最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2005年3月

2005年3月31日

イノセント

イノセント■原題:L'Innocente
■制作年・国:1976年 イタリア/フランス 129分
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:ジョヴァンニ・ベルトルッチ
■原作:ガブリエレ・ダヌンツィオ「罪なき者」
■脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ/エンリコ・メディオーリ/ルキノ・ヴィスコンティ
■撮影:パスクァリーノ・デ・サンティス
■音楽:フランコ・マンニーノ
■衣装:ピエロ・トージ
■出演:ジャンカルロ・ジャンニーニ(トゥリオ・エルミル)/ラウラ・アントネッリ(ジュリアーナ)/ジェニファー・オニール(テレーザ・ラッフォ伯爵夫人)/マッシモ・ジロッティ(ステファノ・エガーノ伯爵)/ディディエ・オードパン(フェデリコ・エルミル)/マルク・ポレル(フィリッポ・ダルボリオ)/リーナ・モレッリ(トゥリオの母親)/マリー・デュボア(公爵夫人)

■内容
19世紀末のローマ。貴族のトゥリオは愛人の伯爵夫人テレーザとの情事を楽しんでいた。貞淑で従順な妻ジュリアーナは夫の浮気に苦しんでいた。トゥリオが愛人とフィレンツェに旅行に行っている間に、トゥリオの弟はジュリアーナに友人で売れっ子の作家ダルボリオを紹介する。二人の間に惹かれるものがあった。
トゥリオは恋敵のエガーノ伯爵との間に決闘騒ぎを起こし、ローマに戻って来た。するとジュリアーナの様子が変わっていることに気付く…。

■感想
ヴィスコンティの遺作。世紀末の貴族の頽廃ぶりを描いたデカダンな作品で、一族郎党を出演させている。左半身不随の上、最後は酸素吸入器をつけて車椅子からの演出となり、おそらく思い描いた通りには出来なかったのだろうけれど、それでも最後を予感しながら、必死の思いで作ったに違いない。豪華で官能的な映画となった。最後も貴族の映画で、しかもこんなに豪華でありがたいなと思う。

冒頭、サロンでの音楽会のシーン。セットも部屋の小道具も衣装も、すべてが美しく豪華だ。衣装は赤を基調としているが、同じ赤でもジュリアーナの紫がかった赤とテレーザの原色輝く赤とでは違う印象を与える。そして二度目のサロンのシーンでは侯爵夫人とテレーザは黒を着ている。その対比がとてもあでやかだ。そして本物の貴族が出ている、映画の中では唯一のモブシーンで、じっくりと、その美しさを堪能する。

また、リラの別荘でのシーン、陽光輝くイタリアの明るい別荘地らしく、とても美しい。アップの多様が目に付くが、トゥリオとジュリアーナの間にある緊迫感が伝わって来るようだ。弟の軍人の青いマントもカッコイイ。「夏の嵐」の白いマントほどではないが、時期的にはもう少し後のイタリア軍になるのだろう。それに、「イノセント」と言えば、パっと思い浮かぶシーンは何故かいつもフェンシングなんである。この白もまた記憶に強烈に残る。

アラン・ドロンとロミー・シュナイダーで見たかったなとやはり思ってしまう。でもラウラ・アントネッリはなかなか。1970年代イタリアのセックスシンボルだそうだが、一見従順で貞節な妻、でも脱ぐと凄いんですという女優なんだと納得した。それにつけても、マッシモ・ジロッティが老けちゃって…処女作と遺作に出たのだから、当然なのだが。

トゥリオは貴族で金持ち、名誉も地位もあり、教養もあり、美男子で、当然女性にもてて、このスカシた野郎は…ニーチェの“善悪の彼岸を越えている”かのような超人だそうだ。頭良い、顔が良い、エゴイストの三位一体である。こういうのをイイ男というのだが、実際は妻に甘ったれて愛人を忘れたいと嘆く単なるダメ男くんである。「キミは妹だ」なんて言われて、喜ぶ女がいると思っているあたりが、頭悪過ぎなんである。

逃げられたら追いかけようとする、テレーザに対してもジュリアーナに対してもリアクションが同じである。どうしてそうなんだろう。テレーザの言うとおり、「持ち上げたり、下げたり。どうして地上を一緒に歩こうとしない」んだろう。

私にはジュリアーナがよくわからない。遊びで浮気されても貴族にはよくあることだからと耐えているのはいいのだけど、夫が本気になったら寂しくてしょうがない。だからタイミングよくダルボリオが言い寄って来たから浮気するのはわかる。わからないのは、妊娠したとわかったとたん、罪の意識におののいて逃げ出すところだ。彼女はダルボリオと駆け落ちするか、慌ててつじつま合わせに夫に言い寄って夫にも自分の子供と思わせるか、二者択一しかなかった筈だ。両方とも出来なかったのは貞淑な妻だから、という設定なのだが、これがよくわからない。

彼女にとってはダルボリオはやはり単なる浮気だったのだろうか。それとも本気だったのだろうか?トゥリオに対して子供を嫌っているように見せたのは芝居だなということはよくわかる演出になっているが、では夫とヨリを戻そうとしたのも芝居だったのだろうか。そういうふうには演出されていない。ちょっとその辺がヴィスコンティにしては浅い演出だなと思う。ここのところを彼女の芝居らしくしてくれた方が筋が通る。

ダルボリオとは単なる浮気なら、子供をトゥリオの子供として育てた方が子供のためになるのだから、彼女が夫とヨリを戻そうとするのはわかる。だが、トゥリオが子供を殺したいと思うほど狭量でダメ男くんだとは思わなかったという計算違いは仕方ないのか?彼は強烈なエゴイストでナルシストなんだから、そもそも自分の子供だって本当に愛せるかどうかもわからないタイプなのに、他人の子供なんか受けいれられるわけないじゃん。ってどうしてわからないかなぁ。子供を守るためなら、そこまで頭回さないと。生んだくせにちゃんと子供守ってやれなかったところがジュリアーナの罪。ダルボリオとの浮気が罪なのではない。

ラスト、トゥリオは自ら幕を引くわけだが、ここは原作とは違うそうだ。ヴィスコンティ自ら「この人物はこれが正しい。この方が人々に受け入れられる」と言っている。それは映画として大衆に受け入れられやすいものにしなくては、などと考えているわけではなく、現代的な解釈としては、こういう超人は結局収容所を作るわけだから、それは存在として失われていくのが当然だという意味だ。映画のラストで彼が自殺すると、私はホッとしたし、これ以外の結末はないだろうと思えた。だが、この死はトゥリオにとってどんな意味があるのだろう。嬰児殺しの罪の意識からでは、むろんない。敗北感からだろうか。

彼は何に敗北したのだろう?ダルボリオにだろうか?それはそうだろう。彼は死んで、決して勝てない。妻は彼を愛し続けると言って尼寺に入ってしまうし。フェンシングでも何でも負けたことのない彼からすると許し難い現実なのだろう。

だが、私は不思議に思う。一度は妻に対して子供を産むことを許したくせに、何故彼は殺そうと思ったのだろう。それは夜中に赤ん坊を見に行く理由を妻に説明する場面で現している「君が幸せそうな、その秘密を探りに行くのだ」と。つまり、子供が生まれて嬉しい、幸せだ、という気持ちに自分がなりたいという意思表示だと私は思った。妻の不義の子を認めるという寛大なところを見せたのだから、彼も最後までそれを貫き通したかったのだが、自分で思っているより遙かに情けない男だということを知らなかったようだ。自分の肥大した自画像と実際の自分自身のギャップ。誇り高い彼には許せなかったのかもしれない。だから自殺した。私にはそう思える。

いずれにせよ、彼は解放してもらったのだ。ルキーノ・ヴィスコンティの手によって。

ヴィスコンティが映画監督でよかった。舞台は同時代に生きていないと見られないが、映画はこうやって後からでも見ることができる。

※3ヶ月かかったが、ヴィスコンティを最初から最後まで見ることができてよかった。実は「異邦人」も見ているのだが、ちょっと前なので、もう一度見てからにしたい。「異邦人」はおそらくはDVDにはならないだろうと思うので、映画館かテレビ放映か、機会があるといいと思う。オムニバス映画の「我ら女性」はDVD化されているので、いずれ。「華やかな魔女たち」はDVDになっていないので、テレビ放送などを待ちたいと思う。

2005年3月27日

山猫

山猫■原題:Il Gattopardo(英:The Leopard)
■制作年・国:1963年 イタリア/フランス 186分
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:ゴッフリード・ロンバルド
■原作:ランペドゥーサ「山猫」
■脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ/パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ/エンリコ・メディオーリ/マッシモ・フランチオーザ/ルキノ・ヴィスコンティ
■撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ
■音楽:ニーノ・ロータ
■衣装:ヴェラ・マルツォ
■出演:バート・ランカスター(サリーナ公爵)/アラン・ドロン(タンクレディ)/クラウディア・カルディナーレ(アンジェリカ)/リーナ・モレッリ(侯爵夫人ステラ)/パオロ・ストッパ(カロージェロ・セダーラ)/ロモーロ・ヴァッリ(ピローネ神父)/ピエール・クレマンティ(長男フランチェスコ・パオロ)/セルジュ・レジアニ(チッチョ)/レスリー・フレンチ(シュバレ)/マリオ・ジロッティ(カヴリアーギ伯爵)/オッタヴィア・ピッコロ(三女カテリーナ)/ジュリアーノ・ジェンマ(ロンバルディ軍の将軍)

■内容
1860年5月、祖国統一と腐敗した貴族支配からの解放を叫ぶガリバルディと彼の率いる赤シャツ隊がシチリア島に上陸した。シチリアを長きに渡り統治してきた名門サリーナ公爵家の庭に王党派の兵士の死体が発見され、この家にも上陸の知らせが入る。侯爵の甥のタンクレディは侯爵が自分の子供よりも目をかけており、目端の利く彼は革命軍に参加するため、いとまごいに来る。侯爵は反対するが、多くの金貨を手みやげに甥を送り出してやる。
毎年恒例の避暑のため、サリーナ侯爵は一家でドンナフガータ村の別荘へ行く。途中、戦闘で片目を負傷したタンクレディが合流。村では例年通り侯爵一家を迎える。村長で新興ブルジョワジーのカロージェロを晩餐会に招く。彼の燕尾服は侯爵家の物笑いの種だが、娘が登場して一気に空気が変わる。絶世の美女アンジェリカと出会い、タンクレディはすぐさま恋に落ちる。そういう目端の利く甥を侯爵は応援するのだが、一方で侯爵の娘コンチェッタは失恋してしまうのだった…。

■感想
〔イタリア語・完全復元版〕を映画館のスクリーンで見た。この復元版は2004年10月に新宿で公開され、その後全国を回っている。ほんの数日だけ東京、下高井戸に戻って来た間隙をつくことができて幸いだった。

ヴィスコンティの作品群の中で、大きな分水嶺となった作品。この前と後ろで繋がっているテーマは多数あるが、この後の作品で社会的な弱者を取り扱うことはなくなり、滅び行く貴族が主要な登場人物になっていく。また、ヴィスコンティの最大のスペクタクル作品であることは間違いない。3時間に及ぶ映画の終わりの40分強を費やす舞踏会シーンは登場人物が多く、できるだけ誰が何をやっているか、全部見てやろうとすると非常に疲れる。例えば、何のダンスをどういう背景の人物が踊っているか、それだけ調べても面白そうだ。このシークエンスだけで論文が書けるに違いない。なにせ200人以上の本物のシチリア貴族がエキストラで参加しているのだそうだ。本物のランペドゥーサ家の食器たちも参加している。この人数のシーンを全部演出したのだと思うと、ヴィスコンティの力強さに圧倒される。出演者が全員ちゃんと演技していて、それを全部納得行くように演出したなど、実際パラノイアではないかと思うほど凄い。

最初のシークエンス、家長たる侯爵の威厳ある姿で始まり、タンクレディの後ろ姿で終わる。叔父にいとまごいに来た彼が、侯爵の部屋を飛び出し、家族の人々に別れの挨拶をする。彼の動きは犬の動きと相まって、実に快活で躍動的である。そして彼は馬車で去る。そのとき初めて侯爵家の広大な敷地が見える。見送る侯爵の堂々とした姿とタンクレディのカッコ良さ、そして広大な風景に圧倒される。

バート・ランカスターのサリーナ侯爵は複雑な役だ。ある時は頑迷で強健、ある時は繊細で疲れている。自らの階級が没落するであろうと感じ、新興ブルジョアジーに対して軽蔑を感じながら冷静にその力を認めている。自分たちの立場を客観的に判断し、生き延びる道を模索できる能力は、長い歴史を見つめてきたその重みから作られているのだろう。こういう複雑な貴族の心情、生活などはやはり貴族出身の監督ならでは。ほかの作品にももちろんヴィスコンティの出自が反映されてはいるが、「山猫」はその最たるものだろう。

準主役とも言えるタンクレディは侯爵の長女に気のあるそぶりを見せながら、ブルジョアジーのアンジェリカにあっさり寝返る。コンチェッタに求婚していたわけではないので裏切りにはならないが、心情的にはどうもなぁというところがある。最初は単にアンジェリカに惹かれただけだが、自分が父親のせいで財産がないことをよく承知している彼はコンチェッタよりも持参金が多いことを当然計算して求婚している。それを利に聡いというよりは、聡明だと侯爵は考え、頼もしく感じる。その現実感覚は私も好ましいと思う。でも、罪の意識からか、コンチェッタに気のある友達のカヴリアーギ伯爵を連れて来るあたりは、やり過ぎだという気がする。

ガリバルディ軍の戦闘シーンでは、私が白兵戦を見るといつも感じる恐怖感が更に強く感じられた。これは市街戦なのだが、おそらくは夫だろう、銃殺された男にすがる女性がいたり、黒い服を着たおそらくは警察署長を追いかけ回し、銃殺の仕返しにリンチにする婦人たちの姿があったり、戦闘場面にふと迷い込んだ小さな女の子がいたり、そういったリアリティあふれる場面の積み重ねか、CGでは感じ得ない、何とも言えないざらついた印象を残す。

その後、一瞬にしてシチリアの広大な風景の中を侯爵一家が旅するシーンになる。到着した一家はすぐに教会に入るが、この一列に並んだ家族全員がほこりまみれで憔悴しきっている。その姿が何故か滑稽だ。戦争中にもかかわらず旅するのは、毎年恒例の避暑だからというよりは自分の地所に対して安心感を与えるためだろうなと思う。侯爵の領地に対する思いが伝わって来る。

別荘の中でアラン・ドロンとカルディナーレが部屋を次々に移っていくシーンの意味がよくわからなかった。「数えられるような部屋数の屋敷には意味がない」という貴族の価値観を表現したシーンだが、なんとなく腑に落ちない。これはどうも原作に詳細な記述があるようだが、本当は何のために時間を費やしたのだろうか?原作を読んで解決することにしよう。

そして舞踏会に話を戻すが、とにかく熱気がすごい。人が多いせいだけではなく、ほとんどの人が扇で煽っているせいだ。これは実際に撮影時にすさまじい熱気で、失神する人が多数出たという話だ。最初に見た侯爵は、例によって丈夫そうなのだが、若い娘たちの一群を見たシーンで「猿ですな」と言った後あたりで、どっと疲労が見える。人々の喧噪を逃げるようにして入り込んだ主人の書斎のシーンは更に疲れている。その後にアンジェリカとのワルツのシーンが来て、侯爵が急にしゃきっとして、軽やかなステップを踏む。そしてその後また疲れたように帰って行く。長い舞踏会のシーンの中では侯爵とアンジェリカのワルツを踊るシーンが中心だとよくわかるように、浮き上がらせている。

今回、アラン・ドロンは「若者のすべて」の無垢で純粋なロッコとは正反対とも言える青年で、「太陽がいっぱい」のリプリーに近い。野心が男を美しく見せる、というパターン。私はこちらの方が好きだ。クラウディア・カルディナーレは目のふちが黒くて、私はどうも怖い。でも少しハスキーな声が魅力的だ。

3時間強の映画を飽きもせず、楽しく見せることが出来たのだから、当然これは娯楽大作だ。20世紀FOXの資本が入ったからではなく(舞踏会のシーンを丸ごとカットしたという馬鹿なアメリカ人)、原作がエンターテイメント性が高かったからではなく、ヴィスコンティがわかりやすく、豪華に作ったからに違いない。

一通り全国を回ったら、是非DVD化して欲しい。

家族の肖像

家族の肖像■原題:Gruppo di Famiglia in un Interno(英:Conversation Piece)
■制作年・国:1974年 イタリア/フランス 121分
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:ジョヴァンニ・ベルトルッチ
■脚本:ルキノ・ヴィスコンティ/エンリコ・メディオーリ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ
■撮影:パスクァリーノ・デ・サンティス
■音楽:フランコ・マンニーノ
■衣装:ヴェラ・マルツォ(シルヴァーナ・マンガーノの衣装:ヒエロ・トージ)
■出演:バート・ランカスター(教授)/ヘルムート・バーガー(コンラッド)/シルヴァーナ・マンガーノ(ビアンカ・ブルモンティ)/リエッタ(クラウディア・マルサーニ)/ステファノ・パトリッツィ(ステファノ)/ドミニク・サンダ(教授の母)/クラウディア・カルディナーレ(教授の妻)

■内容
ローマの広大な館に一人静かに暮らす初老の教授の趣味は18世紀の「家族の肖像画(Conversation Piece)」を蒐集することだった。ある日実業家夫人が自分の愛人を住まわせるために階上の部屋を借りたいと言って来た。静かな生活を乱されてはと思い、教授は断ったが、夫人は娘とその婚約者らとともに、策を練って強引に1年契約ということで借りてしまう。
ところが、彼女の愛人は自分の持ち物になったと聞かされ、強引な改装工事に入る。怒った教授と愛人の青年は決着をつけるため対話する。青年が夫人に電話するとヒステリーを起こして話にならない。ところが、この青年が絵画に鑑識眼があったことから、教授との不思議な交流が始まる…。

■感想
ルートヴィヒ編集中に脳卒中で倒れたヴィスコンティが奇跡的に回復し、左半身不随のまま作った作品。モブシーンを撮ることが出来ないことは、さすがのヴィスコンティも自覚していたのだろう。舞台は屋内、しかも教授の屋敷でのみ、登場人物も限られており、晩年の小品と言っていい映画だが、完成度の高さはこれまでの類を見ない。織り込まれているのは家族の崩壊、世代間の格差、モラルや人間関係の崩壊、官能の世界、共産主義とファシストの対立による政情不安、科学の進歩と道徳の問題。

舞台となった館の素晴らしいこと。特に書斎の本棚の高さがちょうどいい。絵は少し量が多すぎる気がするが、暖炉といい、机といい、この重厚さと静けさは私も好むところだ。映画の冒頭、ずかずかと教授の家に入り込んで来るビアンカらの姿を見ていると、教授の気持ちになって苛々してきてしまうほどだった(最初、絵を勧められる教授を見て、美術史の教授なのかと思ってしまったが、途中でサイエンティストだとわかった。絵は趣味で、家族絵の蒐集をしているのだという設定は、相当後になってからでないとわからなかった)。

それに対比させるかのような改装後の階上の部屋のモダンさも見事。さすがイタリアだと思わせた。白を基調に原色があふれている。家具から絵から、何でもモダン風だ。まぁ、当時のモダンであって、本当に今のモダンではないのだろうけれど、それにしても対照的だ。

この対比はもちろん世代間のギャップを表現しているのだが、ほかにも多数世代格差を表現しているシーンがある。若い連中はとにかく電話をかけまくる。これはうざったいなと思うほどに誇張されている。

教授が最初にリエッタに降参するシーン「我々は言語が通じない」と笑うところで、彼が単に偏屈な老人などではないことがよくわかる。図々しくも他人の家の台所に入り込み、サンドイッチを食べてさっさと出て行くところ。食事をしようと言いながら姿を見せず、1ヶ月も音信不通なところ。誇張されてはいるが、最後に彼が総括するように、家族とはそういう身勝手なもので、わずらわしいものなのだ。内部での喧嘩を繰り返しながら、決して切れない絆を持っている。そういったマイナス面を彼は人生の中で引き受けてはこなかった。それなのに、その煩わしさを一度理解してしまうと、もとの孤独には戻れなくなってしまうとは皮肉なものだ。

教授は助言を求めるコンラッドを救おうとはしなかった。また、ブルモンティらブルジョアに裏切られ、出て行こうとする彼を引き留めはしなかった。憎みながらもすがっていた世界から拒絶されたと感じた彼が爆死して、教授は病に伏し、そしていずれ死ぬ。孤独な二人がせっかく出会うチャンスをみすみす逸した悲劇的な結末だ。

孤独な老人のもとにずかずかと入り込んでくる人たちと次第に疑似家族を形成していくが、一度だけ全員が揃った夕食をとり、和解したかのように見えた瞬間、あっという間に崩壊してしまう。この流れなんだが、絶対にどこかで見た気がする。もちろん、この映画を模しているのだろうけれど、おそらくテレビドラマだと思う。単なる既視感だろうか。

ヘルムート・バーガー演じるコンラッドはドイツ人で、1968年の学生運動に身を投じた左翼活動家だったにもかかわらず、今はファシストの実業家夫人の愛人をやっている。自分が戦っていた敵の金で暮らしているという矛盾のせいで、傲慢だが不安気で卑俗だが繊細で、時折高貴な顔立ちを見せる、そんな男をヘルムート・バーガーは見事に演じている。本当にヴィスコンティ作品の3本だけの役者だなぁと思う。

クラウディア・カルディナーレが、ほんの一瞬だけしか出てこない。あんないかにも友情出演(カメオ出演というらしい)役でも大物女優がはせ参じるところが、さすが。ドミニク・サンダもほんの数カットだけだが、非常に印象的だ。教授の回想の中に出てくるのだが、同じ書斎とは思えないようなライティングで、花に満ちている。どちらかというと、陰鬱な感じの本と絵の方が私は好みだが、この対比は見事だ。シルヴァーナ・マンガーノはどんどん落ちている気はするが、そこは役者。「ヴェニスに死す」「ルードヴィヒ」と立て続けの出演になるが、この作品が一番出番が多く、強烈だ。

遺作の「イノセント」とこの作品がヴィスコンティの晩年と言ってもいいだろう。落ち着いた、いい映画だった。

2005年3月21日

ルートヴィヒ〔完全復元版〕

ルートヴィヒ■原題:Ludwig
■制作年・国:1972年 イタリア/西ドイツ/フランス 240分
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:ウーゴ・サンタルチーア
■脚本:ルキノ・ヴィスコンティ/エンリコ・メディオーリ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ
■撮影:アルマンド・ナンヌッツィ
■音楽:フランコ・マンニーノ
■衣装:ヒエロ・トージ
■助監督:アルビーノ・コッコ
■出演:ヘルムート・バーガー(ルートヴィヒ2世)/ロミー・シュナイダー(エリザベート皇后)/トレヴァー・ハワード(ワーグナー)/シルヴァーナ・マンガーノ(コジマ)/ゲルト・フレーベ(ホフマン神父)/ヘルムート・グリーム(デュルクハイム)/イザベラ・テレジンスカ(マリア皇太后)/ウンベルト・オルシーニ(ホルンシュタイン伯爵)/ジョン・モルダー・ブラウン(オットー)/フォルカー・ボーネット(カインツ)/ハインツ・モーク(グッデン教授)/アドリアーナ・アスティ(リラ・フォン・ブリオスキー)/ソニア・ペトローヴァ(ゾフィー)/マルク・ボレル(ホルニヒ)/ノラ・リッチ(イーダ・フェレンツィ伯爵夫人)/マーク・バーンズ(ハンス・フォン・ビューロー)


■内容
バイエルンの王ルートヴィヒ2世は父マクシミリアン2世急死のため19歳で即位した。彼は国に偉大な芸術家を招いて豊かな王国にすることを夢見る。早速作曲家のワーグナーを招いて、豪華な家を贈ったり、上演したり、劇場を作ったり、とふんだんに金をつぎ込む。そういった彼の行動は政府から非難され、やむを得ずワーグナーをミュンヘンから退去させることに同意する。
ルートヴィヒが愛しているのはオーストリア皇后エリーザベト。だがその思いは当然かなわない。彼女も弟のようにルートヴィヒを心配している。国民のために彼女の妹ゾフィーと婚約するが、結局婚約破棄することになってしまう。それが不幸の始まりだったのだが...

■感想
契約のため3時間にカットされて公開された「ルーヴィヒ―神々の黄昏」に対し、後年スタッフがほぼヴィスコンティの予定通りの編集をほどこした4時間版を「ルーヴィヒ 完全復元版」と呼ぶ。なんだか書籍によっては「ルードウィッヒ」とかもあるので、要注意。

この映画はバイエルン王ルードヴィヒ二世が1864年18歳で即位し、1886年40歳で謎の死を遂げるまでの生涯を描いている。ヴィスコンティのドイツ3部作の最後の作品であり、最も規模の大きな作品となった。極寒のオーストリアやドイツでのロケを敢行、あまりのハードさに撮影終了後、編集中にヴィスコンティは心臓発作で倒れてしまった。基本的に、男どうしが豪華だけど暗い部屋の中、暗い顔で話し込んでいるシーンが多い、暗い映画である、と断言する。しかし、ロケシーンとお城のシーンは本当に美しい。部屋の中も豪華なんだけど、暗いから、見えづらいときがある。

この「狂王」と呼ばれるルートヴィヒ二世については、ドイツに惹かれたことのある者なら誰でも一度は触れたことがあるだろう。リンダーホフ城、ノイシュバンシュタイン城、ヘレンキームゼー城を築いた人物で、ワーグナーのパトロンとなって「トリスタンとイゾルデ」を上演させた王様である。伝記的要素としては、まずは簡単な家系図を頭に入れておきたい(参考サイト)。ルートヴィヒには弟のオットーがいて、後に摂政となるルイトポルトは父の弟、すなわち叔父に当たる。問題のエリーザベト・ゾフィー姉妹は正確には従姉妹ではなく、ルートヴィヒの父親が彼女らの従兄弟になる。

歴史的要素としては1866年に普墺(プロイセン=オーストリア)戦争ではオーストリア側について参戦し敗北。普仏(プロイセン=フランス)戦争においてはプロイセン側で戦争に参加し、こちらは大ドイツ統一の一助となる動きをしている。この王様はドイツ統一、近代国家への歩みの中では衰退せざるを得なかったヴィッテルバッハ王家の末裔という位置づけで私は講義を受けた記憶がある。

豪華絢爛、素晴らしいしい様式美。だが私の一番好きなシーンはエリザベートとの雪の夜を馬で行くシーン。次に好きなのは薔薇の島へ湖水をすべるように、エリザベートが到着するシーン。両方ともとても寒いのだが、穏やかな美しさに満ちている。やっぱり私はエリザベートが好きなんだなぁ。夜のシーンが多いので、暗いのだけど、この「夜」というのが映画のキーなので、当然だ。

役者たちもまたヴィスコンティ映画総決算のように過去に手に入れて来た俳優を上手に配置し、彼らも素晴らしい演技を見せている。「地獄に堕ちた勇者ども」で妖しい魅力が爆発したヘルムート・バーガー。この後「家族の肖像」にも出るが、実際この俳優はこの3本で終わりだ。若く凛々しい王様が暴飲暴食がたたり醜くなっていく有様は圧巻。特にラストの方、狂気なのか正気なのかわからないという王を演じさせると、さすがにぴったり。この王様の写真は残っていて、若い頃美しかったのが見る影もなく太っていく姿は「狂王ルートヴィヒ」(ジャン デ・カール著 中公文庫)の口絵に載っている。若い頃美しかった、ということではないが、何故かふと最近のディエゴ・マラドーナに思いが及ぶ。

シシーことエリザベート皇后はロミー・シュナイダー。子役と言ってもよい年代に「プリンセス・シシー」を演じて人気を博し、それが元で女優として一皮むけなかった時代、舞台で叩いて素晴らしい女優に育てたのはヴィスコンティ自身。34歳のロミー・シュナイダーはもはや風格漂う女優になっていて、気品と知性にあふれ、快活で、絶世の美女と言われるエリザベートを見事に演じた。彼女が登場するシーンだけが、この美しいけれど陰鬱な作品の中でほっとできるひとときである。

「地獄に堕ちた勇者ども」でマルティン(ヘルムート・バーガー)をナチの道に引きずり込む悪の手先、SSのアッシェンバッハ(ヘルムート・グリム)が、「ルートヴィヒ」では王のために最後まで誠実で忠誠を尽くすデュルクハイム大佐となって登場するのは、なかなか皮肉な組み合わせである。すごく腹黒い悪い奴とすごい誠実な人物と、両方演じられるのはさすがに役者だなぁ。軍服の似合う俳優である。

初めてこの映画を見たとき、ワーグナー役の役者があまりに本人の肖像がと似ているので、ちょっと驚いたほどだ。シルヴァーナ・マンガーノは私の中のコジマ像よりは、少し艶っぽいというか、控えめな感じ。「ベニスに死す」とはまるで違うのだけれど、やはりコジマはもう少しきついイメージがある。ワーグナーとコジマと娘たちのクリスマスの場面も、この映画の中では数少ない暖かみのあるシーンである。

ルートヴィヒの弟オットーを演じたアイドル顔で甘いマスクの俳優であるため、狂気に陥ったときのシーンに痛ましさが増大して見える。特に皇太后のカソリック洗礼式のときの演技は素晴らしい。ルートヴィヒの将来を予言するようだが、実際にこの親王は40年間も幽閉されたままだった。兄よりも一層悲劇的な人生だった。

即位後ルートヴィヒは幼い頃から一緒に遊んだエリーザベトに再会し、彼女を愛していることを再確認する。が、8歳も年上で皇后ですでに子供も3人も生んでいるため、当然かなわない。王族というものの義務を語るエリーザベトの言葉を拒否しながら国のために受け入れ、一度は婚約するも、同性愛的な傾向に気付いて破棄。その後は政治にも戦争にも背を向け、ひたすら自分のロマンを追い求め、首都を離れて城に閉じこもる。家来たちと鬼ごっこに興じるシーンがあるが、饗宴という趣はなくむしろ寂寥感が漂っている。ヴィスコンティの同性愛シーンは、当時だからなのだろうか、それともそれがヴィスコンティらしさなのか、非常に控えめである。

最後に幽閉されるベルク城のシーンで、太鼓をもった子供の絵がアップになる。これは子供の頃のルートヴィヒを描いた有名な絵だ。本当にこの部屋にかかっていたのかどうかは私は知らないが、この絵を見る度にギュンター・グラスの「ブリキの太鼓」を連想してしまう。長いラストシーン、夜、湖の側で松明が炊かれ、王と医者を捜すシーンは緊迫感あふれ、うまい演出と編集だと、つくづく恐れ入る。

自らの夢の実現のため、ワーグナーを支援したとき、国民はワーグナーを批判したが、ルートヴィヒのことはさほど糾弾していない。城の建設で国庫を圧迫し、財政難に陥らせたが、国民には依然人気があるのだ。だからこそ政府は簡単に退位させることができず、精神鑑定を慎重に行うのだ。戦争に背を向け、前線に出ない王様など軍隊は嫌って当然なのに、何故か軍の中にも支持者は多い。

この王様は不思議な魅力にあふれている。本人の言葉通り「謎のまま」である。ドイツ人の気質の中に孤独を好むロマンチストが潜んでいて、ルートヴィヒはまさにその象徴だからかと想像してしまう。政治家としては駄目な王様だが、象徴としては悪くはなかったのだろう。

彼の作った様式はメチャクチャな組み合わせで作られた三つのお城が現在もバイエルン地方の観光の目玉となっているのである。ノイシュバンシュタイン城は言わずとしれた白鳥城。リンダーホフ城は館といってもいいような大きさだが、白鳥のボートをうかべた鍾乳洞風の人口洞窟がある。ヘレンキームゼー城ではシシーがヴェルサイユ宮殿鏡の間を模した部屋で哄笑した。マキシミリアン2世が作ったシュバンガウ城はノイシュバンシュタインのすぐ下にあり、ルートヴィヒは幼少をここで過ごしたことがある。まるっきり「ドイツ・ロマンチック街道」である。今となってみれば財政源になっているところが皮肉だな。。

2005年3月17日

ベニスに死す

ベニスに死す■原題:Marte a Venezia(英:Death in Venice)
■制作年・国:1971年 イタリア/フランス 130分
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:ルキノ・ヴィスコンティ
■原作:トーマス・マン(「ベニスに死す」)
■脚本:ニコラ・バダルッコ/ルキノ・ヴィスコンティ
■撮影:パスクァリーノ・デ・サンティス
■助監督:アルビーノ・コッコ
■出演:ダーク・ボガード(グスタフ・フォン・アッシェンバッハ)/ビョルン・アンドレセン(タッジオ)/シルヴァーナ・マンガーノ(タッジオの母)/ロモロ・ヴァリ(ホテル・デ・バン支配人)/マーク・バーンズ(アルフレート)/ノラ・リッチ(家庭教師)/マリサ・ベレンソン(アッシェンバッハ夫人)/キャロル・アンドレ(エスメラルダ)/フランコ・ファブリッツィ(理髪師)/セルジオ・ガラファノーロ(ヤシュウ)


■内容
ミュンヘンに住む高名な作曲家で指揮者のグスタフ・フォン・アッシェンバッハは心臓を病んだために仕事を中断することを余儀なくされ、ベニスに休養に来た。ホテル・デ・バンに滞在することにしたが、そこでポーランド人の一家に出会う。その中に巻き毛で金髪碧眼の14歳の美しい少年、タッジオがいた。アッシェンバッハはその美しさに魅了される。長年勤勉に芸術を作り上げて来たアッシェンバッハも迫り来る老いにおびえ、音楽家としてのモチベーションは低下し、創作活動のスランプに陥っている。何も手を加えていない、究極の美しさをもってタッジオはアッシェンバッハの前に立ちはだかる。
タッジオに魅かれる自分を恥じ、シロッコ(アフリカ大陸からの熱風)に悩まされたアッシェンバッハは一度はベニスを後にすることを決意するが、ホテル側がおこした荷物の手配のミスによって嬉々としてホテルに戻る。
しかし、ベニスはコレラが蔓延し始めていた。そのことに気づいたアッシェンバッハはタッジオ一家にベニスを去るよう勧めようと思うが、どうしても出来ない。どうにも出来ないままアッシェンバッハはタッジオを目で追い続けるのだが…。

■感想
高校生のときにまず原作を先に読み、読後すぐに映画を見た。どんなタッジオなんだろう。少しでも期待はずれだったら猛烈に腹が立ったに違いない。ところが、ビヨルン・アンドレセンは完璧だった。想像を遙かに超えて素晴らしい芸術作品だった。この映画だけでルキノ・ヴィスコンティという映画監督の力量がわかった気がした。私がヴィスコンティ作品を初めて見たのはもちろん「ベニスに死す」だった。


この少年のすばらしい美しさにアシェンバハは唖然とした。青白く優雅に静かな面持は、蜂蜜色の髪の毛にとりかこまれ、鼻筋はすんなりとして口元は愛らしく、やさしい神々しい真面目さがあって、ギリシア芸術最盛期の彫刻作品を想わせたし、しかも形式の完璧にもかかわらず、そこには強い個性的な魅力もあって、アシェンバハは自然の世界にも芸術の世界にもこれほどまでに巧みな作品をまだ見たことはないと想ったほどである。(高橋義孝訳「ベニスに死す」)

今でこそヴィスコンティの代表作のように言われるが、今更ながらよくこんな小説を映画化できたものだとつくづく思う。ストーリーらしいストーリーはなく、芸術家の内面の葛藤とひたすらプラトニックな愛情を描いている。原作の小説家を映画で音楽家に替えて主人公の職業を視覚的にし、アルフレートという友人を回想シーンで出すことにより、主人公が自らの信念(=芸術とはたゆまず作り上げるものだ)に反する究極の美の創造物(=タッジオ)と直面していることによる内面の危機を表現している。更にタッジオとかつて出会った娼婦(これは原作にない)を結びつけることにより、わかりやすくアッシェンバッハがついに官能の世界にまで陥ったことを表わしている。こういった映画上の技法でわかりやすくしているため、決して難しい映画にはなってはいない。そしてベニスという街の頽廃的で豪華で、迷宮的な雰囲気を味わうことが出来るだけで、充分に楽しめる映画に仕上がっている。


今回は原作を完全に頭から完全に外し、映画を初めて見るような気持ちで臨んだ。すると、最初の化粧をした老人の出現は後でアッシェンバッハが自ら老いをかくすためにした化粧の前触れとして理解できるが、その時はよくわからない。その次に出てくる無許可のゴンドラ船頭も何の意味があるのだろう?と思えてしまう。だが、その次に出てくる饒舌なホテルの支配人と合わせて、なんだかみんな不気味で、地獄への案内人のように感じられた。ヴィスコンティの狙い通りなんだろう。

タッジオ登場のシーンで息をのみ、そしてタッジオの母の登場する。彼の美しさの裏付けというような彼女の存在によって、タッジオが更に輝きを増す。その後はひたすらアッシェンバッハ(見る者)とタッジオ(見られる者)の攻防である。タッジオは時にはアッシェンバッハの視線に気付き、挑戦的だったり、少し蠱惑的だったりするまなざしを返すことがあるが、基本的には一方的に見られる者である。アッシェンバッハの胸の高鳴りが伝わって来て、タッジオに視線が気付かれるのではないかと思い、緊張してしまうほどだ。

今回、記憶にあるタッジオより遙かにごくごく普通の少年として描かれていることに少し驚きを覚えた。他の子供たちと海で遊ぶ姿や姉妹たちと異なり、唯一の男の子だから甘やかされているのだろう、無邪気さいっぱいで家庭教師を困らせていたりする姿を見せている。ただ、アッシェンバッハが追っているときは、台詞はなく、少し目を上げ下げする程度の控えめな演技しかさせられていない。どうもこちらの方の印象ばかりが残っていたようだ。

トーマス・マンの原作にもあるが、面白いことに「ベニスに死す」のエピソードの多数が実際にマンが出会った出来事だそうだ。化粧をした若作りの不気味な老人、行き先通りに行こうとしないゴンドラ、何よりタッジオ自身と出会っている。ポーランドの貴族でウラディスラフ・モエス伯爵といい、子供の頃は「ウラジオ」と呼ばれており、彼は実際にその年(1911年)にベニスに家族で行っている。かなり後年になってから作品を読み、自分と自分の家族だと気づいてマンの娘エリカに手紙を送って来たという。ヤシュウという少年も実在していて、ヤン・フラコフスキーという名で、二人でいつも自分たちを見ているマンの存在を覚えていたそうだ。ただ、マンにはちゃんと奥方が一緒にいたところが違うし、当時彼はまだ36歳だった。

アッシェンバッハを原作で自らと同じ職業の作家にしたマンだが、この作品を書く直前にグスタフ・マーラーと出逢い、そしてその訃報に接したマンが、モデルとしてマーラーを念頭においていた。映画化にあたり、前述した視覚的な目的のためもあり、ヴィスコンティはアッシェンバッハをマーラーをモデルとした音楽家に変更した。そこで映画の中でもマーラーの音楽が使われ、公開直後、世界のあちらこちらでマーラー・ブームが起こったそうだ。繰り返し使われる交響曲第五番第四楽章があまりにもぴったりなので、まるでこの映画のために作られたサントラのようだ。

タッジオ一家を追いかけるアッシェンバッハがベニスの街をさまよい歩く。コレラにおそわれた街には張り紙が貼られ、消毒液がまかれている。次に街中を行くと、あちらこちらで消毒のためか火が炊かれ、炭の固まりが見える。この映像からは消毒液や腐敗したような臭いがこちらにまで伝わって来そうだ。

アッシェンバッハが床屋に言われるがままに白粉をつけ、髭や髪に白髪染めを入れ、唇に紅をさす。老いを隠すためだったが、まるで死装束のように見える。タッジオを見失い、自らを見失い、街の水飲み場で哄笑して崩れ落ちるアッシェンバッハの顔に、白髪染めの黒い筋がたれている。グロテスクで醜悪で、恐ろしい場面だ。ところが、ラストのアッシェンバッハの死の場面でもこの白髪染めの黒い筋は現れるが、このラストシーンは非常に美しい。それはおそらく、みんなが立ち去り閑散とした海辺でロシア人の夫人がムソルグスキーの子守歌を歌っているところから始まるからだろう。最初は初めて出てくる人が歌なんか歌ってるから「?」という感じだったが、次第に聞き惚れてしまう。タッジオとヤシュウの喧嘩の後、海を背にしたタッジオが腰を手におき、一種のポーズをとる。

突然、ふと何事かを思い出したかのように、ふとある衝動を感じたかのように、一方の手を腰に当てて、美しいからだの線をなよやかに崩し、肩越しに岸辺を振り返った。(高橋義孝訳「ベニスに死す」)

おそらくは最後にアッシェンバッハが目にした光景である。私の眼の裏にも、いつまでも残る、美しすぎるワンカットである。

DVD-BOX III 「郵便配達は二度ベルは鳴らす」に特典としてもう一枚DVDがついてくる。それが「タッジオを探して」という約20分のドキュメンタリーである。映画化するにあたり、最初にヴィスコンティが力を注いだのがタッジオ探しだった。これが成功するか否かで映画の成否に大きくかかわるからだ。チェコ、スウェーデン、デンマーク、ポーランドなど金髪碧眼の子が多そうな国を回っている。初めてビョルン・アンドレセンを見たヴィスコンティは背が大きいことに驚いていた。私もそうだった。イメージより背が大きく、華奢な感じがそれによってより強く感じられる。ビョルン・アンドレセンはこの映画以外には出演していないようだ。それはとてもありがたいことだ。老いた姿など、それこそ見たくはない。

2005年3月12日

新コンテンツはヴェンダース

最近映画づいてますが、新コンテンツは映画です。Wim Wnders Unofficial Fansiteを本日、2005年3月12日をもってローンチします。うーん。長かった…原稿書いたのは去年の夏だもんな…。

個人サイトのくせに、ちゃんとしたプロにデザインしてもらうというのが私の長年の夢でした。仕事だと画像とか制約多いし、でも個人ではなかなかできないもんです。私にとっては最高の道楽だと思ってます。

検索窓はGoogleなので、GoogleがCrawlingしてくれないと何もひっかかりません。どこからもリンクを貼っていなかったためです。そのうちひっかかるようになるでしょう。

地獄に堕ちた勇者ども

地獄に堕ちた勇者ども■原題:La Caduta Deghi Dei(英:The Damned)
■制作年・国:1969年 イタリア/西ドイツ/スイス 155分
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:アルフレッド・レヴィ
■脚本:ニコラ・バダルッコ/エンリコ・メディオーリ/ルキノ・ヴィスコンティ 
■撮影:アルマンド・ナンヌッツィ
■音楽:モーリス・ジャール
■助監督:リナルド・リッチ
■出演:ダーク・ボガード(フリードリッヒ)/イングリッド・チューリン(ゾフィー)/ヘルムート・バーガー(マルティン)/ウンベルト・オルシーニ(ヘルベルト)/シャーロット・ランプリング(エリザベート)/ルネ・コルデホフ(コンスタンチン)/ヘルムート・グリーム(アッシェンバッハ)/ルノー・ヴェルレー(ギュンター)/フロリンダ・ボルカン(オルガ)


■内容
「国会議事堂炎上の夜」1933年2月27日、ルール地方の鉄鋼王エッセンベック男爵の邸に男爵の誕生祝いのため、一族が集まってくる。甥のコンスタンチンとその息子ギュンター、姪の娘エリザベートとその夫ヘルベルト、男爵の息子の未亡人ゾフィーと孫のマルティン。重役のフリードリヒと男爵のいとこになるアッシェンバッハ。子供たちによる出し物の最中、「国会議事堂が炎上している」との報が入る。次に食事の際、自由主義者ヘルベルトを廃し、突撃隊員であるコンスタンチンを副社長にすると発表する。ところが、男爵はフリードリヒに殺され、ゲシュタポがタイミングよく現れ、ヘルベルトを逮捕しようとする。ヘルベルトは殺人の罪を着せられ逃げる。コンスタンチンはこれで自分が社長だと思うが、筆頭株主となった男爵の唯一の直系であるマルティンを抱き込んだフリードリヒが社長の座につく。この陰謀劇は第一幕に過ぎなかった。この後ヘルベルトの逆襲が始まるが…。

■感想
ドイツ三部作の第一作目。原題はイタリア語で「神々の黄昏」。「ルードヴィッヒ」に日本でつけられていたサブタイトルである。英語では"damn"されたものだから「地獄に堕ちた者」になる。これの邦訳を使ったようである。気になるのが、どうして主な主人公たちが英語で話しているのか、という点である。アメリカ市場を念頭においているという理由はあったのだろうけが、「山猫」のときのようにアメリカ資本が入っているわけではない。製作国はイタリア/西独/スイスで、イタリアの政府が作った映画製作及び配給会社イタルノレッジョ社がメインのようだ。ここの財政状況があまりよくなくて支払いが滞ったため、ロケ中にホテルに金を払うまで返さない、と部屋に閉じこめられたこともあったようだ。様々な国の俳優が入っているが故に英語でしか統一できなかったのか。いずれにせよ、群衆部分というか「長いナイフの夜」のシーンはほとんどドイツ語なのだから、出来れば全編ドイツ語でお願いしたかった。ドイツでナチ映画が作りづらいため、英語のナチ映画は多いのだが、全然雰囲気が出ない。ナチはドイツ語じゃないと様にならないのだ。

中学生の時に家で「第三帝国の興亡」(ウィリアム・シャイラー著、東京創元社刊、1961年)という5巻本を見つけて少し読んでみた。さすがによくわからないところも多かったので、大学生のときにもう一度読み直した。後から知ったが、この「第三帝国の興亡」はベストセラーだったそうで、この映画を作るときにもバイブルのように扱っていたそうだ。私にとっては“ナチズム”はこの「第三帝国の興亡」とブレヒトがベースである。

スペクタクルで暴力とエロティシズムに満ちた豪華な娯楽大作だと思う。「若い人にナチズムを知って欲しかった」という投獄体験もある筋金入りの反ファシスト、ヴィスコンティの願いは通じたのだろうか。黒い制服のSS(ナチ親衛隊)は茶色い制服のSA(突撃隊)との対比でいっそう不気味だが、見る人が見ればカッコいいと思ってしまうのではないだろうか。軍人もやったことのあるヴィスコンティはそもそも制服フェチだからな…

映画は背徳に次ぐ背徳。陰謀に次ぐ陰謀である。適当に名前をつけて分割すると、「国会議事堂炎上の夜」「若き男爵の密やかな楽しみ」「長いナイフの夜」「母親殺し」のだいたい四幕となるが、最初と最後がずっと屋敷の中なので、閉塞感がある。2幕目と3幕目はロケだが、室内の場面が多い。まずは「国会議事堂の夜」でフリードリヒが勝つ。この陰謀の後、逆襲に出ようとするヘルベルトだが、逆に第三幕「長いナイフの夜」で虐殺される。第四幕はフリードリヒの凋落で終わる。すべてを裏で仕切っているのがアッシェンバッハで、最後は家の中はナチ一色になっている。本来の当主が継いだのだが、マルティンはアッシェンバッハのいいなりなので、一家は実質的に壊滅したことになる。

映画の一番の見どころは「長いナイフの夜」のシーンである。「レーム事件」は1934年6月30日早朝に起きた。歴史的事項を説明すると長くなるが、簡単に言うと、この頃ヒトラーは国内を掌握した後で、海外との戦争のため正規軍が必要となってくる。これに対して邪魔なのが、ヒトラーを権力の座につかせた突撃隊(SA)である。で、粛正される憂き目にあうのだが、この準備のためヒトラーはSAの幹部に1ヶ月の休暇を与えた。彼らは南ドイツ、バイエルン地方のテーゲルン湖Tegernseeの湖畔にある温泉地“Bad Wiessee(バート・ヴィースゼー)”の複数のホテルに分宿した。ここで休暇を楽しんでいたところをヒトラー自らSSを指揮して急襲して虐殺。レームは自決を拒んだため逮捕され、収容所で殺されたという事件。ヴィスコンティはこのらんちき騒ぎを克明に描く。男ばかりのところにご婦人が少ないと言って女装を始めたのがきっかけだという。それにしてもSAは幕僚長(レーム)がゲイだからって、みんなゲイにしなくてもいいのに、思いっきりみーんなゲイなんである。親父どもが酔っぱらって部屋に帰ると、若い美青年が裸で待っているのだ。これが「地獄に墜ちた勇者ども」のイメージにがっちりはまってしまっており、これがデカダンじゃなくてなんだというのだろう。

この映画の主役はダーク・ボガートである。オランダ系の英国人であるボガートをヴィスコンティ自身が指名したようで、次作の主役もボガートである。ヴィスコンティは彼を非常に気に入ったのだが、私にはどうにもよくわからない。最初から最後までアッシェンバッハに操られるとても情けない役で、この役に合っているとは思う。が、彼はゲルマンらしさがなさ過ぎる。これは次の作品でもそう思った。イングリット・チューリンはベルイマンで見たときはちゃんとスウェーデン人なのに、ここではどこからどう見てもゲルマン女。ヘルムート・バーガーはオーストラリア人だし、グリームはもちろんドイツ人。シャーロット・ランプリングは英国人っぽいところがあるが、フランス人だと言われればそんな気にもさせられる国際派女優なので良いとして。ダーク・ボガートはどう見ても「アングロ・サクソン」なので、この中で一番違和感がある。あまり存在感もなく、「長いナイフの夜」の最後で別に出てこなくてもいいのではないかと思うくらいどうでもい存在になってしまう。

そもそも主役よりヘルムート・バーガーの方が出番が多い。マルティンはロリでマザーファッカーで、もうどうしようもない変態で、彼を使っての陰謀が右に左にと展開するというピエロ的な役割の筈だが、存在感が圧倒的なので、本当の主演はこっちじゃないかと思わせてしまう。マルティンの登場シーンは女装姿である。それが「嘆きの天使」のローラなんである。好きな映画だったから、このシーンにはげっそりしてしまう。マレーネの足は本当に美しいというのに…。まだ若く、かけだしの役者だったバーガーはこの役で大抜擢される。この後うまい役者にはならないが、ゲイっぽい歩き方なんかは非常に上手で、なんだか妖しい雰囲気を醸し出している。この妖しい雰囲気はヴィスコンティが作り上げたのだろうか、それともバーガーを得たからマルティンはこんなに出ずっぱりになってしまったのだろうか。

このヘルムート・バーガーの存在感に匹敵するのがイングリット・チューリンで、母子の戦いは壮絶を極める。私が気になるのは、エリザベート対ゾフィーのシーンである。「あなたのドイツは再び戻ってこない」「出て行ってもこの流れはヨーロッパ中に及んでいく」という言葉は、その通りなんだが、エリザベートのドイツとは、ワイマール共和国初期のドイツなんだろうか?何故ゾフィーは過去のドイツを憎んでいるのだろうか。最初にフリードリヒが言うように、彼女もそれなりの家の出なんだろうに。「私を見ていると不愉快だろう」とエリザベートも言うのだが、ゾフィーは何がそんなに不愉快だったのか。

ゾフィーは鉄鋼王の長男に嫁ぎ男爵夫人となったが、第一次世界大戦で夫を亡くして英雄の未亡人となった。直系の孫の母親として一族の中ではそれなりにていねいに扱われているが、実権は老男爵が握っている。本来なら社長夫人として一族を仕切っていたであろうに。この欲求不満が爆発して重役のフリードリヒと懇ろになり、ナチのアッシェンバッハにすりよることになったのだろうか。

息子との関係はどうだったのだろう。「Martin tot Mutter」なんて書かれるのだから、小さいときから愛情をそそいではいなかったのだろう。弱みを握って自分の権力掌握のための道具としてしか使っていない。いいように使えるなんて、息子にすることではない。結局この母親は息子を支配することしか考えていない。彼女は元々非常に強い支配欲、権力欲に毒された人物で、まさに化け物だと思えば良い、ということか。そう思えば息子の異常さも理解できる。ヴィスコンティ自身が言うように、引用したのはニーチェやワグナーよりフロイトである。

ラストシーン、ゾフィーの化粧はどう見ても死装束である。このシーンを見て思い出したのは、ヒトラーとエヴァ・ブラウンの結婚式だ。当然意識しているんだろう。ヒトラーは結婚式をあげてから自決する。

ヴィスコンティの描くナチの制服を見て触発されたのか、この4年後には「愛の嵐」が製作された。あれもダーク・ボガートなんである(だからゲルマンっぽさがないってばよ)。シャーロット・ランブリングは「地獄に堕ちた…」ではちょい役だったが、「愛の嵐」ではすさまじい。ヘルムート・バーガーの制服姿とシャーロット・ランプリングの制服姿。どちらも妖しすぎだ。

2005年3月 5日

熊座の淡き星影

熊座の淡き星影■原題:Vaghe stelle dell'Orsa...
■制作年・国:1965年 イタリア 100分
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:フランコ・クリスタルディ
■脚本:ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ/エンリコ・メディオーリ
■撮影:アルマンド・ナンヌッツ
■音楽:セザール・フランク
■助監督:リナルド・リッチ
■出演:クラウディア・カルディナーレ(サンドラ)/ジャン・ソレル(ジャンニ)/マイケル・クレイグ(アンドリュー)/レンツォ・リッチ(ジラルディーニ)/マリー・ベル(コリンナ)
■参考サイト:ケーブルホーグ

■内容
ジュネーブのホテルの一室で、新婚のドーソン夫妻が友人を招いてお別れパーティを開いている。夫のアンドリューはアメリカ人、妻のサンドラはイタリア人で、二人はニューヨークで新生活を始めるためジュネーブを発つ。だが、直接アメリカには向かわず、サンドラの故郷であるイタリアはトスカーナ地方にあるヴォルテッラに行く。
サンドラの父親は彼女が幼い頃、ユダヤ人であることをナチに告発され、強制収容所で殺されている。実家の広大な屋敷の庭に有名な科学者であった父の銅像が建ち、その庭を町に公園として寄贈することになっている。その銅像の除幕式があるため、サンドラは帰郷したのである。
サンドラの母親は鬱病で入院していたが、最近は義父のジラルディーニの別邸に隔離状態となっている。サンドラには弟がいたが、この弟ジャンニが二年前からしばしばこの家に帰って来ている。ロンドンでゴシップ記事を書いているが、義父からもらう小遣いと自分の稼ぎでは生活費が足りないため、ときどき帰郷しては屋敷の美術品・骨董品を売っていたことを打ち明ける。
サンドラは母と当時愛人だった弁護士・ジラルディーニが父親を告発したものと信じており、子供の頃から兄弟は義父と母を憎んでいる。アンドリューは彼らを和解させようとジラルディーニを夕食に招くが…。


■感想
「山猫」とゲルマニア三部作の間に挟まれた小品。100分というのは、3時間が通常のヴィスコンティ作品の中では小品と言って良いだろう。ミステリー仕立てだが、ナチズムの爪痕や家族の崩壊といったテーマが取り上げられ、神話的な世界を醸し出しつつ、家族の中での愛憎劇を展開している。モノクロ作品だからよけいおどろおどろしい。

オープニングはドイツ語、英語、フランス語が飛び交う明るいパーティ・シーン。近代的な都市ジュネーブからイタリアのトスカーナ地方にある地方都市ヴォルテッラへのドライブはまるでロード・ムービーのようだ。昼間のきつい陽光が強調されていて、華やいだ雰囲気がある。ところがヴォルテッラに到着し、屋敷に入ると、クラウディア・カルディナーレの顔が怖い。昔の美人というか…細眉にする筈がもとが太すぎてできなかったのか、つけまつげが長すぎる。そして目の下にまでふちどりがある。それ故目のふちが全部黒い。とても怖い。野性的というよりは獣のような、それでいてどこか人間離れした神聖なムードを醸し出している。

屋敷に入ってからずっとミステリアスな展開が続く。何故フィレンツェの親戚は電報で会いたくないと言って来たのか。弟は姉の結婚式に病気と嘘をついて出席しなかったのか。そして弟との出逢い。この二人何かあるぞ…といった妖しいムードでいっぱいである。

この姉弟を見ていると、「恐るべき子供たち」を思い出さずにはいられない。近親相姦的な妖しい雰囲気と相手に対する異常なまでの執着。何よりも子供時代から解放されず、密室的な関係を今でも保ちたいと思い、大人になることを拒否している点が似通っているように思える。ただ、コクトーと違い、弟の方が姉に執着しているのだが。

ギリシャ神話のオレステス神話(母とその愛人により父を殺されたオレステスが二人に復讐する話)から着想は得ているが、ジャンニは義父を憎んで復讐などはせず、サンドラ(=エレクトラ)の父への深い愛情に神話が反映されているようだ。エレクトラ・コンプレックスはエディプス・コンプレックスの対比語のようなものだ。父への愛情は、自分のユダヤ人の血への誇りにつながり、裏切り者の母に対する憎しみの根源となっている。

しかし、本当に義父と母が父親を告発したのかどうかは曖昧にされている。それと同時に、ジラルディーニが言うサンドラとジャンニの「近親相姦」もサンドラは噂にすぎないと夫に断言しているし、否定しない弟は姉を奪われたくないが故の芝居かもしれないと思わせる。

姉は弟を心から愛していたが、噂に絶えられず、古い忌まわしい過去から逃れたくて町を出た。近代的な都市ジュネーヴで通訳の仕事をして自立した生活を送っている。そこへ健康的で快活で単純なアメリカ青年と出会い結婚する。彼女の中では過去と現在が戦っていたが、結局は現在が勝利を収める。ところが弟の方は過去から逃れられない。旅をし、たくさん恋をしても、あの濃密な時間は取り戻せない。どうしても姉に執着する。姉に捨てられたら自殺すると姉を脅す。しかし、姉にとっては弟は「もう死んだも同然」の過去である。弟は現在を生きることも未来を生きることも出来ず、自ら命を絶つしかない。

いったん夫は去るが、ニューヨークに来るのを待つという手紙を残しており、サンドラも夫のもとへ行くつもりになる。弟が自殺したことを知ったら、本当にニューヨークに行くのかどうか、弟の死を彼女に知らせるところで映画は終わっているため、そこまでは触れられていない。だが、おそらくは彼女はアメリカに行き、そして二度とイタリアには帰って来ないだろう。

資料「ヴィスコンティ秀作集 7 熊座の淡き星影」には撮影に入る前のシナリオと映画から起こした完全版のシナリオの2本が収録されているが、驚くほど異なる点が多い。特にラスト、過去から逃れて屋敷を去るのは弟で、姉は屋敷に取り残される。夫のところにも行かないだろうし、夫も迎えに来ないだろう、という結びになっている。

プロデューサーのフランコ・クリスタルディはヴィスコンティとは過去に「白夜」を一緒に作っていて、その後「若者のすべて」の前に大喧嘩して別れたが、「山猫」撮影中にクラウディア・カルディナーレと結婚、ヴィスコンティとも和解した。自然の流れのようにクリスタルディの方から妻を主役にしてくれれば映画の資金を提供すると申し出があり、俳優を育てることにかけては絶大な自信と熱意をもっていたヴィスコンティは一も二もなく引き受ける。そしていつものスタッフと脚本を作るのである。彼女を育てるだけでなく、自らの歴史的な認識としての反ナチや家族の崩壊劇といったテーマともしっかり取り組んでいる。

ヴィスコンティは偉大な芸術家だが、同時にチャンスを逃さないで映画を製作するということについては非常にビジネスライクで、うまくやっていると思う。映画製作とはそういったもので、まるで金勘定が出来ない偉大な映画監督など、おそらくいないのだろう。大作を作ると、「あの監督は大作しか作れない、金がかかる」と言われないように低予算映画を撮影したり(白夜)、金のかかる映画を作りたいが故にハリウッドから資金調達をし、条件であるアメリカ人俳優を過去のキャリアにないほど素晴らしい役としてはまり役にしてしまったり(山猫)。

クラウディア・カルディナーレもそうだし、ソフィア・ローレンもそうだが、夫に映画プロデューサーを選ぶということは、女優として最大のメリットがある。監督では駄目だろう。自分のために映画を作らせ、自分のために素晴らしい監督を引っ張ってこさせるとは、女優冥利につきるというものだ。イタリア人、みんなしたたかだなぁ。

2005年3月 2日

ボッカチオ'70  第3話「仕事中」

ボッカチオ'70■原題:Boccaccio '70 : Il Lavora
■制作年・国:1962年 イタリア
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:カルロ・ポンティ
■脚本:ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーゴ
■撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ
■音楽:ニーノ・ロータ
■助監督:リナルド・リッチ
■出演:ロミー・シュナイダー(ブーベ)/トーマス・ミリアン(オッタヴィオ伯爵)/
ロモロ・ヴァリ(ザッキ弁護士)


マリオ・モニチェリ、フェデリコ・フェリーニ、ヴィットリオ・デ・シーカ、ヴィスコンティという4人の監督によるオムニバス映画。ヴィスコンティは第3話「仕事中」と訳されていたが、実際は「前金」という42分ほどの短篇作品を担当した。「デカメロン」の中世イタリアの作家ボッカチオが現代に生きていたら、こんな挿話をその著書に書き入れたかも知れない、という設定である。

ここからヴィスコンティ作品の常連となるロミー・シュナイダーだが、「若者のすべて」撮影の頃、アラン・ドロンと付き合っていて、ヴィスコンティに出会った。その後「あわれ彼女は娼婦」という舞台でヴィスコンティに徹底的にしごかれ、オーストリアの役者一家の出である子役出身の女優から一人前の女優に脱皮した、その直後の役である。この頃はなかなかコケティッシュな女優だったんだなと、後年の貫禄のあるロミー・シュナイダーしか知らなかったので意外に思った。

物語はオーストリアの大実業家の娘とイタリアの伯爵によるイタリアお得意の艶話...というと、ヴィスコンティにしては意外だが、そこはそれ、相当シニカルな物語になっている。娘の父親が経済的に面倒を見ているのに、まだ13ヶ月しか経っていないというのに、夫は100万リラ(実際は70万リラ)もかけて娼婦と遊んでいる。それがばれてスキャンダルになり、新聞の一面に掲載されてしまい、慌てて屋敷に帰るというところから幕が開く。政略結婚で嫉妬はないが、プライドが傷つけられた妻は「仕事をする」という。そして仕事を探すためにスカラ座へ出掛けて友達に人を紹介してもらうといって風呂に入り、着替え始める。風呂から出た妻を見て欲情した夫は妻に迫るが、前金で小切手を切るよう要求する。夫が小切手を持ってくる間、妻は父親の電話に答えて言う。「仕事が見つかった」と。

この映画の前の「山猫」から再び貴族を登場させたヴィスコンティだが、社会的リアリズムから次第に離れていくように見える。スペクタクルだったり耽美的だったり様々だが、自分の中にある過去の記憶に少しずつ近づいているようなところがある。とは言え、リアリズムに満ちあふれていることも確かだ。というのも、この立派なお屋敷、家具調度、そして衣装。パリでヴィスコンティをルノアールの紹介したココ・シャネルの衣装が登場する。ブーベとはかつてヴィスコンティの恋人だった女性の愛称だったりする。

妻は「仕事をして自分の存在理由を自分で確認する」という、いわゆるフェミニズムというかウーマン・リブ的な発言をし、使用人に「仕事ってそんなにつらいの?」とか聞いていたりして「仕事」というものに対する理解がまるでない。しかし、そんなことをしながらも使用人にものを言いつけるいつもの態度は立派。生まれたときから人に指示をすることを当然として育った人物の振るまいである。あなたの仕事は使用人に仕事をいいつけることです。あなたがいないと、使用人たちは失職してしまいます、と言ってあげたい気持ちになった。同時に彼女の態度は、父親が1億リラかけたように「一人で生活なんかできやしない」ということも現わしている。

結局自分は娼婦と同じ、あるいは娼婦たちの方が本当にお金を稼がなくてはならない理由があるだけ上だと明確に理解し、夫に前金を要求して、涙を流すのである。大実業家である父親が夫と結婚したのであって、自分のお金を使って遊んでいる夫に対して怒る権利は夫にしかないことをよく理解している。では、自分はいったい何なのか。夫は財産目当ての結婚だし、父は貴族の肩書き目当てに嫁がせた。夫とのセックスが自分の仕事であるとは、なんというおかしさ、そして哀しさ。今は自分に対してシニカルであり続けることができないうら若きブルジョア女性だが、そのうちきっと堂々と、平気になっていくのだろう。そして一方、嬉々として小切手を持ってくる伯爵は、相当なバカである。いや、もともと相当なバカであることは、物語の最初から非常に上手に演出されていた。お貴族様をコケにしているというか、そういった印象である。

更におかしいのは、スキャンダルとなると速攻で弁護士が出てきて、更にいろいろな教授やら他の弁護士やらを連れてきて、弁護団のようになっている。この弁護士にしてみたら伯爵夫人の父親から銀行口座をストップされたら自分も収入がなくなり、危機的な状況に陥るので必死なのだが、必死というよりはおもしろがっているようにしか見えない。このあたりも、相当皮肉っぽい。

主に会話で構成われており、ほとんどの場面が書斎と寝室で展開されているため、まるで舞台のように見える。チェーホフの短篇に着想を得ているだけあって、会話も非常に演劇的だし、他の作品がロケを多用しているのに対して、やはり少し異色だと感じた。