最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2010年11月

2010年11月19日

昼の家、夜の家/オルガ・トカルチュク

昼の家、夜の家/オルガ・トカルチュクポーランドの作家の初翻訳。ポーランドとチェコの国境地帯にある小さな町、ノヴァ・ルダとその近隣の森や山が作品の主役。冬はおそらく厳しい寒さに襲われる森の中で主人公の女性が暮らす姿がめんめんとつづられていくのかと思ったら、突然インターネットのサイトの話になったりする。暗かったり重かったりはしない。軽やかな筆致で進められるので、さくさくと読み進めることができる。

彼女の夢想や日々の暮らしの話、キノコのレシピや自然の姿、街の歴史、土地の聖女の物語とその伝記を書いた修道士の話、木こりの話...などが111の断片になって互いに関連しながら、とびとびで登場する。日常と歴史・物語が交錯するので、南米のマジック・リアリズム好きには意外に好みの作品。日常を描いた部分がエッセイっぽいなと思っていたら、作者はエッセイでも活躍しているらしい。

主人公の家の隣にマルタという老女が一人で住んでいるのだが、この人がとても頻繁に登場する。以前鬘を作る仕事をしていたそうで、家の中には鬘がたくさんしまっているようだ。それだけでもなんだか不気味な感じなのだが、主人公は彼女がとても好きなようで、なんども訪れたり招き入れたり、買い物に出かけたりしている。彼女と一緒にいる時間が長く、観察しているうちに「マルタのように歳をとりたい」と思う。「たっぷりある午前中」「のんびりした午後の楽しい時間」...。

それからわたしは、こう思った。問題はたぶん、老いではない。ある年齢になりたいのではなくて、わたしが言っているのは、ある生き方なのだ。ああいう生き方は、たぶん、歳をとったときにだけできるのだ。なにも行動しないこと。あるいは、なにかするにしても、急がないこと、あたかも結果は重要でないかのように。

ここからまた面々とどんな生活なのかを連ねている。単なるのんびりとした老後、という意味ではない。「焦らない」「結果は求めない」というのは歳をとらないと出来ないことなんだろうなと思う。そう思うと、歳をとればそうしてもできるのなら、それまでは急いだり結果を求めたりしてもいいのかなと思ったりもする。急いでいること、常に結果を求めることに何故かいくばくかの罪悪感があったりするからだ。

東欧文学は比較的親しみがあるものの、あえて熱心には読んでいないのだが、これはジャケ買いならぬ装丁買い。こんな絵が好き。アリツィア・スラボニュ・ウルバニャックというポーランド人の画家だそうで、国立にある画廊を一度見に行きたい。白水社のエクス・リブリスは中身も良いが、装丁に気合いが入っていて、どれも素晴らしい。

翻訳された小椋彩さんは沼野充義先生のところの方だったようで、さすがロシア・東欧文学の権威、良い人が育っているようで、今後もどんどん翻訳を出してもらいたい。

昼の家、夜の家
著者:オルガ・トカルチュク著,小椋彩訳
書誌事項:白水社 2010.10.19 380p ISBN4-560-09012-2/ISBN978-4-560-09012-1
原題:Dom Dzienny, Don Nocny, 1998: Olga Tokarczuk

2010年11月13日

マザーウォーター

マザーウォータースールキートスの「マザーウォーター」を観て来た。舞台が京都というところと、「すいか」以来のキョンキョン & 小林聡美という組み合わせは魅力だったが、あえて映画館へ行ってみるほどかな、ぼちぼちこのシリーズもDVDでいいような気がする...と考えていた。が、自宅でDVDで見たら、途中で止めながらダラダラと見てしまうような気がして、どうあっても集中できる映画館で見ることにした。

何かを否定したり非難したりしないということは、言い換えてみると何も主張していないことになるのかもしれない。それはなんだか無責任というか、つまらないと感じることが多いのだが、そういう場所、そういう映画があってもいい時もある。この映画に何か「らしさ」や「こうあって欲しい」を見る方としていろいろと期待すると、少々肩すかしを食らうことになるだろう。例えば、京都らしさとか、癒されたいとか、物語性とか、まったりしたいとか、映画らしさ(?)とか、とにかくあれこれ考えない方がいい。とりあえず、素で何も考えずに受け止めた方がいいと思う。

これまでの3作に比べて、会話のテンポや場面展開が早く、もっとゆっくりでもいいのになぁと感じた。眠くなるくらいがいいのに、これでは眠くならない。ほら、やっぱり期待を裏切られる。

若い女性3人が、比較的最近京都にやってきて、お店を開いている。それが木綿豆腐しか出さないお豆腐屋、コーヒーしか出さない喫茶店、ウイスキーしか出さないバー。それぞれ水にかかわるお店。彼女らがひとりのお婆さんと子供によって徐々に知り合って行くわけだが、一方で3人の男性もいたりする。女性たちが知り合うきっかけを作るには、子供はうってつけのアイテムだ。彼女たちはちょっとずつ子供にかかわり、預かったりしながら街との、街の人々とのかかわりを増やしていく。

子供はいつも機嫌よく、誰にでもなつく。その子を連れている彼女たちも、なんだか楽しそうで軽やかだ。しかし、なんだかずっと違和感がある。それが何かをわかったのは、もたいまさこが小林聡美のバーから子供を連れて帰るときに大きなカバンを渡されたときだった。

そうだ。1歳半の子供を連れていたら、当然大きなバッグもセットだ。離乳はしていたとしても、オムツやら着替えやら、春先なら特にブランケットやら、遊ばせるためのオモチャや、飲料が入ったバッグがあるはず。それをそのシーン以外ではもたいまさこも光石研も持っていない。だから小林聡美も持っていないので、軽やかに疎水沿いをだっこして歩くことができる。

何のためにそうしたのだろう?確かにリアルではないが、きっと大きないバッグをもっていたら、なんとなく重たい感じが出て、育児の大変さが表に出て来てしまい、その子が作品の中で担う役割が果たせないからではないだろうか?ここのところは誰か気付いた人に教えてもらいたい。

子供が最初に出てくるシーンを覚えておいたら、最後のオチがわかる。ずっと気になっていたことが、でもそれはきっとスルーされてしまうんだろうな、と思っていたことが、クリヤになる。それは楽しい楽屋落ちなのだけれど、あまりみんな触れてない。何故だろう?

おそらく制作側は観客のかなりのパーセンテージが「プール」を観ていることを前提にしているのではないかと思う。実際、寅さんと化しているな、この映画。寅さんと言えばマンネリ。まぁ、いいか。それもまた。

公式サイト
■監督:松本佳奈
■出演:小林聡美,小泉今日子,加瀬亮,市川実日子,永山絢斗,光石研,もたいまさこ