最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2005年8月

2005年8月27日

皇帝ペンギン

皇帝ペンギン原題:La Marche de L'EMPEREUR
2005年 フランス 86分
監督:リュック・ジャケ
声:ロマーヌ・ボーランジェ、シャルル・ベルリング、ジュール・シトリュク
数年前、NHKのドキュメンタリーで初めてエンペラー・ペンギンの生態を見たとき、何という非合理的というか合理的というか、その不思議な生き方にびっくりして、誰彼かまわず周囲に説明してまわったことがある。それを覚えていてくれた人が今回この映画に誘ってくれた。

南極大陸の海で狩りをしながら生息しているエンペラー・ペンギンだが、南極大陸にはアデリー・ペンギンとエンペラー・ペンギンしかいない。他の南半球のペンギンはみなアフリカ大陸やアルゼンチン、マルビナス諸島などに生息している。その中でもエンペラー・ペンギンは特におかしな生態だ。

冬が来る前に彼らは沿岸から内陸部へ一斉に旅を始める。これが示し合わせたかのような動きで見事なペンギンの行列となる。コロニー(営巣地)は40ヶ所くらいしかないが、旅には1ヶ月かかったりするのだ。ブリザードが比較的よけられる、岩陰などが多いようだ。そのコロニーでオスとメスが出逢い、交尾し、卵が産まれるのを待つ。この間3週間ほど、夫婦は一緒にいる。そして、卵を産み落として栄養状態の悪いメスは卵をオスに預け、海へ向かう。自分と雛のため、栄養補給に行くのだ。卵は足の上においてあたためている。外気に触れる時間がほんの少し長くなっても、卵は死んでしまう。この卵の預ける行動がダンスのようだと映画では言う。

メスが出掛けた後、オスは更に2ヶ月、絶食したまま卵を暖め続ける。男だけになったコロニーではオスたちががっちり固まって、押し合いへし合いして動いている。これはハドリングといって、熱を産み出し、場所を変えることによって、熱を無駄にしないための集団行動だ。ブリザードの中、ハドリングに励むオスの背中には明らかに「男は辛いぜ」と書いてある。

そのうち卵が替えって雛が生まれるが、まだメスは戻らない。オスが胃壁を崩してやっとのことで雛を食べさせている。メスはコロニーに戻ったとき、大勢のペンギンの中から自分のパートナーと自分の子供をちゃんと見つける。そのときのメスは明らかに「あんた、今帰ったわよー」と翼をバタバタさせている。

そして交代にオスは雛をメスに預け、自分はえさをとりに海に行く。この雛を預けるときに失敗すると、死んでしまうこともある。オスの方も栄養状態最悪で海に向かうので途中で死んでしまうこともある。そのため、メスの数より圧倒的にオスの数の方が少ない。

メスは一生懸命雛を育てる。が、ある程度の大きさになったところで、寒さもゆるみ、メスの足の中から出られるようになると、もうえさがなくなったメスは雛をほうって再び海に向かう。すると雛は雛でかたまってクレイシ(保育所)を作る。オスが戻って来て父親と会ったり、戻るオスと海に向かうメスが出会ったりもするが、どうやら基本的にもう雛の面倒は見ないようだ。そしてある日雛たちも海に向かう。エンペラーペンギンはどうやら独り立ちに際してエサの取り方を教えたりはしないようだ。

ほとんど外敵のいない場所をわざわざ選んでの繁殖行動なのだが、少し海鳥がいたりして、時折雛が食べられてしまったりする。だが、クレイシは雛の個数が多く、数の力で固まっているとなかなか海鳥も近づけない。さらに、クレイシの近くには必ず数羽の大人がいて、雛を守っていたりする。しかし、オスもメスも出掛けてしまっているから、クレイシを作っているのに、いったいこの大人ペンギンはなんだろう?

この映画のパンフレットで疑問は解決したが、やはり途中で雛をなくしたり、卵をなくしたりして、えさをやる必要がなく、栄養状態の良い成長個体だったり、逆にまだ繁殖できない3年未満のペンギンだったりするらしい。まさに保育士のようだ。

そもそも、ペンギンは陸上でのよちよちぶりと水中での素早い動きとのギャップが面白いので好きだった。種類の数が限定されているので覚えやすく、生息地も限られているので把握しやすいのも好きな理由だ。

だが、エンペラーペンギンはどうにもこうにも変だ。何が変って、極寒の南極大陸の、しかもエサのない場所へわざわざ大移動しての繁殖。しかも何往復もする。沿岸部では海獣がいて雛が食べられてしまうためだそうだが、合理的なんだか、非合理的なんだか、よくわからなくなってしまう。

フランス語でペンギンが話しているのも、やっぱりヘンな感じだ。

2005年8月26日

孤独な鳥がうたうとき

孤独な鳥がうたうとき■著者:トマス・H・クック著, 村松潔訳
■書誌事項:文藝春秋 2004.11.9 ISBN4-16-323540-X
叙情的なミステリを書いて、言い方は悪いかもしれないが、非常に「文学的」な作品が多い。クック作品では、犯人捜しなぞはどうでもよく、その犯罪に至る心象風景が美しい描写で描かれているわけだ。

というところで評価の高いミステリ作家なのだが、どうも本人も飽きたらしく、違う作風になっていた。面白いと言えば面白い。複数の登場人物がそれぞれ動いて、最後に集結するという筆致法は、特別目新しいものではないかもしれないが、クックがそれをやると、また変な感じなのだ。

やっぱり最後にちゃんとオチがつくところが、クックらしい。

2005年8月16日

七つの丘のある街

七つの丘のある街■著者:トマス・H・クック著, 村松潔訳
■書誌事項:原書房 2003.11 ISBN4-562-03709-1

■感想
夏はミステリーだ!と決めていたのは何年か前までリゾートへ行っていた頃のこと。久しぶりのリゾートに色めき立ち、久しぶりトマス・H.クックなど手にとってみる。ところがこれはノンフィクションだ。書評に「緋色の記憶に連なる…」とあるから、このノンフィクションに基づいて「緋色の記憶」が出来たのかと思って、ドキドキしながら読んでいったら、全然関係ないじゃん。勘違いする方が悪いのか?否。勘違いさせるような書評が悪いんだろう。
「冷血」をはじめ、犯罪ノンフィクション・ノベルは嫌いではないので、それなりに面白かったのだが、犯人がわかってからはともかく、裁判の部分が少し物足りない。もっと検察側と弁護側の攻防があってもいいかなと思う。弁護側の変さが際だつという点では、そこを中心にするのは間違っていないのだが、緊張感が少しゆるんでしまった。実際に攻防なぞはなかったということなのだろう。

2005年8月 3日

風都市伝説―1970年代の街とロックの記憶から

風都市伝説■著者:北中正和編
■書誌事項:音楽出版社 2004.5.20 ISBN4-900340-88-X(CDジャーナルムック)

■感想
1970年代初期の日本のポップスの話が好きだ。その理由は主にはっぴいえんどとシュガーベイブにある。その2バンド以外にも好きなミュージシャンは多い。南佳孝や荒井由実時代のユーミンでさえ、すごくいい。何より人数的には小さな集団だったミュージシャンたちの新しいものを作って行こうという意気込みが好きだからだろう。

この本ははっぴいえんどを看板にしていた風都市(法人名ウィンド・コーポレーション)という伝説の音楽事務所のお話である。松本隆の小学校時代からの友人だった石浦信三というはっぴいえんどのマネージャー兼風都市の中心人物ほか多数のミュージシャンたちの証言でつづる、1970年代の新しいポップスを作って行った人々のお話である。大貫妙子やユーミンは出てくるが、山下達郎は出てこない。ヤマタツは音楽的傾向は違うものの、基本的には大滝詠一のポップスオタク路線を継ぐ人なんだがな。南佳孝のデビュー作が松本隆プロデュース、全曲作詞なのは知っていたが、同じトシとは知らなかった…。

「風街ろまん」ははっぴいえんどの2枚目のアルバム名である。松本隆はいまだに「風待」と風街にひっかけたサイト名を使っている。そのくらい「風」の「街」ははっぴいえんどのイメージにしみついているし、松本隆の中で大事なものなんだろう。「風の街」は摩天楼の街だし、琥珀色だし、緋色の帆を掲げた船が停泊していたりするし、なんだか無茶苦茶文学的だったりするのだが、それこそが1970年代の東京だ、というのが私の中で出来上がってしまったイメージだ。

文中に繰り返し出てくるが、「シティ」という言葉にこだわるのは、やっぱり東京のお坊ちゃんたちの音楽だからなんだろうなぁ。松本隆ははっぴいえんど解散後、すぐに作詞家になったのかと思っていたら、一時慶応に復学してたっていうんだから。はっぴいえんど音楽的には細野晴臣・大滝詠一という大物をかかえながらも、骨格は松本隆がつくっていたのだなということがよくわかる本だ。

PAさえよかったら、もっと評価は違っていた筈だという言葉が繰り返し出てくる。そりゃそうだ。声さえ聞こえない、今のカラオケシステムより遙かに悪いPAじゃあつらい。1980年代初頭に多少PAをかじったことがあるので、少しはそのつらさはわかる気がするな。

ビジネスビジネスって言わないのはよかったけど、やっぱりつぶれてしまったのは、辛いことだったんだろうな。