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2014年11月 5日

疎外と反逆―ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話

疎外と反逆―ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話本書の主役はガルシア=マルケスなのか、バルガス=リョサなのか。その両方にとってありがたい対談、評論、インタビューとなっている。最初は標題通り、ガルシア=マルケスとバルガス=リョサの対談、次がバルガス=リョサが書いたガルシア=マルケスに関する評論、最後がバルガス=リョサへのインタビューという三部構成になっている。

対談は謹厳実直なリョサが若干おちゃらけたようなガボに切り込んでいくような感じで、今ひとつかみ合ってないところが楽しい。もちろん、ガボも真面目に答えるときもあるのだが、リョサがキリキリすればするほど、ホラ話っぽいかわしが入り、なんだかクスリ、とさせられてしまうのだ。

ボルヘスに対する二人の見解が実によく一致している。ガボがボルヘスのことを書き方を学ぶには高く評価しているが、あれは「逃避の文学」であるとし、リョサも具体的現実に題材を求めていないと断じている。興味深いのはここでリョサが過去に語ったことをガボが繰り返させている箇所だ。曰く、経済的豊かさや内的平和に支えられた社会より、ラテンアメリカのような転換と変化の時期にさしかかり、どこへ向かっているかすらわからない社会の方が魅力的な文学的題材にあふれていて、作家達の想像力を刺激する、と。ガボの言う「あらゆる文学は具体的現実に根ざしたもの」と一致しているところが多い。ガボがボルヘスを称賛しているけれど、大嫌いだというところ。「ラテンアメリカの非現実とは、いわゆる現実なるものと区別がつかないほどリアルで日常的なもの」だというあたりを読んで納得するところが多かった。私自身、ボルヘスを嫌いではないものの決して好きとは言えず、読む気持ちになかなかなれないのは、私の求めているラテンアメリカの文学ではないからなのだと、あらためて確認出来たように思う。幻想文学ファンだったら違うのだろうけれど。

二番目の「アラカタカからマコンドへ」は「神殺しの物語」に先立つ、バルガス=リョサが書いたガルシア=マルケスに関する評論。「神殺しの物語」は例の1976年メキシコでのパンチ事件(この事件に名前はないのかなぁ?調べたが見あたらず...)のせいで復刊されず手に入らないらしい。だから「神殺しの物語」に先立つこの論文は貴重(集英社「世界の文学 38 現代評論集」に鼓直訳が収録されている)。

最後はバルガス=リョサのインタビュー。これを読む限り、この本の主役はバルガス=リョサのような気がしてくる。インタビュアーのエレナ・ポニアトウスカは1968年のメキシコでおきた事件のルポルタージュ「トラテロルコの夜」という著作があるメキシコのジャーナリスト。おもしろいのは、最初の対談ではガボが作家が特定の政治思想に与し、政治的役割を果たすことを肯定しているのに対し、リョサの方は最後の因手ビューで作家が特定の政治思想に与することを否定しているところだ。「最初から文学を道具として何かの役に立てようとすると、作家の内なる政治家が文学をダメにしてしまう」と語る。後に、個人の趣味嗜好としての政治家の好みと政治思想との矛盾を超えらず、あからさまな政治音痴ぶりを露呈するガボと、政治力の差により破れたとは言え、大統領選にうって出て広範囲な支持を得たリョサの違いを考えると、この時点での意見の相違は非常に興味深い。

ところで、また「ジョサ」に戻った。もう気にしないようにしてるけど、毎回言う。書誌DBを作っていたから、こういう泣き別れは本当に迷惑。商業的に考えてもメリットも少ないだろうなと思うのだが、どうせ売れないのだから一緒、というように見えて、それはそれで寂しいものだ。

■目次
ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話
アラカタカからマコンドへ
M・バルガス・ジョサへのインタビュー
訳者あとがき

■書誌事項:寺尾隆吉訳 水声社 2014.3.30 172p ISBN978-4-80100023-0

2013年4月 3日

アンデスのリトゥーマ/バルガス=リョサ

アンデスのリトゥーマ長年、なぜ「アンデスのリトゥーマ」は邦訳が出ないのか疑問だった。同じ人物が主人公の「誰がパロミノ・モレーロを殺したか」1992年に出ているし、「楽園への道」(2003)ですら出たのになと思っていたら、ようやく2012年に刊行された。

リトゥーマはおなじみの登場人物で、これで3回目の登場になる。まっすぐでいい男だと思う。山岳部=アンデスというのは、自然環境が人間に厳しく、暗く救いようのない物語になりがちだ。そこを救っているのが、助手トマスのロマンチックな恋物語である。

アンデス山中奥地のインディオの村ナッコスに赴任しているペルー治安警備隊のリトゥーマ伍長が助手のトマスと行方不明になった3人の男たちの消息を探る。口のきけないペドロ・ティノーコ、アルビノのカシミーロ・ワルカーヤ、道路工事の現場監督のデメトゥリオ・チャンカの3人である。リトゥーマは捜査をしていたが、一向に真相がわからない。本部より指示があって過激派に襲われた近くの鉱山へ出向き、教授と呼ばれる外国人と出会ってアプや生け贄の話を聞く。ナッコスに戻る途中で山津波(山崩れだと思われる)に出会い、九死に一生を得る。最終的には、証拠はないものの、リトゥーマは3人に何が起こったか知ることになる。

リョサの小説はほとんど常にいくつかの物語が錯綜して語られる。大枠は3本となる。

  1. 3人の男が行方不明となった現在のナッコス。
  2. トマスとメルセデスの恋物語。少し前。

  3. 上記二つの線はずっと継続しているが、以下の物語は出入りがある。
    • マチュピチュへ行く途中のフランス人の新婚夫婦の受難。
    • ペトリート・ティノーコの物語。
    • アンダマルカの人民裁判。
    • ダルクール夫人の受難。
    • アルビノのカシミーロ・ワルカーヤの物語。

    • 最後に、以下の物語が分断されて入る。
    • アドリアーナの語るピシュターコ、ティモテオ、ディオニシオとの物語。(→ギリシャ神話がモチーフ)

私が一番気持ちをやられてしまったのは、ペドリート・ティノーコの物語だ。口のきけない少年は南米のこの厳しい環境で、親もいないのにどうやって大人になり、生きていくのだろう。村の人たちの役に立つことでなんとか生き延び、ビクーニャに受け入れられ彼等を見守ることで平和に暮らしていたのに。政治は否応なく彼のような人物にもふりかかる。ペドリート・ティノーコを何故トマスが連れて来たのかという告白を聞いたときのリトゥーマの怒りは、彼がまっとうな人間であることをよく現している。そしてまた、リトゥーマはペドリートに対してと同じように山棲みのインディオたちの辛い生活にも思いを馳せ、暗い気持ちになる。


「ピシュターコ」は悪魔とか人さらいとか訳されるかと思う。インディオの人間の血や脂肪を取り、都市住民や外国人などに売って蓄財する伝説はペルーには実際あるのだということが、2009年に現実の事件として発覚したことにより自分にもわかった。

ペルーという国は海岸部の開放的な土地、アマゾンのジャングル、アンデスの閉鎖的な山々、近代的なリマのような都市とさまざまな土地があり、バルガス=リョサがその至るところを描いているのだが、やはりどうしてもアンデスの物語は恐ろしいものにならざるを得ない。だからあまり人気がなかったのかもしれない。それで邦訳が後回しになったのかもしれないとは勝手な推測だが。

ともあれ、これでバルガス=リョサの小説で邦訳が出ていないのは「マイタの物語」(1984)と「ケルト人の夢」(2010)だけになった。もちろん、戯曲や評論も読みたいのだが、まずは小説。ノーベル文学賞の余波が消えないうちに翻訳が刊行されることを期待している。


著者:マリオ・バルガスーリョサ著,木村榮一訳
書誌事項: 白水社 2012.11.6 386p ISBN978-4-00-022071-2
原題:Lituma en los Andes. Mario Vargas Llyosa, 1993


バルガス=リョサ 翻訳図書一覧

2012年1月22日

悪い娘の悪戯/マリオ・バルガス=リョサ

悪い娘の悪戯あまりの読後感の良さに、この本から去りがたく、もう一度最初から最後まで読んでしまった。これは純愛小説と言えるのだろうか。1950年代から40年余にわたる一組の男女の愛の物語......というと、まるで映画のようだが映画にするには内容が濃すぎるようだ。

読み始めたときはバルガス=リョサがこんなものを書くのかと、ちょっと驚いた。コメディであれば「フリアとシナリオライター」、エロティックな小説であれば「継母礼賛」「官能の夢」がある。けれど、いずれも構造はリョサらしい入れ子構造の語り口で、幾分か実験的なものや幻想的なものが含まれていた。ところがこの作品はどストレートな恋愛小説のようで、すんなりと読めてしまう作品だ。

ただ、どこにでもある恋愛小説と少し違うのは、その時代の世界情勢や流行といった時代背景を描いていること、海外へ移住した人間から見たペルーの現代史を追っていることだろう。1950年代のリマ、1960年代のパリのカルチエ・ラタン近辺、1960年代終盤から70年代にかけてのロンドンのヒッピーや外国人のたまり場アールズコート、1970年代末頃の東京、そしてパリへ戻り、最後はスペインのマドリー、フランス南西部地中海沿岸のセートで終幕を迎える。

niña mala(ニーニャ・マラ)は書名通りの「悪い女」で、最初はリリーと呼ばれていたが、次々と名前が変わるため、結局ずっとニーニャ・マラと呼ばれることになる(本名は最後の方に判明する)。主人公のリカルドは niño bueno(ニーニョ・ブエノ)と呼ばれるが、これは直訳の「良い男」というよりは日本でいうところの「(どうでも)いい人」に近いと思われる。書名の「悪い娘の悪戯」はかなり考えた末のものだろうと思うが、「ニーニャ・マラの悪戯」でもよかったような気がする。

以下、ネタバレになります。


貧しい生活から抜け出したいという野心をもったニーニャ・マラだが、結局何がしたかったのだろうか。死ぬまで自分でもよくわかっていなかったのではないか。最初はとにかく贅沢がしたい、いい生活をしてちやほやされたい、というところから出発していて、手段は何でも良いと思っている。しかしキューバの軍事訓練に応募するところがかなり無茶だなと思うのだが、それしか方法がなかったのか。外国に出さえすればなんとでもなると思ったのか。

キューバの司令官の情婦→フランスの外交官の妻へと登っていくが、外交官は実際のところさほど金持ちではない。それでもパリでの生活が気に入って楽しんでいるようにも見えたのだが、夫に満足できないからか、イギリスへ夫の財産をもって逃げる。もちろん男と一緒だろう。

次にイギリスではかなりの富豪の夫人となり、贅沢な生活をして世界中を旅して楽しむが、夫の家での環境になじめず、退屈で暇をもてあましている。そこで今度は慰謝料をとって逃げようとしたが、過去がばれて失敗。東京へ移動する。そこで怪しいビジネスをしている男の愛人となり危険な仕事をして、初めて「何かの役に立つ」ことに喜びを覚える。そして、過去に男に支配されることのなかった彼女はフクダに支配され虐待されることに依存してしまった。命からがら逃げ出して、パリに舞い戻る。

その間、ずっとリカルドは彼女を追い求め、祭り上げる以外に何をしたのか。何もしていない。しかしこの時点で初めて彼女の役に立つことをする。相手が弱っているときだから出来たことかもしれないが、さすがに年月が経過して貧乏だった彼も少しは使える金が出来ていたのだろう。病気療養中、金銭面でも精神面でも彼女を助ける。

ところが、また彼女は逃げ出す。が、一度は逃げ出したもののすぐにまた舞い戻って来る。それは何故なんだろう?さすがにリカルドに悪いと思ったのか、それとももう肉体的に女性を武器に生きていくことは厳しいと思ったのか。どちらかというと後者なような気がする。そこできちんと結婚し、働いて、主婦もするという平凡な生活を歩む。何かの役に立てるという喜びを上手にコントロールできなかった東京での生活での反省もあるのだろう。計算すると、7~8年はこの生活をしているように思えるのだが、間違っているかもしれない。

結局またそこから逃げ出すことになるのだが、それは彼女の言うとおり「平凡な生活に耐えられなくなった」のだが、結果的には「最後の花火を打ち上げた」形になってしまっている。

金持ちの妻になるのは良いが、結局夫の財産や職業に生活が左右されるのは間違いないわけで、それなら夫の財産をベースに自分で事業でも興した方が良いし、出来るだけの能力・胆力もおそらくある彼女なのだが、そうはしない。一方で自分の力で好きなことが出来るだけの仕事や家庭をもっても、逆に縛られていると感じてしまったようだ。結局のところ、彼女が望んだのは「冒険に満ちた人生」なのだろう。

ずっと一方的に追いかけていたニーニョ・ブエノだけれど、最後にはニーニャ・マラに必死で探し求められる。上記でパリに舞い戻るまで彼女に対して「何もしていない」と書いたが、長い間ニーニャ・マラの精神的な支えであり続けたように思える。純粋に自分を追い求めてくれる男がいたら、それだけで辛いときにも強気になれるものだ。リカルドの気持ちが報われたことが、この物語のさわやかな読後感の理由だと思った。


■書誌事項
マリオ・バルガス=リョサ著,八重樫克彦,八重樫由貴子訳
書誌事項:作品社 2012.1.5 426p ISBN978-4-86182-361-9
原題:Travesuras de la Niña Mala : Mario Vargas Llosa, 2006

2011年6月22日

バルガス=リョサ講演会(東京大学)

バルガス=リョサ講演会チラシバルガス=リョサの東大での講演会に行ってきた。まず、バルガス=リョサ氏へ、日本人の一人として、今この時に予定どおり来日してくれて、世界へ向けてメッセージを発信してくれたことに感謝します。日本はとても危険に思われ、来日を断ったり帰国する人が多い中でのこの男気というか仁義というか、大作家らしい態度はさすが。

実物のバルガス=リョサを見て、まず、なんて華やかな人だろうと思った。大柄で、背筋がしっかりと伸び、75歳とは思えない声量で精力的に話している。さすが、一時は政治家を目ざしただけのことはある。

最初に話したのはこの世界における文学の役割。文学は偏見や暴力、不正義から人々を守る役割がある、等々。ノーベル文学賞受賞者だから、そういうお話をしなくてはならない。例えば「作家にとって生きることは書くことだ」なんていう言葉を彼がスペイン語で言うと、たいへんな重みがあるのだけれど、それは書いた文ではとても伝えられない。

面白かったのが、「密林の語り部」ができるきっかけ。この作品はバルガス=リョサが実際に行ったアマゾンへの先住民に対する調査というか冒険の体験に基づくものであることは知っていたが、その詳細を話してくれた。大学在学中(?)、アマゾン川流域の街プカルバへ赴き、分散してしまった先住民であるマチゲンガ族のコミュニティを調査する調査隊に参加した。その中には文化人類学者であり宣教師でもある米国人夫妻がいて、彼等から自分は語り部の話を聞いた。分散してしまった部族の人と人を物語でつなぐのが語り部である。自分はこの語り部になろうと思った。文学はこのような役割を果たすものである、と。細かい言葉としては違うかもしれないが、そのような趣旨の話だった。20年後に再開した夫妻が覚えていなかったというオチがついていたが。

質疑応答タイムは野谷先生の教え子の学生たちが先を争って?あるいはきちんと仕込まれて?質問し、司会を務められる野谷先生も「若い人!」とご指名。

氏は詩人のルベン・ダリオの研究論文を発表しているが、詩という文学ジャンルについてはどう思うか?という質問に対し、すべての作家は詩を書くことから文学から入っており、詩人を羨望のまなざしで見ている。詩は完璧なものをつくることが出来るが、小説は完璧なものはつくり得ない。自分は詩人としては、ヘボでした、とのことで会場から笑いがもれる。

「専門化が進むことにより人々が分断されていく」という話をしていたが、研究者がどんどん専門的に先鋭化していくことについてはどう思うか?あるいは研究者の役割とは何?という大変良い質問が出たが、「批評家は読者と作家の橋渡しをするのが役割」という、わりと平凡でかつしごくまっとうな回答。

作品については昨日のセルバンテス文化センターの方が話が濃かったのかもしれない。少しうらやましい。

ゲットしてきた大事な情報を。

1.絶版中の「密林の語り部」が岩波文庫から出るらしい。

2.氏は今日の午前中、神保町で古書店巡りをした。かつてオクタビオ=パスが入ったのと同じ古書店で「北斎漫画」を見る。その際、偶然NHKがロケ中で急遽出演した。妖怪を扱った番組で、放送は後日とのこと。どこからか情報が出ると良いのだが。


最後にちょいと。

1. 東大文学部(教授)席が空きすぎ。バルガス=リョサの邦訳としては最新作の訳者である田村さと子先生をたいへん良い席ではあるけれど東大側の案内もなく一般席に座らせておいて、それはないんじゃないかなーと思った。

2. そんな中でも柴田元幸先生は英米文学の方だが、研究熱心な方だけあって出席されていたことを確認。さすが。(他にもおられましたが、どなたかまでは確認できず)。

3. 赤いポロシャツの素敵な先生は幻だったようです...。

2011年1月25日

チボの狂宴/バルガス=リョサ

チボの狂宴ノーベル文学賞を受賞後に翻訳が刊行された作品で、もともと評判が高かったが、実際に読んでみると、圧倒されてしまった。リョサの他の作品と同様、複数の時間、複数の物語が平行して流れていくのだが、そのラインが最終的に混ぜ合わさり大きなうねりのようになってぐぐっと持ち上げられ、ポトンと落とされる感じと言えばいいだろうか。

ドミニカの独裁者・ラファエル・トルヒーリョ(1891~1961)の時代を描いた長編小説。トルヒーリョの最後の一日をトルヒーリョの方と暗殺者の方の2本建てで流れていく。さらに35年後の1996年のドミニカに帰国した女性・ウラニアの現在と過去の物語も語られ、大枠では3本の話が進んで行く。暗殺者の人々がそこに至るまでの経緯が一人ずつ丁寧に書かれ、一方でトルヒーリョも過去に遡りながら政権の幹部たちとの歴史が掘り起こされていく。暗殺が実行されて、2本が一致し、そこからまた暗殺後の政権へと話が移る。暗殺直前からウラニアの話はしばらく放っておかれる。暗殺者の逃亡と裏切り者のその後、そして大統領ホアキン・バゲラールの政権の舵取りと生き延びた暗殺者たちの話が終わると、ようやくウラニアに話が戻って、彼女の過去におきた出来事の全貌が語られて物語は終幕する。

読み進めるにつれ、人間の気高さと卑劣さが次々と襲いかかってくる。暗殺者たちの過去の卑屈さとそこから立ち上がろうとする気高さ。ウラニアの父や娘婿のロマン将軍らの吐き気を催すほどの卑劣さ。独裁者のもっとも恩恵を受けている者がもっとも彼を憎み、そして恐れている。ばれるとわかっていて、ばれたらどんな目に遭うかわかっていて、それでも感覚が麻痺したかのように一歩が踏み出せないロマン将軍の心理は理解できる。暗殺者を庇う人々の気高さと、暗殺者を執拗に追求する一族の愚劣さ。そんな中、大統領ホアキン・バゲラールの絶妙な政権運営とバランス感覚に強い感銘を受けた。

独裁政治が倒れた後の反動として、鬱屈したパワーが爆発して内戦に陥ることを懸念し、両サイドのパワーバランスを時間をかけてじわじわと調整するその手腕は見事だ。それまで長い間独裁者の傀儡だったのに、暗殺直後から権力を掌握し、力を発揮する彼の本当の狙いは何だったのか。我欲のない人物だからこそ今もっともふさわしい手は何かを見通すことが出来たのかもしれない。事実としては彼は結局クーデターにより失脚するのだが、国は内戦にはならず、その後再び大統領として復権することになる。

ウラニアが何故父親を手紙に返事を書くことすらせず、憎み続けていたのかは、かなり最初の方でわかる。娘が父親をそこまで憎むのは、父親に犯されたか、父親に売られたかのどちらかだ。では誰に売られたのか、どんなふうに売られたのか、それだけで最後まで引っ張るのはさすがとしか私には言葉がない。

30年以上もの長い間独裁政治を敷くことが出来たトルヒーリョは几帳面でかんしゃく持ちで、傲慢で自信家で残忍だ。「歴史上の人物」にそんな人間らしさがないと、自分には読み進めるのが困難だったのではないか。何しろ大著なので、物語にも登場人物にも力強さがなければ読み終わることが出来なかっただろう。

それにしても映画が見たい。どこかでDVDにしてくれないものだろうか。

著者:マリオ・バルガス=リョサ著,八重樫克彦,八重樫由貴子訳
書誌事項:作品社 2011.1.30 538p ISBN978-4-86182-311
原題:Mario Vargas llosa, La fiesta del Chivo, 2000

2010年10月 9日

バルガス=リョサ 翻訳図書一覧

2013.4.3 update!

バルガス=リョサの翻訳は結構出ているのですが、下記のように絶版が多いです。新刊が購入できるものはアマゾンで購入ボタンを貼り付けていますが、それ以外はすべて絶版です。表紙画像にはアマゾンへのリンクを貼ってありますので、古書での値段のすごさ(一概に相場とは言えません。market placeは高めです)を見てください。新刊で購入できても、すぐには入手できないものもあります。版元で重版かけている最中のものもあります。できればこのページ、復刻で更新していきたいです。

排列は原書の発表順です。翻訳の刊行順ではありません。

コメントの一つもつけたいのですが、受賞翌日の本日としては限界です。おいおいつけていきます。また、いずれ未翻訳作品の一覧も追加していきたいと思います。戯曲が全滅ですから...

小犬たち・ボスたち小犬たち・ボスたち(ラテンアメリカ文学叢書7)
鈴木恵子、野谷文昭訳 国書刊行会 1978.3.30 2200円 
Los cachorros, 1959(ボスたち)/Los jefes, 1967(小犬たち)
【絶版】
感想はこちら

都会と犬ども都会と犬ども(新潮・現代世界の文学)
杉山晃訳 新潮社 1987.9.25 1900円 ISBN4-10-514503-7
La ciudad y los perros, 1963


都会と犬ども/マリオ・バルガス=リョサ都会と犬ども
杉山晃訳 新潮社 2010.12.10 2940円 ISBN978-4-10-514508-8
La ciudad y los perros, 1963

"怒れる若者"として登場した作家自身の体験を昇華させた、華々しき出世作。

厳格な規律の裏では腕力と狡猾がものを言う、弱肉強食の寄宿生活。首都リマの士官学校を舞台に、ペルー各地から入学してきた白人、黒人、混血児、都会っ子、山育ち、人種も階層もさまざまな一群の少年たち=犬っころどもの抵抗と挫折を重層的に描き、残酷で偽善的な現代社会の堕落と腐敗を圧倒的な筆力で告発する。1963年発表。


緑の家緑の家(新潮・現代世界の文学)
木村栄一訳 新潮社 1981.3.25 1800円 ISBN4-10-514501-0
La casa verde, 1966
【絶版】

緑の家 新潮文庫緑の家(新潮文庫)
木村栄一訳 新潮社 1995.3 777円(税別) ISBN4-10-245301-6
La casa verde, 1966
【絶版】

緑の家 岩波書店 上緑の家 上(岩波文庫)
木村栄一訳 岩波書店 2010.8.20 882円 ISBN978-4-00-327961-8
La casa verde, 1966


緑の家 岩波書店 下緑の家 下(岩波文庫)
木村栄一訳 岩波書店 2010.8.20 1071円 ISBN978-4-00-327962-5(下)
La casa verde, 1966


ラテンアメリカ五人集ラテンアメリカ五人集(集英社文庫/ラテンアメリカの文学)
鈴木恵子訳 集英社 1995.9 718円(税別) ISBN4-08-760245-1
Los jefes, 1967(小犬たち)
【絶版】

ラ・カテドラルでの対話ラ・カテドラルでの対話(世界の文学30)
桑名一博訳 集英社 1984.5 1500円 ISBN4-08-126017-6
Conversacion en la Catedral, 1969
【絶版】→

パンタレオン大尉と女たちパンタレオン大尉と女たち(新潮・現代世界の文学)
高見英一訳 新潮社 1986.2.25 1700円 ISBN4-10-514502-9
Pantaleon y las visitadoras, 1973
【絶版】→

果てしなき饗宴―フロベールと『ボヴァリー夫人』果てしなき饗宴―フロベールと『ボヴァリー夫人』(筑摩叢書319)
工藤庸子訳 筑摩書房 1988.3.25 1800円 ISBN4-480-01319-9
La orgia perpetua:Flaubert y "Nadane Bivary", 1975
【絶版】→
※評論

フリアとシナリオライターフリアとシナリオライター(文学の冒険)
野谷文昭訳 国書刊行会 2004.5.31 2520円 ISBN4-336-03598-9
La tia Julia y el escribidor, 1977
感想はこちら



世界終末戦争世界終末戦争(新潮・現代世界の文学)
旦敬介訳 新潮社 1988.11 3500円 ISBN4-10-514504-5
La Guerra del fin del mundo, 1981
【絶版】


世界終末戦争世界終末戦争
旦敬介訳 新潮社 2010.12.10 3990円 ISBN978-4-10-514507-1
La Guerra del fin del mundo, 1981

それは、続く20世紀、政治と道徳が完全に分離する時代への預言だったのか?

19世紀末、大旱魃に苦しむブラジル北部の辺境を遍歴する説教者と、彼を聖者と仰ぐ者たち。やがて遍歴の終着地に世界の終りを迎えるための安住の楽園を築いた彼らに叛逆者の烙印を押した中央政府が陸続と送り込む軍隊。かくて徹底的に繰返された過酷で不寛容な死闘の果てに、人々が見たものは......。1981年発表、円熟の巨篇。


誰がパロミノ・モレーロを殺したか誰がパロミノ・モレーロを殺したか(ラテンアメリカ文学選集6)
鼓直訳 現代企画室 1992.8  ISBN4-7738-9211-0
Quién mat a Palomino Molero?, 1986


密林の語り部密林の語り部(新潮・現代世界の文学)
西村英一郎訳 新潮社 1994.2 1942円(税別) ISBN4-10-514505-3
El hablador, 1987
【絶版】→

継母礼讃継母礼讃(モダン・ノヴェラ)
西村英一郎訳 福武書店 1990.8 1300円 ISBN4-8288-4007-9
Elogio de la madrastra, 1988
【絶版】


継母礼賛継母礼讃(中公文庫)

西村英一郎訳 中央公論新社 2012.10.25 760円 ISBN978-4-12-205688-6
Elogio de la madrastra, 1988


アンデスのリトゥーマアンデスのリトゥーマ
木村榮一訳 岩波書店 2012.11.7 2520円
ISBN978-4-00-022071-2
Lituma en los Andes, 1993

苛烈な〈革命〉の嵐吹き荒れるペルー。『緑の家』のアマゾンとは一転、テロリストの影に怯えながらアンデス山中に駐在する伍長リトゥーマと、愛すべき助手トマスの目の前で、三人の男が消える。彼らの身に何が起こったのか? 迷信、悪霊、暴力、正義──交錯する語りのなかに、悪夢と現実が溶け合う。ノーベル賞作家・バルガス=リョサの世界を堪能できる一作。
感想はこちら


嘘から出たまこと嘘から出たまこと(セルバンテス賞コレクション)
寺尾 隆吉訳 現代企画室 2010.2 2040円
ISBN978-4-773-81002-8/ISBN4-773-81002-5
La verdad de las mentiras, 1990
感想はこちら


※評論・エッセイ

官能の夢―ドン・リゴベルトの手帖官能の夢―ドン・リゴベルトの手帖
西村英一郎訳 マガジンハウス 1999.11 2400円(税別) ISBN4-8387-0979-X
Los cuadernos de Don Rigoberto, 1997
【絶版】

ドン・リゴベルトの手帖ドン・リゴベルトの手帖
西村英一郎訳 中央公論社 2012.12.20 933円(税別) ISBN978-4-12-205737-1(中公文庫)
Los cuadernos de Don Rigoberto, 1997



若い小説家に宛てた手紙若い小説家に宛てた手紙
木村榮一訳 新潮社 2000.7.30 1680円 ISBN4-10-514506-1
Cart as a un joven Novelista, 1997

※評論・エッセイ


チボの狂宴<チボの狂宴
八重樫克彦,八重樫由貴子訳 作品社 2010.12.25 ISBN978-4-86182311-4
La fiesta del Chivo, 2000
感想はこちら

1961年5月、ドミニカ共和国。31年に及ぶ圧政を敷いた稀代の独裁者、トゥルヒーリョの身に迫る暗殺計画。恐怖政治時代からその瞬間に至るまで、さらにその後の混乱する共和国の姿を、待ち伏せる暗殺者たち、トゥルヒーリョの腹心ら、排除された元腹心の娘、そしてトゥルヒーリョ自身など、さまざまな視点から複眼的に描き出す、圧倒的な大長篇小説!



楽園への道楽園への道
田村さと子訳 河出書房新社 2008.1.10 2,730円 ISBN978-4-309-70942-0
El Paraiso en la Otra Esquina, 2003
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悪い娘の悪戯悪い娘の悪戯
八重樫克彦,八重樫由貴子訳 作品社 2012.1.5 ISBN978-4-86182-361-9
Travesuras de la Niña Mala, 2006

50年代ペルー、60年代パリ、70年代ロンドン、80年代マドリッド、そして東京...。世界各地の大都市を舞台に、ひとりの男がひとりの女に捧げた、40年に及ぶ濃密かつ凄絶な愛の軌跡。ノーベル文学賞受賞作家が描き出す、あまりにも壮大な恋愛小説。
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2010年10月 8日

バルガス=リョサ、ノーベル文学賞受賞

2010年のノーベル文学賞、日本ではいよいよ村上春樹かと盛り上がっていたが、ほかに候補者にはフィリップ・ロスや高銀、シリアのアドニスなどが並んでいた。毎度のようにマリオ・バルガス・リョサやカルロス・フエンテス、トマス・ピンチョンなんかもあがっていたが、年中行事のように思っていたら、今更ながらリョサが受賞。

リョサくらいになると、あれ?とってなかったっけ?という反応が出る。私はとれてないことは知っていたが、アレッホ・カルペンティエールやカルロス・フエンテスなんかも受賞してないんだなということをあらためて認識する。カルペンティエールは何度も候補にあがったがとれずじまい。ノーベル文学賞って確か現存者のみだったから、死んだらもらえないんだったと思う。だから今更感はぬぐえないが、とれないよりはよい。ガブリエラ=ミストラル、アストゥリアス、パブロ・ネルーダ、ガボ、オクタビオ・パスに続いてラテンアメリカでは6人目となる。実際、最近もコンスタントに作品は発表しているのです。

翻訳を待っている身としては、正直言って受賞はありがたい。出版社が企画を通すときの一つの手ではある。もちろん、ノーベル文学賞をとったからと言って、即本が売れるわけではないし、取ってから翻訳が出るまで時間がかかるため、日本の飽きっぽい読者には意味がないという話もある。

それでもやはり新刊および絶版の復刻を期待したい。すでに予定されていた2011年1月頃の「チボの狂宴」に続き、作品社から「BAD GIRL(バッドガールのいたずら)?」が予定されているそうだ。何にせよめでたい。

本棚

はっきりは読めないかもしれないが、私の本棚の一番良いところに、リョサ棚がある。なんとなく記念にアップしてみた。

2010年4月22日

嘘から出たまこと

嘘から出たまことセルバンテス賞コレクションの第2弾はマリオ・バルガス=リョサの小説論。35作品に対する評論が収められている。20世紀の世界文学における有名な小説ばかりで、すべて日本語訳が出ている。私は半数も読んだことはないが、さすがに、タイトルすら知らないというものはなかった。

作家であるのみならず、文学評論においても評価の高いリョサの書く小説論は多くの示唆に富んでおり、フィクションの本質をよくついている。

人間は自分の運命に満足できないもので(中略)、今と違う生活に憧れる。(中略)すなわち、誰もが求めてやまぬ理想の生活を提供するために書かれ、読まれるのがフィクションである。 (中略)... (小説の真実は)作品自体の説得力であり、架空の出来事の伝達能力であり、その魔術の巧みさである。良い小説はすべて真実を歌え、悪い小説はすべて嘘をつく。小説において、「真実を伝える」とは読者に幻想を生きさせることであり、「嘘をつく」とはその手品をやり損なうことである。

あまりにも多くの作品で鋭い言説が含まれているため、全部を取り上げることは出来ないが、一番印象に残った言葉は、ジョン・スタインベックの「エデンの東」を取り上げた、その冒頭だ。

現代文学の興味深い特徴の一つは、しばしば駄作の方が傑作よりも楽しいことだろう。小説の世紀といわれた十九世紀にはこんなことは起こらなかった。トルストイやメルヴィル、スタンダールやフロベールを読めば、情熱をかき立てる歴史的・感情的冒険と大胆な文学的実験の両方に立ち会うことができた。

20世紀の文学においてはコンラッドやヘンリージェイムス、プルースト、ジョイスなどの作品を読むのは知的な作業としては楽しいが、古典的な物語の楽しみ方とは異なる行為になってしまう。つまり、物語としてのわくわく感、おもしろさに欠けてしまう。そしてスタインベックの「エデンの東」は文学としてはメチャクチャなのだが、読むと面白くてしょうがない、といった話になっていく。物語を楽しんでいる自分に腹が立つ、とまで言っている。

だからこそリョサは文学的実験と物語の楽しさと、両方合わせ持った19世紀のような文学作品を20世紀、あるいは21世紀の現在に再現しようと奮闘しているようにも見える。この人はエッセイもいいが、やはり長編小説を読みたい。

川場康成の「眠れる美女」が入っているが、ガルシア=マルケスがこの作品をきっかけに「わが娼婦たちの思い出」を書いたという話を思い出した。南米で評価の高い作品なのだなと、あらためて思う。

せっかくだから読んだことのないもので読みたいなと思ったものをピックアップしたいのだが、「アフリカの日々」以外知らなかったアイザック・ディネーセンの作品くらいなものだった。ここにも2作品入ってるし、キューバにもいたのに、私はどうしてもヘミングウェイを読む気にならない。大昔に「キリマンジャロの雪」を読んでからずっとそうだ。多分、男のロマンティシズムとかが大嫌いだからだと思う。加えてマザコンだし。これはもう立派な偏見だし、単なる毛嫌いだと自覚しているが、直りそうもない。

ところで、スペインの賞だから、スペインだとLlは「ジョ」だから、ということは理解できるが、ペルーの人だし「リョ」でもいいんじゃないかと。それに何より検索の便宜を考えたら、日本では多い方の表記に合わせた方が読者のためだと思うのだが。確かに、初版の部数が1200部だから、読者なんかどうでもいいということなのんだろうか。そしてまた、相変わらず装丁が安っぽい。こんなマイナーな文芸書、助成金がなかったら出せないことはわかっている。読めただけありがたいと思えということか。なんだかこのシリーズ、読む気がだんだんなくなって来るな。中身は素晴らしいし、訳者に文句はないが、版元の姿勢が、せっかくなのになと思ってしまう。

■著者:マリオ・バルガス=ジョサ著,寺尾隆吉訳
■書誌事項:現代企画室 2010.2.15 390p ISBN4-7738-1002-5/ISBN978-4-7738-1002-8
■原題:Le verdad de las mentrias : Mario Vargas Llosa, 1990,2002
■目次

序文
嘘から出たまこと
人間の根源 ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』(1902)
深淵からの呼びかけ トーマス・マン『ヴェニスに死す』(1912)○
ジョイスのダブリン ジェイムス・ジョイス『ダブリンの市民』(1914)○
群衆と破壊の都 ジョン・ドス・パソス『マンハッタン乗換駅』(1925)
平凡のなかの濃密で豪華な生活 ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』(1925)○
宙に浮いた楼閣 スコット・フィッツジェラルド『華麗なるギャツビー』(1925)○
荒野のおおかみの変身 ヘルマン・ヘッセ『荒野のおおかみ』(1927)○
フィクションとしてのナジャ アンドレ・ブルトン『ナジャ』(1928)
悪の聖域 ウィリアム・フォークナー『サンクチュアリ』(1931)
悪夢のような楽園 オルダス・ハックスリー『すばらしい新世界』(1932)
英雄、幇間、そして歴史 アンドレ・マルロー『人間の条件』(1933)
幸せなニヒリスト ヘンリー・ミラー『北回帰線』(1934)○
男爵夫人の物語 アイザック・ディネーセン『七つのゴシック物語』(1934)
悪夢のリアリズム エリアス・カネッティ『眩暈』(1936)○
頑固者たち アーサー・ケストラー『真昼の暗黒』(1940)
希望を持つ権利 グレアム・グリーン『情事の終り』(1951)
異邦人死すべし アルベール・カミュ『異邦人』(1942)○
社会主義、絶対自由主義、反共産主義 ジョージ・オーウェル『動物農場』(1945)
哲学と感性の娼婦 アルベルト・モラヴィア『ローマの女』(1948)
驚異的現実か、文学的仕掛けか? アレホ・カルペンティエル『この世の王国』(1949)○
勇気による救済 アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』(1952)
みんなの祝祭 アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』(1964)
駄作礼賛 ジョン・スタインベック『エデンの東』(1952)
スイス人になれるか? マックス・フリッシュ『ぼくはシュティラーではない』(1954)
三十歳になったロリータ ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(1955)
公爵の嘘 ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ『山猫』(1957)○
風邪に揺れる焔 ボリス・パステルナーク『ドクトル・バジゴ』(1957)○
太鼓の乱れ打ち ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』(1959)○
夢に揺れて眠る夜 川端康成『眠れる美女』(1961)
挫折に満ちた黄金のノート ドリス・レッシング『黄金のノート』(1962)
楽園の脱落者 アレクサンドル・ソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』(1962)○
ばらばらになった人文学者 ソール・ベロー『ハーツォグ』(1964)
特性のない英雄 アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは...』(1994)○
文学と生活
訳者あとがき

2008年2月11日

楽園への道

楽園への道/マリオ・バルガス=リョサバルガス=リョサの2003年の作品が「河出世界文学全集」の第二巻として刊行された。この文学全集、初訳が少ないのだが、この巻は初訳で、全集の目玉の一つと言えるのではないだろうか。フローラ・トリスタンとポール・ゴーギャン。違う時代に生きた祖母と孫だが、共通点は波乱に満ちた生涯を送ったこと、そしてペルーである。フローラの父親はペルー人で、成人後ペルーを訪れ、得難い体験をしており、この女性が労働運動家・女性運動家として活動するきっかけを作ったのは、ペルーの女性たちの自由さだったという。また、ゴーギャンも幼い頃ペルーで過ごしている。特にゴーギャンの南方指向にはペルーでの幼児体験が大きく影響しているとリョサは考えている。

ゴーギャンの方は1892年4月に最初にタヒチに着いた時から物語は始まる。同年「死霊は見ている」はテハッアマナというタヒチに渡って2番目の愛人がモデルである。

床に敷いた敷布団の上で、裸でうつ伏せになったテハッアマナが、丸みを帯びた尻を少し浮かせ、背中をやや曲げて、顔を半分彼のほうに向けながら、動物のようにひどくおびえた表情で、目も口も鼻も引きつらせたまま顔をしかめるようにして、彼を見つめていた。

「マナオ・トゥパパウ」と名付けられたその絵は、ゴーギャンがヨーロッパではもう見つけることの出来ない何かに触れた、幻想的な経験だった。

1893年「神秘の水」(パペ・モエ)は中性的な少年を描いた、水彩画である。

花や葉、水、淫らな形をした石の森の真ん中で、岩にもたれ、渇きをいやすためか、その土地の見えない神をあがめるためか、その陰影のある美しい身体を小さな滝のほうに傾けている一人の人間である。

「アイタ・タマリ(ジャワ女アンナ)はゴーギャンがパリに戻った後、一緒に暮らした女性だが、その絵の裏には実はジュディットというモラール家の令嬢が描かれているというリョサの解釈が書かれている。

ゴーギャンが再び タヒチを訪れ、描いた「ネヴァーモア」はゴーギャンの子を妊娠中のパウッウラを描いたもので、失敗に終わった自殺を前に描いた大作「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」の詳細な解説もある。最晩年の「ヒヴァ・オアの呪術師」(妖術使いあるいはヒヴァ=オア島の魔法使い) の男とも女ともわからないように呪術師を描いている。このモデルになった人物も登場する。

というように、まずはゴーギャンの画集を購入した方が良いと思う。リョサ自身もゴーギャンの絵の入ったものを刊行することが希望だそうだが、それも当然だろう。

フローラ・トリスタンを知っている人はプロレタリア思想などに詳しい人だけではないだろうか。ジョルジュ・サンドは知っていても、フローラ・トリスタンは知らないのは仕方あるまい。リョサがこの人を発掘してくれなかったくれなかったら、私はずっと知らないままだったのではないだろうか。彼女の著書「ペルー旅行記―ある女バリアの遍歴」「ロンドン散策」は邦訳が出ている。

パリは世界でも最も女性の強い街だろうと思うが、こういう人たちが150年以上前にえらくひどい目に遭って、戦って勝ち得て来たものなのだろう。

ゴーギャンとトリスタンの二人の物語が交互に進行するが、互いに浸食し合うことはない。彼らの生涯のうち最晩年の頃が時系列に物語られつつ、彼ら自身が回想する形で遡って伝記がたどられる。騎士道物語の体裁をとっているそうで、突然語り手が主人公たちに語りかけるような調子が入るが、基本的に第三者の語り手のまま、混乱することなく進んでいく。

リョサの初期の作品に比べれば、小説技法としては拍子抜けするほどわかりやすく、画期的な試みは見られない。ゴーギャンとフローラ・トリスタンの手紙や著作などの歴史的事実をベースに著者が自由にフィクションを作り上げていることは見て取れる。だが、やもすれば普通の歴史小説のようで、少々物足りなさを感じてしまうのは私だけだろうか。量的には500ページ以上なので、充分すぎるほど充分なのだが…

■著者:マリオ・バルガス=リョサ著, 田村さと子訳
■書誌事項:河出書房新社 2008.1.10 516p ISBN4-309-70942-7/ISBN978-4-309-70942-0
■原題:El Para&iacute;so en la Otra Esquina: Mario Vargas Llyosa, 2003

2004年12月11日

小犬たち/ボスたち

■著者:マリオ・バルガス=リョサ〈Mario Vargas Llosa〉著、鈴木恵子、野谷文昭訳
■原題:Los jefes, 1967/Los cachorros, 1959
■書誌事項 国書刊行会 1978.3.30(ラテンアメリカ文学叢書7)

■内容:
「小犬たち」:クエリャルは少年期に性器を犬に食いちぎられるというショッキングな事件に遭う。だが、スポーツに熱中して普通の少年として成長し、ハンサムでスポーツ万能の青年になる。だが思春期になり、仲間に彼女ができるようになると、大いに悩むようになって‥。
「ボスたち」:昨年まで発表されていた学期末試験の時間割が今年になって発表されなくなった。中等科3年の4人は学校当局への抗議ストにたった。低学年の少年たちのスト破りなどに合い、ストの行方はどうなるのか。
「決闘」:日頃から憎み合っていた「ちんば」とフストがついに決闘するとレオニーダスが告げた。フストの友人たちは決闘を見届けに行く。
弟:妹に乱暴を働いたインディオを追ってダビーとフワンの兄弟は山に入って行く。インディオに発砲したのは都会から帰って来た弟のフワンだった。家に戻ると、インディオがどうなったのか妹が知りたがったが、その理由は‥。
「日曜日」:ミゲルはGFのフローラをルベンが狙っていることを知り、気が気でない。ルベンはスポーツ万能で女の子にモテモテだから、フローラを取られてしまうかもしれない。フローラの友達の女の子がルベンを紹介する手はずになっているらしい。その日曜日の午後、ミゲルは邪魔をしてやろうと、仲間の溜まり場に行き、ルベンを酒に酔わせて行かせまいとする。ミゲルの挑発にルベンはのり、海で決着をつけることになる。二人は極寒の冬の海に飛び込むが‥。
「ある訪問者」:ドニャ・メルセディータスの安宿にジャマイカ人の男がやって来る。おたずね者のヌーマを逮捕するため、警察が刑務所に入っていたこのジャマイカ人を利用し、仕組んだ罠だ。果たしてヌーマはやってくるのか‥。
「祖父」:ある日老人は子供のものかと思われる髑髏を拾う。孫を驚かそうと、この髑髏の中に入れるろうそくを買い、髑髏の汚れをぬぐう。そしてこっそり庭に忍び込むが‥。

■感想
バルガス=リョサを一から再読してみようかと思う。いつ終わるのかわからないが。

「小犬たち」は「ボスたち」の8年後に書かれた中篇。とてもポップで軽快な文章で、俗語を多く含み、若者たちの仲間意識の高さを現しているように思われる。少年期から青年期への仲間たちとの交流の中で、少しずつ大人になっていく姿は普通の少年そのものなのだが、滑稽でとても哀しい短篇。マチズモの南米だから、というばかりではないだろうが、周囲の少年たちの無理解が寂しい。自暴自棄な人生を歩むしかなかったクエリャルを遠巻きに見て中産階級の大人になっていく仲間たち。その両方を鮮やかに対比することによって中産階級の青年たちの無神経さやだらしなさが強く感じられる。

「ボスたち」は著者の処女作にして数少ない短篇集。非常に軽快なリズムだが、切れ味の鋭い言葉で紡いでいく短篇集。「ボスたち」はストの先頭に立った少年たちのやわな「ボス猿」っぽさを皮肉ったタイトルなのだろうか。「決闘」にはラストにリョサお得意のオチというようなものが見られる。しかし決闘した彼は生きているんだろうか?「弟」は都会の感覚をもった弟と野蛮な兄と無茶区茶なわがままさをもつ妹の対比でペルーの田舎と都会のメンタリティの差が現れている。「日曜日」は女の子を争って命を落とすかもしれない危険な決闘をする若者のお話。実にバカバカしいマチズムに支配された若者たちを、緊張感のある文章で描いている。「ある訪問者」は記念すべきリトゥーマ軍曹が初登場するお話。「緑の家」だけでなく、この後いろいろなところに顔を出すキャラクターである。ストーリーとしては非常に愉快なオチのある話だが、まるで西部劇のような一幕ものである。「祖父」はちょっと面白さがわからない‥というか髑髏のグロテスクさにちょっとイヤな感じがしてしまう。孫を驚かそうとする無邪気な老人の話なのだけど、この孫が受けた印象を思うと、南米の暴力的な寓話なのかなと思ってしまう。
全体として「暴力」や「マチズム」を取り上げ、そのばかばかしさ、虚しさを訴えているような気がした。"

2004年6月22日

フリアとシナリオライター

フリアとシナリオライター■原題:La t´ia Julia y el escribidor, 1977
■著者:マリオ・バルガス=リョサ著,野谷文昭訳
■書誌事項:国書刊行会 2004.5.31 ISBN4-336-03598-9
■感想
国書刊行会「文学の冒険シリーズ」第一期の目録に掲載されたのが、約15年前だそうだ。私がリョサの「緑の家」を読んだのがもう10年くらい前になるのかなぁ。その頃から「まだ出ないのかなぁ」と思っていた。この度ようやく翻訳が出た。

15年前というと1990年頃。やはり映画「ラジオタウンで恋をして」が製作されたからでしょう。すぐに出せれば良かったんでしょうけど、タイミング逸してずるずると…って感じかな?そんな簡単に翻訳できるような量じゃなかった。ちなみに、先に映画を見てしまったので、マリオくんはキアヌ・リーブスの顔で刷り込まれてしまった。

バルガス=リョサが若い頃ペルーのラジオ局に勤めていたこと、親戚で年上の女性と結婚したことは事実らしいが、それ以外は基本的にフィクションと思われる。シナリオライターであるペドロ・カマーチョなる人物が想像の人物かどうかはともかく、リョサのある意味分身だろうという後書の説には納得。元々作者は自伝的要素をベースにリアリズムあふれる作品を書くタイプ。初期はばりばりのシリアスだったのに、この頃は「パンタレオン大尉と女たち」なんかも書いていて、スラップスティックコメディがお得意だった時期。実際面白い。何が面白いって、シナリオの方。

本作は「マリオ(自分)とフリアおばさんの恋愛物語」「ペドロ・カマーチョの書いたラジオドラマのスクリプト」が概ね交互に来るという構成になっている。全部で20章なのだが、9章はスクリプトにあてられている。壮大なメロドラマで、読む者をわくわくさせておきながら、常に「こうご期待」で終わるそのシナリオはどうなるのか?

ちなみに、映画の方ではそのいくつかだけをピックアップし、最後にちゃんと落ちをつけている。また、映画ではアルゼンチン人がアルバニア人になっている。映画の鑑賞人口を考えると当然の配慮か。

マリオの「同国人の人と結婚したいと思っているのだが…」の返事にカマーチョが実はボリビア人ではないことが伺われる。オチはちょっと悲しいな。

2001年3月20日

集英社ギャラリー世界の文学 19 ラテンアメリカ

■著者:ボルヘスほか著,篠田一士ほか訳
■書誌事項:集英社 1990.2


伝奇集 エル・アレフ 砂の本/ボルヘス著,篠田一士訳
大統領閣下/アストゥリアス著,内田吉彦訳
ブルジョア社会/ホセ・ドノソ著,木村栄一訳
赤い唇/マヌエル・プイグ著,野谷文昭訳
族長の秋/ガルシア=マルケス著,鼓直訳
ある虐殺の真相/マリオ・バルガス=リョサ著,桑名一博訳
太鼓に踊る/ウスラル=ピエトリ著,荻内勝之訳
イレーネの自伝/シルビーナ・オカンポ著,安藤哲行訳
樹/M・L・ボンバル著,土岐恒二訳
裏切り者との出会い/A・ロア=バストス著,吉田秀太郎訳
ルビーナ/フアン・ルルフォ著,桑名一博訳
モーツァルトを聴く/マリオ・ベネデッティ著,内田吉彦訳
痩せるための規定食/ホルヘ・エドワーズ著,高見英一訳
時間/A・O・アタナシウ著,野谷文昭訳
パラカスでジミーと/A・ブライス=エチェニケ著,野谷文昭訳
顕現祭の夜/ホセ・レブエルタス著,木村栄一訳
魔術師顛末記 ゴドフレードの三つの名前/ムリロ・ルビアン著,武井ナヲエ訳
解説・年譜・著,作年譜:p1227〜129
ラテンアメリカ文学史年表:p1335〜1338