というのは本当に人が自分のまわりからいなくなってしまう状況を指す。実際は本人も他の村へ移り住むことは不可能ではないのだが、親が苦労して建てた家を離れられなかっただけなのに。それを拒絶したのは単なる頑固だったからか。それだけではあるまい。それだけならとっくに逃げ出すだろう。
冒頭、今まさに亡霊となろうとして横たわっているのか、あるいはすでに死んでしまっているのか。男が、村に人が入ってくる人々の動きを克明に追いながら、荒廃した村を淡々と描写する。それから、最後の一家が出て行き、妻と二人きりになってしまったときのこと、妻が神経を病み自殺したこと、更にさかのぼり、息子が出て行ったときのこと、幼い娘が死んだときのことなどが語られる。一方で、荒廃の一途を辿る村の様子、自分の食料を確保するという「生きる」ための戦いも克明に語られる。
主人公は自分も妻のように気が狂うのではないかという不安におののきながら、一方では「死」に対する恐怖はないと言う。だから最後は開放感と充実感だけが残り、哀しさや悲惨さは感じない。透明感のある美しい小説で、一気に読める。

最後に、本書がとても美しい装丁デザインであることにも目を惹かれる。鈴木成一という有名な装丁家の手によるものだが、装丁って書誌データベースでは検索できないからつまらないな。ホームページくらい作って欲しい。