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2012年9月 4日

無声映画のシーン/フリオ・リャマサーレス

無声映画のシーン/フリオ・リャマサーレス表紙の写真が素敵だ。ブレッソンの写真のようだと思ったら、本当にブレッソンだった。おそらく本の作者を知らなくても買ってしまいそうなほどカッコイイ。リャマサーレスは過去に2冊出ているが、「静寂な筆致」という言葉がぴったり合う作家だと思う。この表紙もそのイメージにぴったり合致する。

語り手が幼年期~青年期をすごした鉱山町での出来事が語られる。町のダンスパーティ、オーケストラがやってきた日、鉱山のストライキ、フランコが街の近くを通りかかった日、オートバイを乗り回していた青年の死、廃鉱にもぐりこんだ時...。

過去に撮影した写真にまつわる記憶を呼び起こして語っていく連作短編のスタイルをとっている。もし、本書で語られる30枚の写真をすべて載せてくれていたら、写真集になってしまうのではないかと思うほど、美しい写真だろう。一見エッセイ集に見えるが、著者の言うようにこれはフィクションなので、実在はしない写真。実在するのかもしれない。でも、それはどちらでも構わない。写真を実際に載せてしまうゼーバルトとの違いかなと思う。共通するのは、静かなその語り口だ。

記憶は時に――いや、たいていの場合――映画のシーンが四つか五つの瞬間に凝縮されているポスターと変わるところがない。そこに命を吹き込むことができるのは、時間という映写機のゆがんだ焦点だけである。

リャマサーレスの言葉に耳を傾けているうちに、自分の過去が甦ってくる。残念ながら、自分の幼い頃の写真にモノクロ写真はわずかなので、あまり思い起こせない。記憶というのはやはり雰囲気がないと甦らないものなのかもしれない。

今の子供たちは鮮明なデジタル画像でしか自分の写真が残らなくなってしまう。それでも、その写真がノスタルジックな記憶となるのかもしれないとも思う。15年ほど前のパソコン通信の通信音にノスタルジーを感じるかどうかは、その人次第なのだから。

原題:Escenas de Cine Mudo, Julio Llyamazares. 1994
著者:フリオ・リャマサーレス著,木村榮一訳
書誌事項:ヴィレッジブックス 2012.8.23 262p ISBN978-4-86491-005-7

創造力とは発酵熟成した記憶にほかならない。
(アントニオ・ロボ・アントゥネス ポルトガルの作家・精神科医)

黄色い雨狼たちの月(フリオ・リャマサーレス)

2008年1月16日

狼たちの月

狼たちの月/フリオ・リャマサーレス短編集「黄色い雨」のフリオ・リャマサーレスが初めて書いた長編。詩的な言葉がちりばめられ、情景描写も美しい、素晴らしい作品だと思う。

スペインの内戦及びフランコ将軍による圧政と言えばバスクとカタルーニャが有名だが、アストゥリアス地方のものも激烈だったようだ。この地域での反乱が収束した1937年から1946年までの約10年間、山岳地帯に隠れて生き延びた敗残兵の物語だ。家族の住む村近くの山中ので治安警備隊の執拗な捜索から逃れながら生き延びようとする4人の男たち。家族の援助も受けながら、自らも狩りで獲物を捕らえ、いつか形勢が逆転し、反乱軍が敗退することを願いながら、廃坑の中の洞窟で何とか生きている。昼間外に出ることは出来ず、行動は夜に限られている。その孤独で獣のような姿が「狼」のようだということだろう。

アンヘル、ほら、月が出ているだろう。あれは死者たちの太陽なんだよ。

アンヘルたちのことを、生きながら死者のようだという意味なのか。月の光の中でしか生きることの出来ない運命を示しているのか。

ラミーロがある地方の狼をおいこんで捕まえるという原始的なやり方について語る場面がある。素手でもって大勢で追い込んでいき、断崖の奥にある深い穴に落として捕らえ、最後は罵りの言葉を浴びせられながら、あちこちの村を引き回してから殺すという。それはまるで自分たちの運命を暗喩しているかのような言葉だ。

アンヘルは家族や民衆のために戦ったのだから自分たちには義があると思っていたが、ある日自分たちの命を守るため、軍人や治安警備隊ではない一般人を殺してしまう。そこで初めて「後戻りできなくなった」と愕然とするが、「これまでだって後戻り出来なかった」とラミーロに言われてしまう。そこで、アンヘルがこれまでは「いつか昔のように家族に囲まれた平和な生活に戻れる」と夢想していたが、ともに戦って来たラミーロにはそんな幻想はなかったことがわかる。

また、アンヘルが人民戦線に加わった理由が、誘拐した鉱山主に語るシーンがある。人を殺すことの是非を問われ、アンヘルはこう答える。

「家畜、そうだな、来高くて、しかもしつけのいい犬を選ぶんだ。」しばらくしてぼくはそう話しはじめる。「その犬を部屋に閉じこめて、痛めつけてやればいい。すると犬は人間に刃向かい、噛みつくはずだ。場合によっては人をかみ殺すかもしれない。」(p133)

すごくシンプルでわかりやすいたとえだが、真摯な言葉で胸を打つ。

詩的で情緒あふれる言葉は、山の景色、風の音、月の光、自然のあらゆる姿にあふれている。だが、自然描写だけではなく、心理描写も詩的だ。一つだけアンヘルが父親の危篤を義弟から聞かされ、洞窟に戻る場面をとりあげたい。

夜の暗闇の中を、夢遊病者のようにヒースの茂みに足をとられながら洞窟に戻る。その間、父親の記憶が無数のイメージとなってこなごなに砕け、それらの細かな断片がガラスの破片のようにぼくの心に突き刺さる。それらをいくら集めても悲しみの奥に隠されているものを浮かび上がらせはしない。それらは忘却の底無し沼で少しずつ朽ち果てていく運命にあるのだ。(p220)

それでも危険を冒して彼は危篤の父親に会いに行く。

人は絶望の中でどうやって生き続けていくのだろう。村から離れて国を離れるよりほかはないのだが、とにかく10年も村に戻りたくてしがみついている。弾圧を我慢するのも限界になってしまった妹から拒まれ、アンヘルはついに村から離れるが、離れて生きていけるものならば、とっくに離れていたのではないか。

それにしても10年も我慢した家族は立派だ。家族のことを考えたら、とっくに投降するなり遠くへ逃げるなりすればいいのに、生まれた土地から離れられない。食いつなぐことだけで何もせず、それでも生きる姿は無様を通り越して凄まじい執念を感じさせる。

「黄色い月」もそうだったが、「狼たちの月」も装丁が非常に良い。この値段でこの装丁でこの内容。とても得難い貴重な本だと思う。

■著者:フリオ・リャマサーレス著, 木村榮一訳
■書誌事項:ヴィレッジブックス 2007.12.15 272p ISBN4-7897-3187-1/ISBN978-4-7897-3187-4
■原題:Luna de Robos : Julio Llamazares, 1985

2006年2月 5日

黄色い雨

黄色い雨■原題:La Lluvia Amarilla : Julio Llamazares, 1988
■著者:フリオ・リャマサーレス著,木村榮一訳
■書誌事項:ソニー・マガジンズ 2005.9.10 ISBN4-7897-2512-X
■感想
木村榮一の翻訳だから読んでみた。リョサやコルタサルの翻訳をした人で、ラテンアメリカ作家の方面の人だと思っていたから、スペイン作家は珍しいと思いつつ、手にとってみる。そんなとき2000円以下だと即決で買えるのだが、2000円以上だと、ちょっと考えてしまう。
亡霊が出てくる=幻想文学だというふれこみもあったが、そこから離れた方が良い。孤独と親しみ、孤独を愉しむ、よくある文学のテーマの一つと思って取りかかると、それもまた期待外れに終わる。これは壮絶な孤独との戦いの記録である。廃村に取り残されてたった一人になってしまった老人の10年に渡る物理的、精神的な戦いの様子が、簡素な文章で詩のようにつづられている。
物理的、というのは本当に人が自分のまわりからいなくなってしまう状況を指す。実際は本人も他の村へ移り住むことは不可能ではないのだが、親が苦労して建てた家を離れられなかっただけなのに。それを拒絶したのは単なる頑固だったからか。それだけではあるまい。それだけならとっくに逃げ出すだろう。
冒頭、今まさに亡霊となろうとして横たわっているのか、あるいはすでに死んでしまっているのか。男が、村に人が入ってくる人々の動きを克明に追いながら、荒廃した村を淡々と描写する。それから、最後の一家が出て行き、妻と二人きりになってしまったときのこと、妻が神経を病み自殺したこと、更にさかのぼり、息子が出て行ったときのこと、幼い娘が死んだときのことなどが語られる。一方で、荒廃の一途を辿る村の様子、自分の食料を確保するという「生きる」ための戦いも克明に語られる。
主人公は自分も妻のように気が狂うのではないかという不安におののきながら、一方では「死」に対する恐怖はないと言う。だから最後は開放感と充実感だけが残り、哀しさや悲惨さは感じない。透明感のある美しい小説で、一気に読める。

最後に、本書がとても美しい装丁デザインであることにも目を惹かれる。鈴木成一という有名な装丁家の手によるものだが、装丁って書誌データベースでは検索できないからつまらないな。ホームページくらい作って欲しい。