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2005年3月21日

ルートヴィヒ〔完全復元版〕

ルートヴィヒ■原題:Ludwig
■制作年・国:1972年 イタリア/西ドイツ/フランス 240分
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:ウーゴ・サンタルチーア
■脚本:ルキノ・ヴィスコンティ/エンリコ・メディオーリ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ
■撮影:アルマンド・ナンヌッツィ
■音楽:フランコ・マンニーノ
■衣装:ヒエロ・トージ
■助監督:アルビーノ・コッコ
■出演:ヘルムート・バーガー(ルートヴィヒ2世)/ロミー・シュナイダー(エリザベート皇后)/トレヴァー・ハワード(ワーグナー)/シルヴァーナ・マンガーノ(コジマ)/ゲルト・フレーベ(ホフマン神父)/ヘルムート・グリーム(デュルクハイム)/イザベラ・テレジンスカ(マリア皇太后)/ウンベルト・オルシーニ(ホルンシュタイン伯爵)/ジョン・モルダー・ブラウン(オットー)/フォルカー・ボーネット(カインツ)/ハインツ・モーク(グッデン教授)/アドリアーナ・アスティ(リラ・フォン・ブリオスキー)/ソニア・ペトローヴァ(ゾフィー)/マルク・ボレル(ホルニヒ)/ノラ・リッチ(イーダ・フェレンツィ伯爵夫人)/マーク・バーンズ(ハンス・フォン・ビューロー)


■内容
バイエルンの王ルートヴィヒ2世は父マクシミリアン2世急死のため19歳で即位した。彼は国に偉大な芸術家を招いて豊かな王国にすることを夢見る。早速作曲家のワーグナーを招いて、豪華な家を贈ったり、上演したり、劇場を作ったり、とふんだんに金をつぎ込む。そういった彼の行動は政府から非難され、やむを得ずワーグナーをミュンヘンから退去させることに同意する。
ルートヴィヒが愛しているのはオーストリア皇后エリーザベト。だがその思いは当然かなわない。彼女も弟のようにルートヴィヒを心配している。国民のために彼女の妹ゾフィーと婚約するが、結局婚約破棄することになってしまう。それが不幸の始まりだったのだが...

■感想
契約のため3時間にカットされて公開された「ルーヴィヒ―神々の黄昏」に対し、後年スタッフがほぼヴィスコンティの予定通りの編集をほどこした4時間版を「ルーヴィヒ 完全復元版」と呼ぶ。なんだか書籍によっては「ルードウィッヒ」とかもあるので、要注意。

この映画はバイエルン王ルードヴィヒ二世が1864年18歳で即位し、1886年40歳で謎の死を遂げるまでの生涯を描いている。ヴィスコンティのドイツ3部作の最後の作品であり、最も規模の大きな作品となった。極寒のオーストリアやドイツでのロケを敢行、あまりのハードさに撮影終了後、編集中にヴィスコンティは心臓発作で倒れてしまった。基本的に、男どうしが豪華だけど暗い部屋の中、暗い顔で話し込んでいるシーンが多い、暗い映画である、と断言する。しかし、ロケシーンとお城のシーンは本当に美しい。部屋の中も豪華なんだけど、暗いから、見えづらいときがある。

この「狂王」と呼ばれるルートヴィヒ二世については、ドイツに惹かれたことのある者なら誰でも一度は触れたことがあるだろう。リンダーホフ城、ノイシュバンシュタイン城、ヘレンキームゼー城を築いた人物で、ワーグナーのパトロンとなって「トリスタンとイゾルデ」を上演させた王様である。伝記的要素としては、まずは簡単な家系図を頭に入れておきたい(参考サイト)。ルートヴィヒには弟のオットーがいて、後に摂政となるルイトポルトは父の弟、すなわち叔父に当たる。問題のエリーザベト・ゾフィー姉妹は正確には従姉妹ではなく、ルートヴィヒの父親が彼女らの従兄弟になる。

歴史的要素としては1866年に普墺(プロイセン=オーストリア)戦争ではオーストリア側について参戦し敗北。普仏(プロイセン=フランス)戦争においてはプロイセン側で戦争に参加し、こちらは大ドイツ統一の一助となる動きをしている。この王様はドイツ統一、近代国家への歩みの中では衰退せざるを得なかったヴィッテルバッハ王家の末裔という位置づけで私は講義を受けた記憶がある。

豪華絢爛、素晴らしいしい様式美。だが私の一番好きなシーンはエリザベートとの雪の夜を馬で行くシーン。次に好きなのは薔薇の島へ湖水をすべるように、エリザベートが到着するシーン。両方ともとても寒いのだが、穏やかな美しさに満ちている。やっぱり私はエリザベートが好きなんだなぁ。夜のシーンが多いので、暗いのだけど、この「夜」というのが映画のキーなので、当然だ。

役者たちもまたヴィスコンティ映画総決算のように過去に手に入れて来た俳優を上手に配置し、彼らも素晴らしい演技を見せている。「地獄に堕ちた勇者ども」で妖しい魅力が爆発したヘルムート・バーガー。この後「家族の肖像」にも出るが、実際この俳優はこの3本で終わりだ。若く凛々しい王様が暴飲暴食がたたり醜くなっていく有様は圧巻。特にラストの方、狂気なのか正気なのかわからないという王を演じさせると、さすがにぴったり。この王様の写真は残っていて、若い頃美しかったのが見る影もなく太っていく姿は「狂王ルートヴィヒ」(ジャン デ・カール著 中公文庫)の口絵に載っている。若い頃美しかった、ということではないが、何故かふと最近のディエゴ・マラドーナに思いが及ぶ。

シシーことエリザベート皇后はロミー・シュナイダー。子役と言ってもよい年代に「プリンセス・シシー」を演じて人気を博し、それが元で女優として一皮むけなかった時代、舞台で叩いて素晴らしい女優に育てたのはヴィスコンティ自身。34歳のロミー・シュナイダーはもはや風格漂う女優になっていて、気品と知性にあふれ、快活で、絶世の美女と言われるエリザベートを見事に演じた。彼女が登場するシーンだけが、この美しいけれど陰鬱な作品の中でほっとできるひとときである。

「地獄に堕ちた勇者ども」でマルティン(ヘルムート・バーガー)をナチの道に引きずり込む悪の手先、SSのアッシェンバッハ(ヘルムート・グリム)が、「ルートヴィヒ」では王のために最後まで誠実で忠誠を尽くすデュルクハイム大佐となって登場するのは、なかなか皮肉な組み合わせである。すごく腹黒い悪い奴とすごい誠実な人物と、両方演じられるのはさすがに役者だなぁ。軍服の似合う俳優である。

初めてこの映画を見たとき、ワーグナー役の役者があまりに本人の肖像がと似ているので、ちょっと驚いたほどだ。シルヴァーナ・マンガーノは私の中のコジマ像よりは、少し艶っぽいというか、控えめな感じ。「ベニスに死す」とはまるで違うのだけれど、やはりコジマはもう少しきついイメージがある。ワーグナーとコジマと娘たちのクリスマスの場面も、この映画の中では数少ない暖かみのあるシーンである。

ルートヴィヒの弟オットーを演じたアイドル顔で甘いマスクの俳優であるため、狂気に陥ったときのシーンに痛ましさが増大して見える。特に皇太后のカソリック洗礼式のときの演技は素晴らしい。ルートヴィヒの将来を予言するようだが、実際にこの親王は40年間も幽閉されたままだった。兄よりも一層悲劇的な人生だった。

即位後ルートヴィヒは幼い頃から一緒に遊んだエリーザベトに再会し、彼女を愛していることを再確認する。が、8歳も年上で皇后ですでに子供も3人も生んでいるため、当然かなわない。王族というものの義務を語るエリーザベトの言葉を拒否しながら国のために受け入れ、一度は婚約するも、同性愛的な傾向に気付いて破棄。その後は政治にも戦争にも背を向け、ひたすら自分のロマンを追い求め、首都を離れて城に閉じこもる。家来たちと鬼ごっこに興じるシーンがあるが、饗宴という趣はなくむしろ寂寥感が漂っている。ヴィスコンティの同性愛シーンは、当時だからなのだろうか、それともそれがヴィスコンティらしさなのか、非常に控えめである。

最後に幽閉されるベルク城のシーンで、太鼓をもった子供の絵がアップになる。これは子供の頃のルートヴィヒを描いた有名な絵だ。本当にこの部屋にかかっていたのかどうかは私は知らないが、この絵を見る度にギュンター・グラスの「ブリキの太鼓」を連想してしまう。長いラストシーン、夜、湖の側で松明が炊かれ、王と医者を捜すシーンは緊迫感あふれ、うまい演出と編集だと、つくづく恐れ入る。

自らの夢の実現のため、ワーグナーを支援したとき、国民はワーグナーを批判したが、ルートヴィヒのことはさほど糾弾していない。城の建設で国庫を圧迫し、財政難に陥らせたが、国民には依然人気があるのだ。だからこそ政府は簡単に退位させることができず、精神鑑定を慎重に行うのだ。戦争に背を向け、前線に出ない王様など軍隊は嫌って当然なのに、何故か軍の中にも支持者は多い。

この王様は不思議な魅力にあふれている。本人の言葉通り「謎のまま」である。ドイツ人の気質の中に孤独を好むロマンチストが潜んでいて、ルートヴィヒはまさにその象徴だからかと想像してしまう。政治家としては駄目な王様だが、象徴としては悪くはなかったのだろう。

彼の作った様式はメチャクチャな組み合わせで作られた三つのお城が現在もバイエルン地方の観光の目玉となっているのである。ノイシュバンシュタイン城は言わずとしれた白鳥城。リンダーホフ城は館といってもいいような大きさだが、白鳥のボートをうかべた鍾乳洞風の人口洞窟がある。ヘレンキームゼー城ではシシーがヴェルサイユ宮殿鏡の間を模した部屋で哄笑した。マキシミリアン2世が作ったシュバンガウ城はノイシュバンシュタインのすぐ下にあり、ルートヴィヒは幼少をここで過ごしたことがある。まるっきり「ドイツ・ロマンチック街道」である。今となってみれば財政源になっているところが皮肉だな。。

2005年3月17日

ベニスに死す

ベニスに死す■原題:Marte a Venezia(英:Death in Venice)
■制作年・国:1971年 イタリア/フランス 130分
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:ルキノ・ヴィスコンティ
■原作:トーマス・マン(「ベニスに死す」)
■脚本:ニコラ・バダルッコ/ルキノ・ヴィスコンティ
■撮影:パスクァリーノ・デ・サンティス
■助監督:アルビーノ・コッコ
■出演:ダーク・ボガード(グスタフ・フォン・アッシェンバッハ)/ビョルン・アンドレセン(タッジオ)/シルヴァーナ・マンガーノ(タッジオの母)/ロモロ・ヴァリ(ホテル・デ・バン支配人)/マーク・バーンズ(アルフレート)/ノラ・リッチ(家庭教師)/マリサ・ベレンソン(アッシェンバッハ夫人)/キャロル・アンドレ(エスメラルダ)/フランコ・ファブリッツィ(理髪師)/セルジオ・ガラファノーロ(ヤシュウ)


■内容
ミュンヘンに住む高名な作曲家で指揮者のグスタフ・フォン・アッシェンバッハは心臓を病んだために仕事を中断することを余儀なくされ、ベニスに休養に来た。ホテル・デ・バンに滞在することにしたが、そこでポーランド人の一家に出会う。その中に巻き毛で金髪碧眼の14歳の美しい少年、タッジオがいた。アッシェンバッハはその美しさに魅了される。長年勤勉に芸術を作り上げて来たアッシェンバッハも迫り来る老いにおびえ、音楽家としてのモチベーションは低下し、創作活動のスランプに陥っている。何も手を加えていない、究極の美しさをもってタッジオはアッシェンバッハの前に立ちはだかる。
タッジオに魅かれる自分を恥じ、シロッコ(アフリカ大陸からの熱風)に悩まされたアッシェンバッハは一度はベニスを後にすることを決意するが、ホテル側がおこした荷物の手配のミスによって嬉々としてホテルに戻る。
しかし、ベニスはコレラが蔓延し始めていた。そのことに気づいたアッシェンバッハはタッジオ一家にベニスを去るよう勧めようと思うが、どうしても出来ない。どうにも出来ないままアッシェンバッハはタッジオを目で追い続けるのだが…。

■感想
高校生のときにまず原作を先に読み、読後すぐに映画を見た。どんなタッジオなんだろう。少しでも期待はずれだったら猛烈に腹が立ったに違いない。ところが、ビヨルン・アンドレセンは完璧だった。想像を遙かに超えて素晴らしい芸術作品だった。この映画だけでルキノ・ヴィスコンティという映画監督の力量がわかった気がした。私がヴィスコンティ作品を初めて見たのはもちろん「ベニスに死す」だった。


この少年のすばらしい美しさにアシェンバハは唖然とした。青白く優雅に静かな面持は、蜂蜜色の髪の毛にとりかこまれ、鼻筋はすんなりとして口元は愛らしく、やさしい神々しい真面目さがあって、ギリシア芸術最盛期の彫刻作品を想わせたし、しかも形式の完璧にもかかわらず、そこには強い個性的な魅力もあって、アシェンバハは自然の世界にも芸術の世界にもこれほどまでに巧みな作品をまだ見たことはないと想ったほどである。(高橋義孝訳「ベニスに死す」)

今でこそヴィスコンティの代表作のように言われるが、今更ながらよくこんな小説を映画化できたものだとつくづく思う。ストーリーらしいストーリーはなく、芸術家の内面の葛藤とひたすらプラトニックな愛情を描いている。原作の小説家を映画で音楽家に替えて主人公の職業を視覚的にし、アルフレートという友人を回想シーンで出すことにより、主人公が自らの信念(=芸術とはたゆまず作り上げるものだ)に反する究極の美の創造物(=タッジオ)と直面していることによる内面の危機を表現している。更にタッジオとかつて出会った娼婦(これは原作にない)を結びつけることにより、わかりやすくアッシェンバッハがついに官能の世界にまで陥ったことを表わしている。こういった映画上の技法でわかりやすくしているため、決して難しい映画にはなってはいない。そしてベニスという街の頽廃的で豪華で、迷宮的な雰囲気を味わうことが出来るだけで、充分に楽しめる映画に仕上がっている。


今回は原作を完全に頭から完全に外し、映画を初めて見るような気持ちで臨んだ。すると、最初の化粧をした老人の出現は後でアッシェンバッハが自ら老いをかくすためにした化粧の前触れとして理解できるが、その時はよくわからない。その次に出てくる無許可のゴンドラ船頭も何の意味があるのだろう?と思えてしまう。だが、その次に出てくる饒舌なホテルの支配人と合わせて、なんだかみんな不気味で、地獄への案内人のように感じられた。ヴィスコンティの狙い通りなんだろう。

タッジオ登場のシーンで息をのみ、そしてタッジオの母の登場する。彼の美しさの裏付けというような彼女の存在によって、タッジオが更に輝きを増す。その後はひたすらアッシェンバッハ(見る者)とタッジオ(見られる者)の攻防である。タッジオは時にはアッシェンバッハの視線に気付き、挑戦的だったり、少し蠱惑的だったりするまなざしを返すことがあるが、基本的には一方的に見られる者である。アッシェンバッハの胸の高鳴りが伝わって来て、タッジオに視線が気付かれるのではないかと思い、緊張してしまうほどだ。

今回、記憶にあるタッジオより遙かにごくごく普通の少年として描かれていることに少し驚きを覚えた。他の子供たちと海で遊ぶ姿や姉妹たちと異なり、唯一の男の子だから甘やかされているのだろう、無邪気さいっぱいで家庭教師を困らせていたりする姿を見せている。ただ、アッシェンバッハが追っているときは、台詞はなく、少し目を上げ下げする程度の控えめな演技しかさせられていない。どうもこちらの方の印象ばかりが残っていたようだ。

トーマス・マンの原作にもあるが、面白いことに「ベニスに死す」のエピソードの多数が実際にマンが出会った出来事だそうだ。化粧をした若作りの不気味な老人、行き先通りに行こうとしないゴンドラ、何よりタッジオ自身と出会っている。ポーランドの貴族でウラディスラフ・モエス伯爵といい、子供の頃は「ウラジオ」と呼ばれており、彼は実際にその年(1911年)にベニスに家族で行っている。かなり後年になってから作品を読み、自分と自分の家族だと気づいてマンの娘エリカに手紙を送って来たという。ヤシュウという少年も実在していて、ヤン・フラコフスキーという名で、二人でいつも自分たちを見ているマンの存在を覚えていたそうだ。ただ、マンにはちゃんと奥方が一緒にいたところが違うし、当時彼はまだ36歳だった。

アッシェンバッハを原作で自らと同じ職業の作家にしたマンだが、この作品を書く直前にグスタフ・マーラーと出逢い、そしてその訃報に接したマンが、モデルとしてマーラーを念頭においていた。映画化にあたり、前述した視覚的な目的のためもあり、ヴィスコンティはアッシェンバッハをマーラーをモデルとした音楽家に変更した。そこで映画の中でもマーラーの音楽が使われ、公開直後、世界のあちらこちらでマーラー・ブームが起こったそうだ。繰り返し使われる交響曲第五番第四楽章があまりにもぴったりなので、まるでこの映画のために作られたサントラのようだ。

タッジオ一家を追いかけるアッシェンバッハがベニスの街をさまよい歩く。コレラにおそわれた街には張り紙が貼られ、消毒液がまかれている。次に街中を行くと、あちらこちらで消毒のためか火が炊かれ、炭の固まりが見える。この映像からは消毒液や腐敗したような臭いがこちらにまで伝わって来そうだ。

アッシェンバッハが床屋に言われるがままに白粉をつけ、髭や髪に白髪染めを入れ、唇に紅をさす。老いを隠すためだったが、まるで死装束のように見える。タッジオを見失い、自らを見失い、街の水飲み場で哄笑して崩れ落ちるアッシェンバッハの顔に、白髪染めの黒い筋がたれている。グロテスクで醜悪で、恐ろしい場面だ。ところが、ラストのアッシェンバッハの死の場面でもこの白髪染めの黒い筋は現れるが、このラストシーンは非常に美しい。それはおそらく、みんなが立ち去り閑散とした海辺でロシア人の夫人がムソルグスキーの子守歌を歌っているところから始まるからだろう。最初は初めて出てくる人が歌なんか歌ってるから「?」という感じだったが、次第に聞き惚れてしまう。タッジオとヤシュウの喧嘩の後、海を背にしたタッジオが腰を手におき、一種のポーズをとる。

突然、ふと何事かを思い出したかのように、ふとある衝動を感じたかのように、一方の手を腰に当てて、美しいからだの線をなよやかに崩し、肩越しに岸辺を振り返った。(高橋義孝訳「ベニスに死す」)

おそらくは最後にアッシェンバッハが目にした光景である。私の眼の裏にも、いつまでも残る、美しすぎるワンカットである。

DVD-BOX III 「郵便配達は二度ベルは鳴らす」に特典としてもう一枚DVDがついてくる。それが「タッジオを探して」という約20分のドキュメンタリーである。映画化するにあたり、最初にヴィスコンティが力を注いだのがタッジオ探しだった。これが成功するか否かで映画の成否に大きくかかわるからだ。チェコ、スウェーデン、デンマーク、ポーランドなど金髪碧眼の子が多そうな国を回っている。初めてビョルン・アンドレセンを見たヴィスコンティは背が大きいことに驚いていた。私もそうだった。イメージより背が大きく、華奢な感じがそれによってより強く感じられる。ビョルン・アンドレセンはこの映画以外には出演していないようだ。それはとてもありがたいことだ。老いた姿など、それこそ見たくはない。

2005年3月12日

地獄に堕ちた勇者ども

地獄に堕ちた勇者ども■原題:La Caduta Deghi Dei(英:The Damned)
■制作年・国:1969年 イタリア/西ドイツ/スイス 155分
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:アルフレッド・レヴィ
■脚本:ニコラ・バダルッコ/エンリコ・メディオーリ/ルキノ・ヴィスコンティ 
■撮影:アルマンド・ナンヌッツィ
■音楽:モーリス・ジャール
■助監督:リナルド・リッチ
■出演:ダーク・ボガード(フリードリッヒ)/イングリッド・チューリン(ゾフィー)/ヘルムート・バーガー(マルティン)/ウンベルト・オルシーニ(ヘルベルト)/シャーロット・ランプリング(エリザベート)/ルネ・コルデホフ(コンスタンチン)/ヘルムート・グリーム(アッシェンバッハ)/ルノー・ヴェルレー(ギュンター)/フロリンダ・ボルカン(オルガ)


■内容
「国会議事堂炎上の夜」1933年2月27日、ルール地方の鉄鋼王エッセンベック男爵の邸に男爵の誕生祝いのため、一族が集まってくる。甥のコンスタンチンとその息子ギュンター、姪の娘エリザベートとその夫ヘルベルト、男爵の息子の未亡人ゾフィーと孫のマルティン。重役のフリードリヒと男爵のいとこになるアッシェンバッハ。子供たちによる出し物の最中、「国会議事堂が炎上している」との報が入る。次に食事の際、自由主義者ヘルベルトを廃し、突撃隊員であるコンスタンチンを副社長にすると発表する。ところが、男爵はフリードリヒに殺され、ゲシュタポがタイミングよく現れ、ヘルベルトを逮捕しようとする。ヘルベルトは殺人の罪を着せられ逃げる。コンスタンチンはこれで自分が社長だと思うが、筆頭株主となった男爵の唯一の直系であるマルティンを抱き込んだフリードリヒが社長の座につく。この陰謀劇は第一幕に過ぎなかった。この後ヘルベルトの逆襲が始まるが…。

■感想
ドイツ三部作の第一作目。原題はイタリア語で「神々の黄昏」。「ルードヴィッヒ」に日本でつけられていたサブタイトルである。英語では"damn"されたものだから「地獄に堕ちた者」になる。これの邦訳を使ったようである。気になるのが、どうして主な主人公たちが英語で話しているのか、という点である。アメリカ市場を念頭においているという理由はあったのだろうけが、「山猫」のときのようにアメリカ資本が入っているわけではない。製作国はイタリア/西独/スイスで、イタリアの政府が作った映画製作及び配給会社イタルノレッジョ社がメインのようだ。ここの財政状況があまりよくなくて支払いが滞ったため、ロケ中にホテルに金を払うまで返さない、と部屋に閉じこめられたこともあったようだ。様々な国の俳優が入っているが故に英語でしか統一できなかったのか。いずれにせよ、群衆部分というか「長いナイフの夜」のシーンはほとんどドイツ語なのだから、出来れば全編ドイツ語でお願いしたかった。ドイツでナチ映画が作りづらいため、英語のナチ映画は多いのだが、全然雰囲気が出ない。ナチはドイツ語じゃないと様にならないのだ。

中学生の時に家で「第三帝国の興亡」(ウィリアム・シャイラー著、東京創元社刊、1961年)という5巻本を見つけて少し読んでみた。さすがによくわからないところも多かったので、大学生のときにもう一度読み直した。後から知ったが、この「第三帝国の興亡」はベストセラーだったそうで、この映画を作るときにもバイブルのように扱っていたそうだ。私にとっては“ナチズム”はこの「第三帝国の興亡」とブレヒトがベースである。

スペクタクルで暴力とエロティシズムに満ちた豪華な娯楽大作だと思う。「若い人にナチズムを知って欲しかった」という投獄体験もある筋金入りの反ファシスト、ヴィスコンティの願いは通じたのだろうか。黒い制服のSS(ナチ親衛隊)は茶色い制服のSA(突撃隊)との対比でいっそう不気味だが、見る人が見ればカッコいいと思ってしまうのではないだろうか。軍人もやったことのあるヴィスコンティはそもそも制服フェチだからな…

映画は背徳に次ぐ背徳。陰謀に次ぐ陰謀である。適当に名前をつけて分割すると、「国会議事堂炎上の夜」「若き男爵の密やかな楽しみ」「長いナイフの夜」「母親殺し」のだいたい四幕となるが、最初と最後がずっと屋敷の中なので、閉塞感がある。2幕目と3幕目はロケだが、室内の場面が多い。まずは「国会議事堂の夜」でフリードリヒが勝つ。この陰謀の後、逆襲に出ようとするヘルベルトだが、逆に第三幕「長いナイフの夜」で虐殺される。第四幕はフリードリヒの凋落で終わる。すべてを裏で仕切っているのがアッシェンバッハで、最後は家の中はナチ一色になっている。本来の当主が継いだのだが、マルティンはアッシェンバッハのいいなりなので、一家は実質的に壊滅したことになる。

映画の一番の見どころは「長いナイフの夜」のシーンである。「レーム事件」は1934年6月30日早朝に起きた。歴史的事項を説明すると長くなるが、簡単に言うと、この頃ヒトラーは国内を掌握した後で、海外との戦争のため正規軍が必要となってくる。これに対して邪魔なのが、ヒトラーを権力の座につかせた突撃隊(SA)である。で、粛正される憂き目にあうのだが、この準備のためヒトラーはSAの幹部に1ヶ月の休暇を与えた。彼らは南ドイツ、バイエルン地方のテーゲルン湖Tegernseeの湖畔にある温泉地“Bad Wiessee(バート・ヴィースゼー)”の複数のホテルに分宿した。ここで休暇を楽しんでいたところをヒトラー自らSSを指揮して急襲して虐殺。レームは自決を拒んだため逮捕され、収容所で殺されたという事件。ヴィスコンティはこのらんちき騒ぎを克明に描く。男ばかりのところにご婦人が少ないと言って女装を始めたのがきっかけだという。それにしてもSAは幕僚長(レーム)がゲイだからって、みんなゲイにしなくてもいいのに、思いっきりみーんなゲイなんである。親父どもが酔っぱらって部屋に帰ると、若い美青年が裸で待っているのだ。これが「地獄に墜ちた勇者ども」のイメージにがっちりはまってしまっており、これがデカダンじゃなくてなんだというのだろう。

この映画の主役はダーク・ボガートである。オランダ系の英国人であるボガートをヴィスコンティ自身が指名したようで、次作の主役もボガートである。ヴィスコンティは彼を非常に気に入ったのだが、私にはどうにもよくわからない。最初から最後までアッシェンバッハに操られるとても情けない役で、この役に合っているとは思う。が、彼はゲルマンらしさがなさ過ぎる。これは次の作品でもそう思った。イングリット・チューリンはベルイマンで見たときはちゃんとスウェーデン人なのに、ここではどこからどう見てもゲルマン女。ヘルムート・バーガーはオーストラリア人だし、グリームはもちろんドイツ人。シャーロット・ランプリングは英国人っぽいところがあるが、フランス人だと言われればそんな気にもさせられる国際派女優なので良いとして。ダーク・ボガートはどう見ても「アングロ・サクソン」なので、この中で一番違和感がある。あまり存在感もなく、「長いナイフの夜」の最後で別に出てこなくてもいいのではないかと思うくらいどうでもい存在になってしまう。

そもそも主役よりヘルムート・バーガーの方が出番が多い。マルティンはロリでマザーファッカーで、もうどうしようもない変態で、彼を使っての陰謀が右に左にと展開するというピエロ的な役割の筈だが、存在感が圧倒的なので、本当の主演はこっちじゃないかと思わせてしまう。マルティンの登場シーンは女装姿である。それが「嘆きの天使」のローラなんである。好きな映画だったから、このシーンにはげっそりしてしまう。マレーネの足は本当に美しいというのに…。まだ若く、かけだしの役者だったバーガーはこの役で大抜擢される。この後うまい役者にはならないが、ゲイっぽい歩き方なんかは非常に上手で、なんだか妖しい雰囲気を醸し出している。この妖しい雰囲気はヴィスコンティが作り上げたのだろうか、それともバーガーを得たからマルティンはこんなに出ずっぱりになってしまったのだろうか。

このヘルムート・バーガーの存在感に匹敵するのがイングリット・チューリンで、母子の戦いは壮絶を極める。私が気になるのは、エリザベート対ゾフィーのシーンである。「あなたのドイツは再び戻ってこない」「出て行ってもこの流れはヨーロッパ中に及んでいく」という言葉は、その通りなんだが、エリザベートのドイツとは、ワイマール共和国初期のドイツなんだろうか?何故ゾフィーは過去のドイツを憎んでいるのだろうか。最初にフリードリヒが言うように、彼女もそれなりの家の出なんだろうに。「私を見ていると不愉快だろう」とエリザベートも言うのだが、ゾフィーは何がそんなに不愉快だったのか。

ゾフィーは鉄鋼王の長男に嫁ぎ男爵夫人となったが、第一次世界大戦で夫を亡くして英雄の未亡人となった。直系の孫の母親として一族の中ではそれなりにていねいに扱われているが、実権は老男爵が握っている。本来なら社長夫人として一族を仕切っていたであろうに。この欲求不満が爆発して重役のフリードリヒと懇ろになり、ナチのアッシェンバッハにすりよることになったのだろうか。

息子との関係はどうだったのだろう。「Martin tot Mutter」なんて書かれるのだから、小さいときから愛情をそそいではいなかったのだろう。弱みを握って自分の権力掌握のための道具としてしか使っていない。いいように使えるなんて、息子にすることではない。結局この母親は息子を支配することしか考えていない。彼女は元々非常に強い支配欲、権力欲に毒された人物で、まさに化け物だと思えば良い、ということか。そう思えば息子の異常さも理解できる。ヴィスコンティ自身が言うように、引用したのはニーチェやワグナーよりフロイトである。

ラストシーン、ゾフィーの化粧はどう見ても死装束である。このシーンを見て思い出したのは、ヒトラーとエヴァ・ブラウンの結婚式だ。当然意識しているんだろう。ヒトラーは結婚式をあげてから自決する。

ヴィスコンティの描くナチの制服を見て触発されたのか、この4年後には「愛の嵐」が製作された。あれもダーク・ボガートなんである(だからゲルマンっぽさがないってばよ)。シャーロット・ランブリングは「地獄に堕ちた…」ではちょい役だったが、「愛の嵐」ではすさまじい。ヘルムート・バーガーの制服姿とシャーロット・ランプリングの制服姿。どちらも妖しすぎだ。