The Style Council : Profile
The Style Councilへの思い入れ
私のサイトのタイトルはThe Style Council(スタイル・カウンシル)という80年代のバンドのファースト・アルバム"Cafe Bleu"(カフェ・ブリュ)から取らせてもらっている。このアルバムはリアル・タイムに聴いたアルバムの中で1〜2を争うほど好きだ。私がリアル・タイムに聞いたアルバムなんて、全体のパーセンテージからすると少ない。過去から現在まで、普段聞いているCDはほとんどが1960年代、70年代のものだ。1978年頃からロックを聴いている私にとって、1980年代に好きだったアルバムは最も同時代感覚が強く、思い入れが深い。
The Style Councilというバンドは、リーダーのPaul Weller(ポール・ウェラー)自身が後から振りかえって、一時期「黒人音楽の下手なコピーだ」というような言葉を吐いていたときがある。私は黒人音楽、特にソウルやブルースがあまり得意ではなく、ジャズも本格的なものは苦手。だからこそ、The Style Councilが好きだったんだと思う。
白人特有の淡泊感と切れ味が、私には泥臭く感じられるリズム&ブルースや退屈なジャズから「色気」を取り去って、すっきりとした味わいになる。このグループもエッセンスだけはちゃんとジャズだしソウルだった。また、メロディ・メイカーとしてのセンスをWellerはしっかりもっていた。
Wellerのボーカルは決してうまくはないが、渋い低音が魅力である。ルックスも良い。歌詞は過激で皮肉屋で有名だったが、私はそれほど魅力を感じていない。
Mick Talbot(ミック・タルボット)なしのThe Style Councilはまったく考えられない。最も好きな曲の一つが彼のインストである"Mick's Up"なくらいである。キーボード奏者というよりは、当時最もうまいジャズ・オルガン奏者だとポールは語っている。私はジャンルを問わず、うまいキーボード奏者がいるバンドが好きだった。Yes,Deep Purple,Doorsなど、傾向は全部違うのだが、ただ一点「キーボードがうまい」という点が共通している。
ところが、スタカンを好きだったのは2枚目の"Our Favourite Shop"までで、"The Cost of Loving"に至ると一度買っておきながら、すぐに中古レコード屋に売ってしまった。
今回、このドメインを取るにあたって、どうしてもThe Style Councilのサイトを立ち上げようと思い立ち、再び買い直した。今聴くと3枚目、4枚目のアルバムもそれほど悪くはない。ただ、当時は期待が高かっただけに、裏切られたというほどではないが、「自分にとってはスタカンは終わったな」という気がしたんだろうと思う。
こんな自分にThe Style Councilを語る資格があるかどうかは疑問だし、今更大勢の人に聴いてもらいたいと思っているわけではない。ただ、このタイトルに込められた、Paul Wellerが指向した「1960年代のフランス・ファッション」の雰囲気をサイト全体に何となくちりばめたくて、このコンテンツを作成した。ちなみに、これはビートルズがワイルドな革ジャンから抜け出したきっかけになったスタイルで、ジョン・レノンも一時はまっていた。デビュー時のおかっぱ頭は「フレンチ・カット」なのだ。話を元に戻すが、白いコートを着てフランスのカフェの前で撮ったセピア調のPaul WellerMick Talbotの写真は当時メチャメチャカッコよく思えたものだ。
あの頃、このグループは結構人気があったので、覚えている人も多いだろう。同世代の諸君、リアルタイムで好きだった曲が車のコマーシャルで使われるようになったら、それは一昔前の若者になった証。まぁ、私はそれでも別に全然構わないのだが‥‥
The Style Council : Profile
The Style Councilは人気絶頂だったThe Jamを解散させたPaul Wellerがデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズのキーボード奏者だったMick Talbotと1983年3月に結成したバンドで、正式には1990年3月に解散している。まさに80年代のバンドである。
The Jamを解散させたPaul Wellerは数ヶ月で新しいグループをスタートさせた。1983年3月10日シングル "Speak Like A Child"でデビュー。それに先立った記者会見で「現代のモータウン・サウンドを作りたい」と語った。The Jam時代の鋭いビートではなく、 R&Bやソウル、ファンクなどをベースにしたモダンな感覚のポップ・チューンの曲を次々と発表した。伝説のバンド、The Jamとの方向性の違いに戸惑った人は多かったようが、The Jamのラストアルバム"The Gift"にはすでにその要素が見えているため、日本国内で事の成り行きを見守っていた私には、それほどの違いは感じられなかった。むしろ、こっちの方が断然カッコいいと素直に感じたものだった。
セカンドシングル"Money Go Round", EPというか4曲入りシングルというか"A Paris"と続いて、7曲入りミニ・アルバムとも呼ぶべき"Introducing"が1983年9月に発表された。アルバムを待っていただけに、ちょっと残念だった。ともあれ、"Introducing"の前には黒人女性ボーカリストで、Wham!のバックシンガーをしていたD.C.Leeとビル・ブラッフォードの弟子だった若干17歳のドラマー Steve Whiteがほぼパーマネントなメンバーとなる。だからThe Style CouncilとはPaul WellerMick Talbotの二人のグループと思われがちだが、4人のバンドという側面もあったことは確かである。
"Introducing"と時期を合わせて10月にヨーロッパツアーに出かけて大成功を修める。その後もシングルの発表が続く。このバンドはシングルを非常に重視していた。当時は12inchシングルというのは非常に先鋭的なバンドが使う手、という印象があった。だが、LPと同じ大きさで、曲が1〜2曲多いだけで1200円〜1500円。7inchシングルが700円だったから結構割高感があった。LPが2800円くらいだったので、貧乏な学生には次々出される12inchシングルを買うのは辛かった。ただ、良い曲が12inchのB面に入っていたり、7inchと違うバージョンだったりしたために、どうしても買いたくなってしまうのだ。特に次のシングルの"My Ever Changing Moods"は7inchと12inchでまったくバージョンが違ったために、12inchは必須だった。そう言えばCDはまだ出てなかったと記憶している。
1984年3月、待ちに待ったデビュー・アルバム"Cafe Bleu"が発表される。インストが4曲も入っていたり、ボーカルも何故か女性が入っていたりして、すごく変なアルバムだった。サウンドもソウル、ファンクだけでなく、ジャズやラップなども取り入れた、幅広い音楽性…というよりはむしろ単に「いろんな曲が入ってて楽しい」と感じ、夢中で何度も何度も聴いたものだ。チャートも最高位2位まで上がり、1年以上のチャートにいるという大ヒットもした。
当時イギリスでは「ジャズ」に対して新たなアプローチをした曲を発表するアーティストが多かった。Sade, Animal Night Lifeなどについては私も聴いていた。だが、"Cafe Bleu"はその中でも最も知られたアルバムで、1980年代中盤のUKの音楽シーンにおいて長く記憶されることとなる。
再開されたツアーや"Soul Deep"やシングル発売で1984年は終わり、翌1985年1月1日という日にセカンドアルバム"Our Favourite Shop"が発表される。節操のなさは更に広がり、ボサノバやシャンソンも含まれたこのアルバムは半年もの時間をかけて6月にようやくチャート第1位を獲得。1985年は次々とシングルが発表され、ギグや政治的な集会によく顔を出して話題には事欠かなかった。この頃が活動内容も人気もピークだったように思われる。
ところが、1986年になるとシングル"Have you ever had it blue"及びライブツアーの模様を収録した"Home & Abroad"を発表するにとどまる。Dee C. LeeとPaul Wellerの結婚が発表されたのも、この年だった。多分この頃だと思うが、The Style Councilが来日し、私も出かけていった記憶がある。記憶がある、という程度だから、あまりライブとしては印象に残らなかったのだろう。
1987年2月、2年振りに発表されたサードアルバム"The Cost Of Loving"にはソウルやジャズの色が薄れ、Mick Talbotのキーボードも鳴りを潜める。"It Didn't Matter"はCMでも使われたし、日本でのセールスはそれほど悪いものではなかったようだが、なにせ2年ぶりのオリジナル・アルバムだっただけに期待も高く、個人的には「外れた」という感が強かった。カッコいいのは確かなんだけれど、なんというか、Paul Wellerに冒険心や遊び心が少なくなっていった上に、曲としても面白いものが減ってしまったのだ。
これは多くの人も同じ印象を受けたようで、シングルなどのセールスは徐々に落ち込み始める。1988年6月に発表された4枚目の"Confessions of a Pop Group"の頃には完全に行き詰まりを見せていた。ツアーもこの頃にはほとんど行われていないが、1989年7月のアルバートホールでのコンサートを最後に、翌月活動停止を発表。正式な解散は翌年の3月だが、その頃にはPaul Wellerのソロ活動は始まっており、彼の活動の落ち込みが一時的なものに過ぎなかったことを、すでに証明していた。
こう考えてみると、1983年から85年の3年間だけのバンドだった気もする。華やかだったけれど、短命なグループだった。
The Style CouncilとEverything but the girl
この二つのグループは因縁浅からぬ中で、当時のUKロックファンにはスタカンは有名だったが、EBTGは更に突っ込んだ人じゃないと聴いていなかったと思う。
The Jam解散後Paul Wellerが最初に大勢の人の前に姿を現せたのは、Everything but the girlのライブだった。それも招待されて、というよりは話を聞きつけて飛び入りだったらしい。これは真偽のほどはわからない。ただ、EBTGのデビュー・シングル"Night and Day"が発表されたのは1982年だから、それを聴いて相当気に入ったのは確かだ。自分の方向性と近いものを感じたのだろう。
その後自分のレーベル「レスポンド・レーベル」と契約しようとした、という話も伝わって来ている。それが出来なかったために、"Cafe Bleu"内での"Paris Match"はTracy Thronにうたわせというのだ。本当っぽい気はする。私はPaul WellerのバージョンよりTracy Thornのバージョンの方が好きだ。
こんなサイト名をつけておきながら、Everything but the girlのファンサイトを先に作るべきではなかったのかもしれない。どちらかというとEBTGの方がファンが少なかっただけに、思い入れが更に深いのだ。だが、この組み合わせ、悪くはない。というよりむしろお約束かもしれない。うーん…私が一番聴いているのはこの辺りじゃあないんだけど、まぁ、あまりこだわらないことにしましょう。
The Style Council以後...Paul Wellerソロ時代
The Style Councilを失意のうちに解散させたPaul Wellerは自らのバンドであるMovementを率いて活動を開始した。1991年シングル"Into Tomorrow"を発表し、来日公演を果たす。同年9月に初のソロ・アルバム"Paul Weller"を発表し、ソロ活動を本格的に開始する。1993年のシングル"Sun Flower"、続くセカンドアルバム"Wild Wood"が大ヒット。続く1995年の"Stanley Road"は名盤と名高い。
The Style Council後期の活動により、批評家やファンに手痛い仕打ちを浴び、ダメージを受けたPaul Wellerの音楽活動は、ソロになってから少しずつ評価を高め、この頃にはすっかり名声を取り戻した感がある。1960年代後期のブリティッシュ・ロックにも通じる骨太な感覚で、新しいバンドにファンも少なくない。現在もソロとして活動中。
2003.11.21