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12/06

2012

ルミとマヤとその周辺/ヤマザキマリ

ルミとマヤとその周辺 1/ヤマザキマリルミとマヤとその周辺 2/ヤマザキマリ

講談社 2012.8.10 ISBN978-4-06-376683-7/ISBN978-4-06-376687-5


私は「昔の方がよかった」という話が好きではない。特に高齢の男性が言うと、「キミらは昔は好き勝手できたもんね」と思う。昭和30年代、40年代、大半の女性は自由に職業を選べず、好きでもない男と見合い結婚をさせられた。当時は公害だらけだし、交通事故も多く、破傷風など不衛生から発生する病気も多い。福祉に対する社会インフラがほとんどなく、車椅子は段差が今より多く、白い杖で歩行することもままならない。

当時は海外に留学中の友達と1~2ヶ月かけて分厚い手紙をやりとりした。今ではメールでほぼリアルタイムだ。特にデジタル機器については、初期のワープロで一切記録装置がないのに、3行ずつ必死で入力・印刷をしていた。それでも和文タイプよりは手軽だったので嬉しかった。

野原で遊ぶ子どもたちの姿が、今は公園でたむろして集団でDSをやっている姿に替わった。その姿を嫌う人は多い。子どもたちはどうしてそういう行動をとるのか、外で遊びなさいと言われて家を追い出され、でも何もない野原を走り回るよりゲームの方がおもしろいから、寒かろうが何だろうが、必死でやっても当然だろうと私は思う。

「昔の方がよかった」というノスタルジックな作品が特にすごく嫌いというわけではないが、例えば映画「三丁目の夕日」を見ていると、道路はぬかるんで不衛生だし、どこがいいんだろうと思ってしまう。だから本作は普段なら絶対に手に取らないタイプの作品だ。

私がヤマザキマリさんの作品を最初に読んだのは「モーレツ!イタリア家族」を連載誌で、だった。イタリア人って変だなぁ...とおもしろかったのを覚えてる。それが「テルマエロマエ」で大人気になり、1巻が出てすぐ購入、以後はすべて単行本で読んでいる。それは面白いベストセラーを気楽な感じで楽しんでいる感覚だった。

ヤマザキマリさんという作家が私の心に棘のようにささったのは『早稲田文学』5号の「ガルレア・マルケス偏愛」というエッセイだった。最初に読んだときは南米という地域的特殊性に惹かれたが、次に読んだときはそれは希薄になり、物語がギリシャ神話や聖書のような普遍的な人間の物語となっていったことが書かれている。さすがだと思った。「テルマエロマエ」を読めばどれほど博識な人物か簡単に想像はできるものの、そういう意味ではなく、この率直な感受性にすごく惹かれたのだ。

ぽつぽつと著者のエッセイや他の漫画作品を読むようになり、作者の小学生時代を描いたこの作品の新装版が出ていたので、読んでみた次第。前置きが長くなった。

読んでみると、とても不思議な感情でいっぱいになった。いったいこれは何なのだろう?

最初は自分が作者と同年代で、同じような風景を見ているせいで強く共感したのと思った。北海道を舞台にした物語だが、時代の風俗を描写するところでは、確かに懐かしく感じる。それに、この物語にある「貧しさ」はとても身近なものだった。看板屋のようなボロ屋は確かにあったし、そこに住んでいる同級生は兄弟がとても多かった。また、複雑な家庭が多く、母親を病気で亡くした友人が義母とうまくいかないとか、わりあい普通にある時代だった。今は若い世代の病死が減ったため離婚でというケースは多いが、同じ父子家庭、母子家庭でもその子どもが背負うものがまるで違う。

子供の頃の出来事の細かなことは大半忘れている。自分にはすごく辛いこともなかったし、だからと言って、すごく楽しいことはたまにしか訪れなかった。もちろんその楽しいことは覚えているが、数えるほどの記憶しかない。著者のあとがきにある通り、これだけ細やかな記憶があるのは著者が長く日本を離れて生活しているせいなのだろう。地続きでずっと同じ日本で暮らしている自分には、まだ後ろをふり返るような気にはなれないし、記憶を呼び起こすきっかけもない。

結局のところ自分の気持ちの正体が今ひとつつかめず、しばらくの間、戸惑っていた。そんな折、作者が取材で訪れたカンボジアから子どもたちの写真をtwitterで見せてくれた。うわっ、ルミ・マヤのときと同じ!何なんだろう、これは...とまたかなりの時間考えた。

そして「あぁ、そうか。この子たちが、あまりに幸福そうなので、それで息をのむほど満たされて、いっぱいになってしまうのだ」とようやく気付いた。

ルミとマヤもカンボジアの子どもたちもとても幸福そうだ。日本の今の子ども達が不幸そうなのか?そうは思わない。だが、胸をわしづかみにされるほど、幸福そうには見えない。

結局これは落差の問題なのかもしれない。お母さんが演奏旅行でいないので会えない→会えた、嬉しい!貧乏だからバイオリンなんてとても買えない→サンタさんが貸してくれた、嬉しい!

自分はまだそんなふうにぐるぐると考えている。素直に「感動した!」と言えれば楽なのに。社会インフラの整備と技術革新でベースがあがっても、上にのっかる人の気持ちが置き去りになっては意味がないのに。ベースが下の時代にのっかった「幸せ」に素直になれないのは何故だろう。

この作品は確かにノスタルジックだが、「昔の方がよかった」とは言っていない。ただ、かわいい子どもたちが幸せそうに暮らしているお話。