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2014年11月 5日

疎外と反逆―ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話

疎外と反逆―ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話本書の主役はガルシア=マルケスなのか、バルガス=リョサなのか。その両方にとってありがたい対談、評論、インタビューとなっている。最初は標題通り、ガルシア=マルケスとバルガス=リョサの対談、次がバルガス=リョサが書いたガルシア=マルケスに関する評論、最後がバルガス=リョサへのインタビューという三部構成になっている。

対談は謹厳実直なリョサが若干おちゃらけたようなガボに切り込んでいくような感じで、今ひとつかみ合ってないところが楽しい。もちろん、ガボも真面目に答えるときもあるのだが、リョサがキリキリすればするほど、ホラ話っぽいかわしが入り、なんだかクスリ、とさせられてしまうのだ。

ボルヘスに対する二人の見解が実によく一致している。ガボがボルヘスのことを書き方を学ぶには高く評価しているが、あれは「逃避の文学」であるとし、リョサも具体的現実に題材を求めていないと断じている。興味深いのはここでリョサが過去に語ったことをガボが繰り返させている箇所だ。曰く、経済的豊かさや内的平和に支えられた社会より、ラテンアメリカのような転換と変化の時期にさしかかり、どこへ向かっているかすらわからない社会の方が魅力的な文学的題材にあふれていて、作家達の想像力を刺激する、と。ガボの言う「あらゆる文学は具体的現実に根ざしたもの」と一致しているところが多い。ガボがボルヘスを称賛しているけれど、大嫌いだというところ。「ラテンアメリカの非現実とは、いわゆる現実なるものと区別がつかないほどリアルで日常的なもの」だというあたりを読んで納得するところが多かった。私自身、ボルヘスを嫌いではないものの決して好きとは言えず、読む気持ちになかなかなれないのは、私の求めているラテンアメリカの文学ではないからなのだと、あらためて確認出来たように思う。幻想文学ファンだったら違うのだろうけれど。

二番目の「アラカタカからマコンドへ」は「神殺しの物語」に先立つ、バルガス=リョサが書いたガルシア=マルケスに関する評論。「神殺しの物語」は例の1976年メキシコでのパンチ事件(この事件に名前はないのかなぁ?調べたが見あたらず...)のせいで復刊されず手に入らないらしい。だから「神殺しの物語」に先立つこの論文は貴重(集英社「世界の文学 38 現代評論集」に鼓直訳が収録されている)。

最後はバルガス=リョサのインタビュー。これを読む限り、この本の主役はバルガス=リョサのような気がしてくる。インタビュアーのエレナ・ポニアトウスカは1968年のメキシコでおきた事件のルポルタージュ「トラテロルコの夜」という著作があるメキシコのジャーナリスト。おもしろいのは、最初の対談ではガボが作家が特定の政治思想に与し、政治的役割を果たすことを肯定しているのに対し、リョサの方は最後の因手ビューで作家が特定の政治思想に与することを否定しているところだ。「最初から文学を道具として何かの役に立てようとすると、作家の内なる政治家が文学をダメにしてしまう」と語る。後に、個人の趣味嗜好としての政治家の好みと政治思想との矛盾を超えらず、あからさまな政治音痴ぶりを露呈するガボと、政治力の差により破れたとは言え、大統領選にうって出て広範囲な支持を得たリョサの違いを考えると、この時点での意見の相違は非常に興味深い。

ところで、また「ジョサ」に戻った。もう気にしないようにしてるけど、毎回言う。書誌DBを作っていたから、こういう泣き別れは本当に迷惑。商業的に考えてもメリットも少ないだろうなと思うのだが、どうせ売れないのだから一緒、というように見えて、それはそれで寂しいものだ。

■目次
ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサの対話
アラカタカからマコンドへ
M・バルガス・ジョサへのインタビュー
訳者あとがき

■書誌事項:寺尾隆吉訳 水声社 2014.3.30 172p ISBN978-4-80100023-0

2014年9月 9日

ぼくはスピーチをするために来たのではありません/ガブリエル・ガルシア=マルケス

ぼくはスピーチをするために来たのではありません/ガブリエル・ガルシア=マルケスバルガス=リョサの講演を生で聴いたことがある。うまいのはもちろんのこと、この人はきっと人前で話すのが好きなんだろうなと感じた。そうでなければ、政治家になろうなんて思わないだろう。ガルシア=マルケスはスピーチが苦手だったそうで、生涯でスピーチを行ったのは22回だけ。高校時代の「卒業生を送るスピーチ」まで収録しているのだから、本当なんだろう。

それぞれ演説の背景も添えられているので、ガルシア=マルケスにまつわるラテンアメリカのその時その時の社会状況などもわかるようになっている。

1982年のノーベル文学賞授賞式でのスピーチ「ラテンアメリカの孤独」は必読。ラテンアメリカの驚異的な現状とヨーロッパやアメリカから孤立している状況を訴える。ラテンアメリカの文学が受け入れられたのだから、ラテンアメリカの社会改革もあなたたちは受け入れるべきだと突きつけていて、心震える。


■原題:Yo no vengo a decir un discurso : Gabriel García Márquez
■書誌事項:新潮社 2014.4.25 208p ISBN978-4-10-509019-7

2014年7月 9日

謎ときガルシア=マルケス/木村榮一

謎ときガルシア=マルケス/木村榮一今年の4月にガルシア=マルケスが亡くなって、直後の5月に出た本だから、おお早いな、もう追悼特集か、と思ったら、そうではなく、もっとずっと以前から進められていた本だった。ガルシア=マルケス翻訳の第一人者の著書。でも新書っぽいざっくりした概要ではなく、ポイントポイントでその背景や人となりをしっかり書いている。

この本の分量でコロンブスによる新大陸発見以後のラテンアメリカの歴史から入っているとは驚いた。生育歴、ジャーナリストとしての活動、フォークナーやカフカからの影響、その他ガボにまつわるたくさんのエピソードは、私たちがこれまで聞かされたものだ。でも一番よくわからないカストロとの関係はさらりと触れたのみ。でも「この人どうしようもなく「権力」ってものに惹かれるんだよね...しょうがないね」という声が聞こえてくるようだ。

教科書的ではないので読み物としても楽しめるし、ガルシア=マルケス入門としてももちろん最適だと思う。

■書誌事項:新潮社 2014.5.25(新潮選書) 250p ISBN978-4-10-603747-4

2013年10月31日

グアバの香り―ガルシア=マルケスとの対話

グアバの香り―ガルシア=マルケスとの対話P.A.メンドーサというガルシア=マルケスの古くからの友人でジャーナリストとの対談。1982年に刊行されたもので、まだノーベル賞を受賞する直前。何故今頃翻訳されたのか、というよりは、何故今まで翻訳されなかったのか、という方が正しい。『すばる』1983年8月号に桑名一博訳で本書の部分訳が載っているのだが、それで終わりになっていたのを訳者がずっと気にしていて、今回翻訳してくれたようだ。ありがたいことです。

ガルシア=マルケスくらい日本で翻訳や関連本が出ている作家はラテンアメリカ文学では珍しい。ガボ以外だと、ボルヘスくらいなものか。翻訳書もそうだけど、ルポルタージュもあるし、自伝も出ている。この自伝がくせもので、本格的な作家活動に入る直前で終わっている。研究者は本書の原書にあたればいいかもしれないが、一般読者は作家活動を本格的に始めた頃のガルシア=マルケスの苦労をよくわかっていない。ジャーナリストとの二足のわらじをはきながら、家族を抱えてパリで困窮したりとか、いろいろ大変だったのはよく聴く話だが、本書の"解説"は詳細に年代を追ってくれるので、わかりやすい。

「百年の孤独」「族長の秋」など作品世界への理解はこの対談を読むと深まるだろう。対談中でスリリングなのは政治に関しての部分。ガルシア=マルケスのキューバ、というよりはカストロへの親近感はいろいろ理由はあるのだが、でもどう考えてもおかしい。だからここで彼の言う「カストロはカリブ海の人間だ」というのが、なんだかとても本音に近いような気がする。要するに、カストロの政治姿勢はともかく、人として魅力的だから好きなんだろう。マラドーナも同じようなことを言う。ガルシア=マルケスとマラドーナでは比較にならないかもしれないが、マラドーナの情の深さを思うに、ガボにも似たところが若干あるような気がした。


バルガス=リョサについてもちょっとだけ触れているが、例のこの事件が起きたのは1976年だから、もう仲違いしていたんだなと思う。この派手な喧嘩についてはこれまで様々な理由が伝えられているのだが、政治絡みとか、女性を取り合って、とかいう理由ではないように私は思う。女性絡みと言えばそうなんだけれど、奥さんが自分のことで相談に行った先がライバルの作家というのも気に入らないし、そいつが何か偉そうなアドバイスをしたのも気に入らない、というきわめて身勝手なマッチョ的な理由ではないかと。勝手な想像だが。

カルロス・フエンテスやファン・ルルフォらとの興隆や映画へ関わったいきさつあたりが、私には興味深く感じられた。この時代のことを詳しく語った本があるといいのだが。


著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス,P.A.メンドーサ〔聞き手〕,木村榮一〔訳〕
書誌事項:岩波書店 2013.9.27 222p 2,625円 ISBN978-4-00-022637-0
原題:El olor de la guayaba, 1982

目次
 一章  生い立ち
 二章  家族
 三章  仕事
 四章  自己形成
 五章  読書と影響
 六章  作品
 七章  待機
 八章  『百年の孤独』
 九章  『族長の秋』
 十章  現在
十一章 政治
十二章 女性
十三章 迷信,こだわり,嗜好
十四章 名声と著名人
解説......木村榮一

2011年5月19日

百年の孤独を歩く―ガルシア=マルケスとわたしの四半世紀

百年の孤独を歩く著者と知己を得た研究者が長年の交友から著者及びその家族から得られた証言を元に、作品の舞台となった地を訪ねるというガルシア=マルケスのたぐいまれな研究書ではあるが、一方で現在のコロンビアの旅行記という非常に珍しい面もあり、両方の意味で貴重な本だと思う。

ガルシア=マルケスの作品にて語られるエピソードが事実に基づくものであることはよく言われることだが、舞台となった場所をこれだけ丹念に訪れて確認した外国人はまずいないだろう。泥にまみれてたどり着いたマルケシータが眠ると伝えられる場所の話など、なかなか聞けるものではないと思う。本書はガルシア=マルケスの物語は私的な出来事、歴史的な出来事、伝承や地域の音楽などが渾然として形作られているのだということを細部に至るところまで教えてくれる。

南米大陸で今もっとも危険な国であるコロンビアの、観光地ではなく奥地にまで入り込むのはひどく難しく危険なことだろうと思っていたら、実際にそう書いてある。様々な支援者がいて実現できたことだそうだが、まずはご本人の強い意志があってのことだろうと思う。ガブリエル・ミストラルの研究論文を出した後、ガルシア=マルケス研究をいわばライフワークとして続けていらして、その集大成という形で刊行された本だと思うと、なかなか一気に読めなかった。何年にもわたる、何回にもわたるコロンビア渡航によってもたらされている果実は、日本語だけではもったいないと思ったら、あとがきによると、スペイン語版も出るようだ。

カタルヘナと言えば「コレラ時代の愛」はカタルヘナが見たいが故に観に行った映画だった。DVDを入手したまま放置しておいた「愛その他の悪霊について」もカタルヘナが舞台なのだから、早く見なくては。それにしてもアラン・モネ監督の「カタルヘナ」という映画の情報が入って来ない。作られているのだろうか?

■書誌事項
著者:田村さと子著
書誌事項:河出書房新社 2011.4.30 286p ISBN978-4-309-02035-8

■目次
序章 ガルシア=マルケスと知り合うまで
1 グアヒラ半島
2 アラカタカ
3 バランキージャ
4 マグダレーナ河
5 モハーナ地方
6 カルタヘナ

2011年3月 4日

ラテンアメリカ十大小説

ラテンアメリカ十大小説こんな良い本を読んでからラテンアメリカ文学に入っていける読者は幸運だ。新書は新しい知識を得ようとするときに必要なもの。その道のプロが何の知識もない人に、ていねいに概略を教えるものだ。知らない人にものを説明するほど、難しいものはない。その道の専門家が平易な文章で素人に向けて書く。とてもレベルの高い仕事だ。私も筒井康隆の新書(多分「本の森の狩人」)でラテンアメリカ文学を知った。新書は新しい読者獲得のための大切な仕事だ。

巻末に主要作品リストが添えられていた。白状すると、コルタサルが半分くらい、その前のボルヘス、カルペンティエル、アストゥリアスは壊滅状態なんである。でも、ガボ以後は全部読んでる。あ、違った。フェンテスの「聖域」と「脱皮」はまだだった。積読のまま忘れていた。

ボルヘスは短編ばかりなので、手を出さなかっただけのこと。基本、自分は長編が好みなので。カルペンティエルとアストゥリアスは長編だから当然手を出して、途中で挫折してしまいました。すみません...。私にはちょっと口調が堅すぎたかなというか難解だったかな...。コルタサルは短編は何とか読んだが、「石蹴り遊び」は第三部でやはり挫折...。

本書を読むと自分が「ブーム」の後からしか手をつけていないのがわかる。自分はリョサが一番好きで、多分次くらいにガボが来るのだろうけど、本当に親しみを感じているのはマヌエル・プイグ。プイグの何が良いって、繊細で優しいところ。腐女子を名乗れるほどにはBLに手を出していないが、女性がゲイを好むのはある意味では当然だ。男性原理から離れた世界を親しく感じるのは不思議ではない。そのわりに自分は女性作家をほとんど読まない。あまりべったりされるのもイヤなんだろう。だからトーベ・ヤンソンとかガードルード・スタインが好きなのかもしれない。今気がついた。

カルロス・フエンテス「我らが大地」だけ邦訳が出ていない。企画としてはあるらしいが、スペイン語がたいへん難しいのだそうな。フェンテスは透明感があるというか、おどろおどろしくないというか、ガボやリョサほどの暑苦しくはないけど、決して読みづらくはない。もう少し読んでみた方が良い気がしている。ところでフエンテスなのかフェンテスなのか、表記が結構別れてるなぁ。ジョサ/リョサほどではないけれど。ドノソも好きだ。どろどろ妄想系とブルジョア系の差が激しくていい。

イサベル・アジェンデが「十大小説」に入っているのが若干疑問だが、「精霊たちの家」だけは確かに面白かった。「エヴァ・ルーナ」も悪くなかったし「パウラ」は別の意味で興味深い。しかし、それ以後が厳しかった。児童文学に走ったのは正解でしょう。やはりポスト・ブームと言えばこの人になってしまうのかな?ボラーニョとか...新書に載るほどの一般性はないのだろうか?

■書誌事項
著者:木村榮一著
書誌事項:岩波書店 2011.2.18 192p ISBN978-4-00-431296-3(岩波新書)

■目次
序──物語と想像力
1 ホルヘ・ルイス・ボルヘス『エル・アレフ』──記憶の人、書物の人
2 アレホ・カルペンティエル『失われた足跡』──魔術的な時間
3 ミゲル・アンヘル・アストゥリアス『大統領閣下』──インディオの神話と独裁者
4 フリオ・コルタサル『石蹴り』──夢と無意識
5 ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』──物語の力
6 カルロス・フエンテス『我らが大地』──断絶した歴史の上に
7 マリオ・バルガス=リョサ『緑の家』──騎士道物語の継承者
8 ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』──妄想の闇
9 マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』──映画への夢
10 イサベル・アジェンデ『精霊たちの家』──ブームが過ぎた後に

★主な作品リスト
"邦訳のあるもののみ,原著の刊行年順に示す。複数回訳書が刊行きれている作品については、出来るだけ入手しやすいと思われる版を挙げた。"というリストが巻末にあったので参考のためデータ化しておく。出来るだけ入手しやすい版という点を一部修正。上下巻あるものは上巻にだけリンクを貼った。

■ホルヘ・ルイス・ボルヘス
「論議」牛島信明訳,国書刊行会,2000
「永遠の歴史」土岐恒二訳,ちくま学芸文庫,2001
「伝奇集」鼓直訳,岩波文庫,1993
「エル・アレフ」木村榮一訳,平凡社,2005
「続審問」中村健二訳,岩波文庫,2009
「創造者」鼓直訳,岩波文庫,2009
「砂の本」篠田ー士訳,集英社文庫,1995
「ボルヘス,オラル」木村榮一訳,水声社,1987

■アレホ・カルペンティエル
「エクエ・ヤンパ・オー」平田渡訳,関西大学出版部,2002
「この世の王国」木村榮一・平田渡訳,水声社 1992(元ではサンリオ文庫だが入手しやすいのはこちら)
「失われた足跡」牛島信明訳,集英社文庫,1994
「時との戦い」鼓直訳,国書刊行会,1977
「光の世紀」杉浦勉訳,書肆風の薔薇,1990
「春の祭典」柳原孝敦訳,国書刊行会,2001
「ハープと影」牛島信明訳,新潮社,1984

■ミゲル・アンヘル・アストゥリアス
「グアテマラ伝説集」牛島信明訳,岩波文庫,2009
「大統領閣下」内田吉彦訳,集英社,1990

■フリオ・コルタサル
「遊戯の終り」木村榮一訳,国書刊行会,1990
「秘密の武器」世界幻想文学大系30,木村榮一訳,国書刊行会,1981
「石蹴り遊び」上・下,土岐恒二訳,集英社文庫,1995
「すべての火は火」木村榮一訳,水声社,1993
「愛しのグレンダ」野谷文昭訳,岩波書店,2008
「通りすがりの男」木村榮一ほか訳,現代企画室,1992
「コルタサル短篇集 悪魔の誕・追い求める男 他八篇」木村榮一訳,岩波文庫,1992

■ガブリエル・ガルシア=マルケス
「百年の孤独」鼓直訳,新潮社,2006
「族長の秋」鼓直訳,新潮社,2007
「予告された殺人の記録」野谷文昭訳,新潮社,2008
「コレラの時代の愛」木村祭一訳,新潮社,2006
「迷宮の将軍」木村榮一訳,新潮社,2007
「生きて,語り伝える」旦敬介訳,新潮社,2009
「エレンデイラ」鼓直・木村榮一訳,ちくま文庫,1988

■カルロス・フエンテス
「フェンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇」木村榮一訳,岩波文庫,1995
「アルテミオ・クルスの死」木村榮一訳,新潮社,1985
「聖域」木村榮一訳,国書刊行会,1978
「脱皮」内田吉彦訳,集英社,1984
「遠い家族」堀内研二訳,現代企画室,1992
「老いぼれグリンゴ」世界文学金集II-08,安藤哲行訳,河出書房新社,2009
「セルバンテスまたは読みの批判」牛島信明訳,水戸社,1991
「埋められた鏡」古賀林幸訳,中央公論社,1996

■マリオ・バルガス=リョサ
「都会と犬ども」杉山晃訳,新潮社,2010(1987修正)
「緑の家」上・下,木村榮一訳,岩波文庫,2010
「ラ・カテドラルでの対話」桑名一博・野谷文昭訳,集英社,1984
「フリアとシナリオライター」野谷文昭訳,国書刊行会,2004
「世界終末戦争」旦敬介訳,新潮社,2010(1988修正)
「誰がパロミノ・モレーロを殺したか」鼓直訳,現代企画室,1992
「密林の語り部」西村英一郎訳,新潮社,1994
「官能の夢――ドン・リゴベルトの手帖」西村英一郎訳,マガジンハウス,1999
「チボの狂宴」八重樫克彦・由貴子訳,作品社,2010
「楽園への道」世界文学全集I-02,田村さと子訳,河出書房新社,2008
「果てしなき饗宴――フロベールと「ボヴァリ一夫人」」工藤庸子訳,筑摩書房,1988
「嘘から出たまこと」寺尾隆吉訳,現代企画室,2010
「若い小説家に宛てた手紙」木村築ー訳,新潮社,2000

■ホセ・ドノソ
「この日曜日」筑摩世界文学大系83,内田吉彦訳,筑摩書房,1976
「夜のみだらな鳥」鼓直訳,集英社,1984
「三つのブルジョワ物語」木村榮一訳,集英社,1994
「隣りの庭」野谷文昭・野谷良子訳,現代企画室,1996
「ラテンアメリカ文学のブーム」内田吉彦訳,東海大学出版会,1983

■マヌエル・プイグ
「リタ・ヘイワースの背信」内田吉彦訳,国書刊行会,1990(1980修正)
「赤い唇」野谷文昭訳,集英社文庫,1994
「ブエノスアイレス事件」鼓直訳,白水Uブックス,1984
「蜘妹女のキス」野谷文昭訳,集英社文庫,1988
「天使の恥部」安藤哲行訳,国書刊行会,1989
「このページを読む者に永遠の呪いあれ」木村榮一訳,現代企画室,1990
「南国に日は落ちて」野谷文昭訳,集英社,1996

■イサベル・アジェンデ
「精霊たちの家」世界文学全集II-07,木村榮一訳,河出書房新社,2009
「エパ・ルーナ」木村榮一,新谷美紀子訳,国書刊行会,1994
「エバ・ルーナのお話」木村榮一・窪田典子訳,国書刊行会,1995
「天使の運命」上・下,木村裕美訳,PHP研究所,2004
「パウラ,水泡なすもろき命」管啓次郎訳,国書刊行会,2002

■その他の作家たち
ファン・ルルフォ「燃える平原」杉山晃訳,書肆風の薔薇,1990
「ペドロ・パラモ」杉山晃・増田義郎訳,岩波文庫,1992
ロドリゴ・レイローサ「その時は殺され......」杉山晃訳,現代企画室,2000
ロベルト・ボラーニョ「通話」松本健二訳,白水社エクス・リブリス,2009
「野生の探偵たち」上・下,柳原孝敦・松本健二訳,白水社エクス・リブリス,2010
オラシオ・カステジャーノス・モヤ「崩壊」寺尾隆吉訳,現代企画室,2009

■本書で言及した文献
ウラジミル・ウェイドレ「芸術の運命アリスタイオスの蜜蜂たち」前田敬作・飛鷹節訳,新潮社,1975
小川洋子「博士の愛した数式」新潮文庫,2005
開高健「オーパ!」集英社文庫,1981
開高健「才覚の人 西鶴」「開高健全集」第20巻,新潮社,1993
ミラン・クンデラ「小説の精神」金井裕・浅野敏夫訳,法政大学出版局,1990
司馬遼太郎「街道をゆく 愛蘭土紀行」I・II,朝日文庫,1993
バァナァド・ショウ「思想の達し得る限り」相良徳三訳,岩波文庫,1931
ジョナサン・スウィフト「ガリヴァ旅行記」中野好夫訳,新潮文庫,1951
ジョージ・スタイナー「脱領域の知性――文学言語革命論集」由良君美ほか訳,河出書房新社,1972
種村季弘「魔術的リアリズム――メランコリーの芸術」ちくま学芸文庫,2010
新倉俊一「ヨーロッパ中世人の世界」ちくま学芸文庫,1998
バーナード・バーゴンジー「現代小説の世界」鈴木幸夫・紺野耕一訳,研究社,1975
フロイト「夢判断」上・下,高橋義孝訳,新潮文庫,1969
メダルト・ボス「夢」三好郁男ほか訳,みすず書房,1970
ホメロス「オデュッセイア」上・下,松平千秋訳,岩波文庫,1994
ハンス・マイヤーホフ「現代文学と時間」志賀謙・行吉邦輔訳,研究社,1974
クロード・エドモンド・マニー「アメリカ小説時代」三輪秀彦訳,フィルムアート社,1983

2010年6月24日

絆と権力―ガルシア=マルケスとカストロ

絆と権力ガルシア=マルケスとキューバの指導者フィデル・カストロの関係については、断片的な情報しか知らなかった。たとえばガボはバルガス=リョサと昔は親交があったがキューバに対する姿勢の違いから決別したとか、レイナルド・アレナスのガボに対する手厳しい批判とか、間接的な情報しかなかった。ガボがカストロとの親交が深く、度々キューバについて発言していることは知っていても、実際にはどのような内容なのだろう?と思っていた。本書は長い間の二人の関係をそのきっかけから様々な事件を通じて綿密に教えてくれている。

もともとカストロという人物、キューバという国が簡単にはくくれない複雑なところがある。独裁国で反米国で経済的困窮に陥っている。出て行く人は何十万という規模でいるが、「ブエナビスタ・ソシアル・クラブ」で見る限りハバナでは明るく楽しく暮らしている人々もいる。医療先進国で、マラドーナはフィデルのおかげで生き返った。反米姿勢からか野球が強い、等々。国際社会から批判を浴びるフィデル・カストロを庇い続けるガルシア=マルケスもなかなかに謎の人物だったが、本書はかなり多くを解明してくれた。

最大の謎である「ガボはなぜカストロに忠実なのか?」という問いに、いろいろ言うが結局は「彼が権力者を愛しているからだ」という回答が出ている。作家として独裁者を頻繁に題材に取り上げて研究しているのだから、それはそうだろう。ガボの場合、権力に魅入られ、それを行使することに夢中になっているのではなく、権力者の生態そのものに深い関心があるという書き方ではある。もちろん、友人や知人の亡命や救命の口利きをするところなどで権力を行使することに酔っているような面もあるだろうが、自ら公式なポジションを受け入れることはない。大統領に立候補したバルガス=リョサや外交官だったネルーダらとは違う。しかし、そのフィクサー的な役回りを楽しんでいるところはよくわかった。

ガボがパディージャ事件やアンゴラ出兵、オチョア事件や記憶に新しいエリアンくん事件など、その都度言うべきときに沈黙し、言わなくても良いときにキューバに都合の良い物語を吹聴し、親友を銃殺されたときも黙り込み、キューバの作家たちがどのように自由を奪われ迫害されても、ひたすらカストロを心棒する様子が面々とかかれている。読んでいるうちにガボの欺瞞と身勝手さ、非人道さに胸くそが悪くなる思いを何度もした。だが、いわゆる「保身」からではなく、心から「カストロが好きだし、カストロに好かれている僕が好き」というところが見え隠れするとこが本当に妙だ。

ガボに作家としての良心や欲はあるが、個人としての良心はない。芸術家と言ってしまえばそれまでだが、真正面から政治にオミットせざるを得ないラテンアメリカの芸術家としては希有な存在だろう。それだけ高見にいるということなのだろうか。それにしても自分の影響力を十分理解した上での行動なので、現存作家としてもこれだけの批判を浴びながら、「でも売れてるからいいじゃん」とでも思っているのか?の言動は、リョサやアレナスでなくても許し難いものがある。

後はもう自伝が2~3冊出るだけで、新作が出るわけではなさそうだからよいのだが、本書のおかげで、これまで通りに無邪気にガルシア=マルケスを読めなくなってしまったことは確かだ。もちろん、それを恨むつもりはない。とても興味深いノンフィクションを刊行してくれて感謝しているし、たぶん今後もガボの作品はやはり読むだろうと思う。

■著者:アンヘル・エステバン,ステファニー・パニチェリ著著,野谷文昭訳
■書誌事項:新潮社 2010.4.30 ISBN978-4-10-506161-6
■原題:Gabo y Fidel El Paisaje de una Amistad, 2004

2009年12月31日

生きて、語り伝える ガルシア=マルケス

生きて、語り伝えるガルシア=マルケスの回想録。彼の祖父母の代から始まり、本人が27歳でコロンビアを旅立つところで終わっている。

まずお話は、ガボがまもなく23歳になる頃、バランキーヤで記者をしていたときに母親に乞われて、アラカタカにある祖父母の家、そこはまさに彼が生まれ、8歳まで育った、その家を売りに行く小旅行から始まる。そして、これが「作家としての私のキャリアにおいて、下さなければならなかった幾多の決断の中で、間違いなくもっとも重要なものだった」。作家になりたいと決意し、すべてはそのための修行で、物を書いてお金がもらえるなら何でもやっていた当時のガボにとって、重要なものを得ることが出来た旅だった。

というわけだが、全体的にとにかく長い。そして人名や事件をよく覚えている。もちろん本人が全部覚えているわけはなく、友人・知人に取材をしているのだろう。彼ほどの巨匠になれば余計なことまで話してくれそうな知人は大勢いるだろうけれど、それにしても人名が多い。祖父母に育てられた幼少期、父母との不思議な関係と兄弟との希薄な関係、好きな勉強ばかりしていた学生時代、大学をドロップアウトしてジャーナリストとして日銭を稼ぎ、短編を発表し、徐々に名前が知られてきた、そんな流れである。終始貧乏で、時折女性との絡みがあり、終始友達と飲んで騒いでいる、そんな印象である。

その中でたくさんのエピソードが、実際に作品に反映されていることがわかる。「大佐」と呼ばれて何度も作品に出てくるアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は祖父がモデルで、「コレラ時代の愛」の郵便局員との恋は両親の話がモデルで…という有名な話以外にも多数の物語が実話を元にしていた。そして、現実にまったくないところから物語や人物を作ることを自らに禁じていたようにすら思えるほど、様々なエピソードの原型が実話にある。


エピソードが大量にあるが、私は本筋からは全然外れるが、彼の母親の話が気に入っている。ガボの父親はガボの母以外のところでも、結婚する前後を問わず、あちこちに子供を作っている。そんなに稼ぎがあるわけでもないのに。ラテンの男は本当に元気で、そしてバカだ。で、母親はその子供らを引き取って一人前になるまで育てている。自分のところにすでに11人も子供がいて、しかも生活は常に逼迫しているというのに。「幻覚を見るほど嫉妬に駆られる女」である母親がなぜそんなことをするのか不思議に思ったガボが母親に聞くと、こう答えたそうだ。

「自分の子供と同じ血が、そこらへんをごろごろしているのを放置するわけにはいかないじゃないか」

ラテンの女はすごい。

■著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス著,旦敬介訳
■書誌事項:新潮社 2009.10.30 676p ISBN4-10-509018-6/ISBN978-4-10-509018-0
■原題:Vivir para contarla : Gabriel García Márquez, 2002

2009年5月13日

ガルシア・マルケスひとつ話

ガルシア・マルケスひとつ話ガルシア・マルケス活用事典」というサイトがある。ガルシア=マルケスの日本における唯一最大の資料集だ。ここの管理者がまとめられた書籍。ガルシア・マルケスを巡る80の話がメインで、ほかにマルケスの年譜、邦訳作品一覧、邦語参考文献といった資料に、ガボの作り出した都市マコンドの絵地図がついている。一人の作家を追うファンとしては、垂涎の出版物だと思う。もともと趣味でこつこつ集めていたものを、ウェブに載せ、それが本になった、という流れで、一応自費出版などではなく、プロの編集者が入っているので、わかりやすく、見やすいものになっている。書影が絵になっているところや、突然2色になっているところなどが、味があって気に入っている。

が、ホームページの方は、個人的には書影の写真が見づらいことが、かなり不満で、かつ1ページにずらっと文献を並べられることに対する抵抗感から、実際は詳しく見たことがなかったのだ。それが本になる(プロの手が入る)ことで、随分とわかりやすくなったと思う。

作者はプロの批評家や書評家ではないようだが、一応学会に所属し論文など発表されているようなので、完全に素人というわけではなさそうだ。読んでいる印象では、言葉遣いが随分古くさいので、かなりお年を召した方なのかと思ったら、1960年生まれとのことで、決して高齢ではない。ただ、趣味人としてはうらやましい限りだ。

本書の中心になっているのは資料ではなく、読書の楽しみを伝える小さなお話の群れであって、こういうものを読むのはやっぱり楽しい。評論ではなく、書評でもなく、本当の好事家ならわかる楽しさだと思う。

■著者:書肆マコンド
■書誌事項:エディマン 2009.3.6 382p ISBN4-88008-397-6/ISBN978-4-88008-397-1

2008年10月 6日

予告された殺人の記録/十二の遍歴の物語

予告された殺人の記録/十二の遍歴の物語「予告された殺人の記録」を読んだのは多分3度目だと思うが、「ガルシア=マルケスに葬られた女」を読んで以来、初めてとなる。だからといって本作品の価値や見方が変わるわけではない。読む度に狂気じみた饗宴と、殺人に至る緊迫感が、ぐんぐんと迫ってくる。今回特に感じたのは残忍性だ。内蔵が飛び出し、虫の息の中「自分が殺された」と過去形で人に言うところが、なんとも残酷だ。
ただ、ラストのファンタジーがどうも…さすがにピンと来なかった。これだけがどうしても嘘くさく感じられるのだが、小説なのだから、良いのだろう。今ひとつ小説として読めなくなったところが「ガルシア=マルケスに葬られた女」を読んだ、唯一のデメリットだとは思う。

さて、「十二の遍歴の物語」だが、ヨーロッパを舞台にした短編集である。この短篇、ラストに人が死ぬことが多い。一部幻想的な作品も含まれている。

「大統領閣下、よいお旅を」 Buen viaje, senor presidente, 1979.6
場所:スイス・ジュネーブ
「ラサラ・デイヴィスは聡明な女で、意地は悪かったが、心は優しかった」
意地が悪いけど優しい…??なんだかふっとこの一文にひっかかったまま読み進めると、「あぁ、ホントだ、意地が悪いけど優しかったな」とニヤっとしたくなる気分になる。

「聖女」 La santa, 1981.8
場所:イタリア・ローマ
戦後すぐのローマの猥雑で活気あふれる雰囲気の伝わる話なのに、聖女のお話…。ガボは「聖女の話」が好きですよね。「旅長の秋」もそうだったし。南米の人がみんな好きなのかな?妙に遺体を大事にするところがないですか?

「眠れる美女の飛行」 El avion de labella durmiente, 1982.6
場所:パリ→ニューヨークの機内
川端康成の「眠れる美女」がここに登場。「わが悲しき娼婦たちの思い出」の序章と言えるだろうお話。

「私の夢、貸します」 Me alquilo para sonar, 1980.3
場所:オーストリア・ウィーン
ネルーダの食事する姿が目に浮かんで、笑った。

「「電話をかけに来ただけなの」」 'Solo vine a hablar por telefono', 1978.4
場所:バルセロナ近辺
この手の巻き込まれ型不条理系のお話は苦手。

「八月の亡霊」 Espantos de agosto, 1980.10
場所:イタリア・トスカーナ
短いが怖い、古城の幽霊譚。

「悦楽のマリア」 Maria dos Prazeres, 1979.5
場所:スペイン・バルセロナ
ラストがよくわからない。彼女は死ぬのではなく、殺されたのではないか。

「毒を盛られた十七人のイギリス人」 Diecisiete ingleses envenenados, 1980.4
場所:イタリア・ナポリ
主人公のプルデンシア・リネーロ夫人は死なないが、十七人のイギリス人は牡蠣にあたって死んでいる。

「トラモンターナ」 Tramontana, 1982.1
場所:スペイン・バルセロナ
トラモンターナとはここではカダケスという街に吹く強風のことらしいが、数日吹き荒れて、人の精神をおかしくしてしまうらしい。カダケスに戻って来ると死ぬと言われて、それを信じて二度と帰らない青年が無理矢理連れて行かれて、結局命を落とすはめになる。この青年の「戻らない」という言葉を迷信と言う西洋的合理さかげんが私にはさっぱり理解できない。風に不吉なものがまじっているのは、普通じゃない?

「ミセズ・フォーブスの幸福な夏」 El verano feliz de la senora Forbes, 1976
場所:イタリア・シチリアの海
映画になったらしいのだが、さぞショッキングな映画だろうな。

「光は水のよう」 La luz es como el agua, 1978.12
場所:スペイン・マドリード。
いたずら小僧の男の子たちがかわいらしい。やりすぎか。

「雪の上に落ちたお前の血の跡」 El rastro de tu sangre en la nieve, 1976
場所:最終的にはパリ。この手の話もどうも苦手だ。

■著者:ガブリエル・ガルシア・マルケス著,旦敬介,野谷文昭訳
■書誌事項:新潮社 2007.10.39 349p ISBN4105090135/ISBN978-4105090135
■原題:Crónica de una Muerte Anunciada, 1984
Doce cuentos peregrinos, 1992

2008年9月21日

迷宮の将軍

迷宮の将軍シモン・ボリーバルという歴史上の著名な人物のことを、日本人である私は南米の人たちほど知っているわけではない。南米解放の父である、くらいなものだ。だから、この本を読むには、例えば「シモン・ボリーバル―ラテンアメリカ独立の父」なんかを事前に読んでおいた方が良いとは思う。そう思いながら、前述の本を読まずにまた「迷宮の将軍」を読んでしまった。次に読むときは必ず。

とはいえ、最近マヌエラ・サエンスに関する記述をちょっと「楽園への道」で読んだので、そちらの方に興味が行ってしまう。ちょっと時代が違うが、日本でいうと木曾義仲の巴御前みたいなものか。この人そのものだけの伝記は日本ではさすがに出ていないので、シモン・ボリーバルを読まないと。

これまでの流れからすると、ぐっとリアリズムを強く打ち出し、押さえた文章が特徴的なこの作品。同じく将軍を描いた「族長の秋」に比べると、それがよくわかる。ボリーバルの最後の道行きの不条理さ、無念さを受け止めつつ、膨大な資料をあさったというマルケスがジャーナリズム時代に培ったルポ形式で書きたくなったかのようだ。それでも「族長の秋」で描いた奇妙きてれつな将軍の姿が少し透けて見える。この作品では少し偏執狂的な面のある将軍だったように描かれているせいだろうか。

■著者:ガブリエル・ガルシア・マルケス著,木村榮一訳
■書誌事項:新潮社 2007.10.30 363p ISBN4-10-509015-1/ISBN978-4-10-509015-9
■原題:El general en su laberinto, Gabriel Garcia Márquez, 1989

2008年8月 9日

コレラの時代の愛

cholera.jpg事前にNYで映画評が今一つだったと聞いていた。また、制作国がアメリカというのが私には気に入らない。なぜならスペイン語ではないから。メジャーに作ろうと思ったら、やっぱりUSしかないのだろうけど、どうせわからないのなら英語よりスペイン語の方が雰囲気が出る。でも、ロケはちゃんとコロンビアのカタルヘナでやってるし、映像を見るだけでいいやと思い、公開日初日に見に行く。期待していなかったから、そう思うのだろうか。拍子抜けするほど良かった。確かに原作の素晴らしさからすると、映画として中の上くらいというのは不満があるが、原作から極端に逸脱するわけではなく、真っ当な映画に仕上がっている。

ラテンの強い色彩、独特の暑苦しさと湿気、街の猥雑な雰囲気、旅する高地の風景、大河を航行する巨大汽船。そういった映像をきちんと撮ってくれただけで、もう御の字だ。俳優も悪くない。ハビエル・バルデムは別に好きではないけれど、うまいのは確かだろう。ヒロインをイタリア人にやらせるのはどうなの?という気もしないではないが、一人清純派といった面持ちで、女優陣の中で浮いているのは、かえって良いのだろう。

まあ原作は好きなように読めるからいいのだけど、映画は一つの解釈を押しつけられているようで、物語としてはやはりこの見せ方は納得できない。ウルビーノ博士の活躍がほとんど描かれず、映画が「フロレンティノ・アリーサの純愛物語」になってしまっているのが気に入らないのだと思う。

そもそも、原作の解釈からして、私は変に偏りがあるのだと思う。私にはフロレンティノ・アリーサが表舞台から消えてからが本番なように思えて仕方がない。彼は最後の結末をつけるために再度現れたわけで、要は彼は物語の外枠ではあるけれど、中心部分にいないのだ。読んでいるときも、フェルミーナがフロレンティノ・アリーサへの熱が急に冷めるところが、非常に共感できた覚えがあり、そのまま映像にも反映できていたように思える。少年時代だけ違う俳優がこの役をやったのは、意図したものなのだろうか。

彼らは実際にきちんと長い時間明るいところで話したことはなく、ほとんど手紙のやりとりでつながっている。彼女が父親に反対されても意志を変えず、苦労して旅をしている間は気持ちはつながっていたが、街に帰って来て家のことを任され、実質的な暮らしをするようになって、あらためて再会したときに、すーっと熱が冷めるのは当然だろう。いつまでも恋する乙女ではいられない。

だから彼女が医者とか実業家とかと結婚するのは当然のことだ。そしていつまでも恋する少年は、歳をとって一応は実業家になるが、不思議と影が薄いままだ。でもだからこそモテる。南米のマッチョな押しの強い男ばかりに囲まれていたら、「安全そう」「優しくしてくれそう」と近寄って行く女も多いだろう。622人切り、しかも自分から積極的に行ったのは一度だけ。51年、ただ待っているだけではない。その点、この男も悪くない。

一方、ウルビーノ博士とフェルミーナの結婚の紆余曲折は、あって然るべき夫婦の時の流れだろう。問題は常にあり、けんかばかりだったが、幸福だったと、歳をとってそう言えるのは本当に幸せなことだ。ウルビーノ博士の浮気のせいで別居して1年、迎えに来てくれたことをフェルミーナが神に感謝するシーンは、彼女の性格を夫がよく理解していること、彼女がこのまま戻れないのではないかと不安に思っていて、夫のところに帰ることができることを喜んでいることがわかり、この二人の長い年月が豊かなものであったことがよくわかる。

だからウルビーノ博士の負け、フロレンティノ・アリーサの勝ち、ということではなくて、単に最後にフロレンティノ・アリーサに恩寵が下ったということだろうと思う。大枠で原作を外しておらず、2時間半程度に収めているのだから、それだけでもうたいしたものだろう。

■製作国:2007年 アメリカ 157分
■監督:マイク・ニューウェル
■脚本:ロナルド・ハーウッド
■製作:スコット・スタインドーフ
■原作:ガブリエル・ガルシア=マルケス
■撮影:アフォンソ・ビアト
■音楽:アントニオ・ピント
■出演:ハビエル・バルデム/ジョバンナ・メッツォジョルノ/ベンジャミン・ブラット/カタリーナ・サンディノ・モレノ
■公式サイト:http://kore-ai.gyao.jp/

2008年1月 6日

愛その他の悪霊について

410509016X.jpg長編「コレラ時代の愛」と最近の「わが悲しき娼婦たちの思い出」の間に書かれた中編。後期というか、多分もう晩年の作品の一つと呼んでも良いのではないかと思う。物語の前段として、マルケスは1949年10月に自分が取材したサンタ・クララ修道院の納骨堂の遺骨撤去作業の現場を持ち出す。そこで22メートルの髪をもつ少女の頭蓋骨が出てきて、その少女の名前がシエルバ・マリア・デ・トードス・ロス・アンヘレス。修道院から22メートルの髪をもった頭蓋骨が出てきたことが事実かどうかを確認する作業は省略させてもらうが、事実でないとしても、ノンフィクションの体裁をとった幻想的な作品と言えよう。

両親の怠惰と無関心のせいで黒人奴隷の間で育ち、黒人の宗教(呪術?)や文化(アクセサリや衣装)を身につけて育った少女が狂犬病の犬に噛まれたことによって悲劇が始まる。先代のおかげで侯爵の地位にいる父親の無為無気力、砂糖の密輸などで興隆を極めた後、男やカカオ酒に溺れたことによって落ちぶれてしまう母親の怠惰ぶり、これはガルシア=マルケスらしい衰退の物語だ。

狂犬病にかかる=悪霊が憑くということで、父親は修道院に娘を追いやってしまう。神父カエターノ・デラウラは悪霊払いを行う。キリスト教世界の偏見の物語として読んでいるので、彼女は悪霊に憑かれてなんかいないという前提でいると、下記のような箇所にあたってしまう。

そして、デラウラは、ほんものの悪霊憑きの恐るべき光景を目にすることになった。シエルバ・マリアの髪は独自の生命を得てメドゥーサの蛇のように逆立ち、口からは緑色の涎が、そして邪教のことばの罵詈雑言が果てることなくあふれ出した。デラウラは十字架を振りかざし、彼女の顔に近づけ、恐怖のさなかで叫んだ――「そこから出ろ、何者なのか知らぬが、地獄のけだものよ、出ろ」

このシーンが読む者をたぶらかそうとしているような気がして、落ち着かなくなる。どう考えても、これではただの悪魔憑きではないだろうか?

200年前のコロンビアの「異端」に対する執拗な攻撃やそれに伴う少女の悲劇を、ガボは現代の何ととらえて物語ろうとしたのだろうか。

■著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス著, 旦敬介訳
■書誌事項:新潮社 2007.8.31 244p ISBN4-10-509016-X/ISBN978-4-10-509016-6
■原題:Del amor y otros demonios Gabriel García Márquez, 1994

2007年10月29日

悪い時 他9篇

悪い時 他9篇新潮社から出ている中編「悪い時」+集英社から出ている短編集「ママ・グランデの葬儀」の組み合わせだが、本来の刊行順に近いため、できれば一気に読んだ方が関連性が見えて良い。「悪い時」が群像劇だとすると、その中に出てくる端役の人たちが、「ママ・グランデの葬儀」に収録されている短編集にちりばめられている。「この村に泥棒はいない」のドン・ローケは町長ら街の人たちが集う酒場の親父。「バルタサルの素敵な午後」で義理堅いバルタサルが鳥かごを届ける先がモンティエル家。「モンティエルの未亡人」は少し頭がおかしいと言われるモンティエル夫人。「造花のバラ」でミナが袖のない服では礼拝に出られないと言った意味が「悪い時」で明かされる…といった具合。

「大佐に手紙は来ない」のじりじりとした感じ…。フランスであてのない手紙を待つ、困窮したガボの心情を反映しているそうだが、私はどうしても、最近頻発している餓死事件を思い出してしまう。10年前にこの手の餓死事件で最初のものが起き、母親の方の日記が本になって出版された(池袋・母子 餓死日記)。これがつい読んでしまって、もう壮絶で。つくづく読まなきゃよかったなと思った。「大佐に手紙は来ない」はそれがメインテーマではない筈なのだが、「飢え」の方に興味が行ってしまう。

ガボの短編の中でも「火曜日の昼寝」のような映画的な作品が好きだ。まるでクレーンに吊り下げられたカメラから見ているような記述方法、暑さやほこりっぽさが伝わって来る感じがいいなと。それにしても厳しい生活環境で子どもを育てたであろう母親の、なんと凜としていることよ。

「悪い時」は群像劇になっているので、登場人物を書き出さないと全部思い出せないくらいだが、どうも私には町長の顔が浮かんで来ないのだが…他のメンバーは割と自分なりに絵が出てくるのだが。あまりに象徴的な人物に感じられてならないせいかとも思ったりする。本当は全員書き出したいのだが、さすがに時間がない…。

■著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス著,高見英一,桑名一博,内田吉彦,木村榮一,安藤哲行訳
■書誌事項:新潮社 2007年6月26日 486p ISBN978-4-10-509010-4
■内容
大佐に手紙は来ない El colonel no tiene quien le escriba, 1958(内田吉彦訳)
火曜日の昼寝 La siesta del martes, 1959(桑名一博訳)
最近のある日 Un día de éstos, 1959(桑名一博訳)
この村に泥棒はいない En este pueblo no hay radrones, 1960(安藤哲行訳)
バルタサルの素敵な午後 La prodigiosa tarde de Baltazar, 1960(桑名一博訳)
失われた時の海 El mar del tiempo perdido, 1961(木村榮一訳)
モンティエルの未亡人 La viuda de Montiel, 1961(桑名一博訳)
造花のバラ Rosas artificiales, 1961(桑名一博訳)
ママ・グランデの葬儀 Los funerales de la mamá grande, 1962(安藤哲行訳)
悪い時 La mara hora, 1962(高見英一訳)

「悪い時」 高見英一訳 新潮社 1882.9.15 ISBN4-10-509003-8
「ママ・グランデの葬儀」 集英社 1982.12.25 ISBN4-08-760079-3

2007年8月18日

エレンディラ

エレンディラ内容はざっとこんな感じ。エレンディラはジャングルの奥地にある豪邸で両親が早世し祖母に育てられた。祖母は大きくなったエレンディラを召使いのようにこき使う。エレンディラの火の不始末から、豪邸は全焼してしまう。非情な祖母は、償いを求め、エレンディラに売春を強いる。二人は砂漠の町々をまわり、いつしかそれはキャラバンとなり、人々の噂になる…。

昨年「にしすがも創造舎」(廃校になった旧朝日中学校)の体育館でやる予定が、その空間が演出プランに見合わないことが分かり、新たに劇場を探したそうな。その結果が、いつもの「彩の国さいたま芸術劇場」ですか。あそこは天井も高いし、奥行きもあるし(主舞台18.18m+後舞台18.18m)、芸術監督だし、別にいいんですが、都心から遠いんですよ。巣鴨の方がまだましだなぁ。

蜷川さんは若い男の子を育てるのが好き、というかうまいというか。原作では主役でないのに主役になってしまったというくらいなので、中川晃教という人もなかなかですが、特筆したいのは、娘(って最近言われなくなったのはやっぱ実力ですかね)の映画に出ていた美波です。本当にほぼ「全裸」の大熱演。エレンディラって、イノセントだけど妖艶じゃないとならなくて、それはファム=ファタルっぽい小悪魔かげんとはまったく違う次元のところにあって、エキゾチックとも遠くて、難しい役どころです。祖母の言うことを何の疑問も感じずにきいている頭の空っぽな見た目ももちつつ、実はかなり考えていたり、ウリセスに向かって「あんたは満足に人も殺せないのね」というふてぶてしさももっていないとならないし。前述のクラウディアの印象があったりしますし、あまり期待していなかっただけに、「おお」という感じで感動しました。彼女は素晴らしい。

演出はまぁほどほどな派手さで、良い感じでした。そんなに一生懸命クルマ動かさなくてもいいのに、とか、そんなに一生懸命雨をふらせなきゃいいのに=ふかなくてもいいのに、とか多少思いましたが。衣装がよかったな。エレンディラと祖母の衣装が特に。マイケル=ナイマンの音楽は悪くはないのですが、どうしてもフェリーニっぽい感じがして、ちょっとそれが不満。もう少しベースに太い音があれば南米っぽいのに。でも、まぁ総じて楽しかったです。

で、問題なのは脚本。燐光群の坂手洋二なんて大物に書かせるから…。またこの人もコロンビアまで旅しちゃうし、思い入れたっぷりです。原作を傷つけないよう、それでいてオリジナリティを発揮したいというか、ガボの世界をちゃんと取り入れてますよ的な主張が強いというか。決して悪い脚本ではありませんが、4時間10分です。とにかく長すぎます。長すぎることによる弊害があるので、やはりこれは観客のこと考えてる?と思います。作り手のわがままだなぁと。

まず、上演時間が長すぎると、平日ソワレができないじゃないですか。都心から離れた劇場であるという理由もありますが、非常に難しい。一応週に2回、ソワレがありますが、19:00スタートで23:10終演。終電のない人多いんじゃないでしょうか?(配られたチラシの中に時刻表が入っていましたw)。実際、上演中の終盤終電を気にして早く出る人もいたそうです。芝居でそれは私はイヤですね。ゆったりおしゃべりとかして、全部トータルで観劇です。

それに平日ソワレが少ないのは働いている若いOLとかは来るなというような意味にとれます。明治座じゃないんだから、年寄りばかりでいいんですか?この芝居、若い人に見せたいと私は思います。藤原竜也とかジャニーズ系ほど人を呼べる若い男の子がいるわけじゃないから、若いOLさんを相手にする必要がないってことかな。実際、そういうお値段(12,000円也)でもありますよね。若い人が気軽に行ける値段じゃない。

話を元に戻すと、脚本については本音では不満が多いです。「大きな翼のある、ひどく年取った男」を入れたのはまだしも、「奇跡の行商人、善人のブラカマン」はまったく余計でしたね。原作読んでない人には「あれは何の意味があったの?」と思われるのは必至。また、二人がワユ族の血を引いていた、というところは良いと思いますが、それで押さえられなかったのかな。原作を知っている人間からすると、ウリセスとエレンディラのその後は別に要りません。やっぱりエレンディラが去っていくところで終わって欲しかった。別に「エレンディラ」を伝承にしなくてもいいし、ガルシア=マルケスを出さなくてもいいです。ウリセスを堕天使にしなくてもいいし、エレンディラはその後生きていなくても結構です。

「何年もかけて、孫に売春で贖罪(しょくざい)させるばばあと、それに黙って従う女の子。四の五の言わないで、そういう世界があるんだと。我々の価値判断で推し量らず、それを理解し受け入れられるかどうかが決定的なことだと思う」
出典:「ガルシア・マルケスの世界――「エレンディラ」演出・蜷川幸雄さん」(毎日新聞)

まったく、その通りだと思うんですよ、蜷川さん。マルケス読みは基本的にそうしてます。そうしないと楽しめないのです。それなのに、なぜ今回の脚本は「解釈」が入るんでしょうね。あれも一種の解釈ではないかと思います。もと(原作)が面白いので、そのままやってくれて充分。俳優と演出と音楽と、舞台のすべてが楽しければそれでいいんじゃないかと思いました。

制作:財団法人埼玉県芸術文化振興財団/ホリプロ
会期:2007年8月9日(木)~9月2日(日)
会場:彩の国さいたま芸術劇場
原作:ガルシア=マルケス・ガブリエル
脚本:坂手洋二
演出:蜷川幸雄
音楽:マイケル・ナイマン
美術:中越 司
照明:原田 保
音響:井上正弘
衣裳:前田文子
ヘアメイク:佐藤裕子
振付:広崎うらん
音楽助手:阿部海太郎
演出助手:井上尊晶・石丸さち子
舞台監督:小林清隆
出演:中川晃教/美波/品川徹/石井愃一/あがた森魚/山本道子/立石凉子/國村隼/瑳川哲朗

公式サイト

追補:やはり上演時間が問題になったようで。上演時間についてというのが8/21にアップされました。

2007年8月13日

族長の秋 他6篇

族長の秋「族長の秋」は面白いガルシア=マルケスの作品の中でも特に面白いとまずは率直に思う。「百年の孤独」ほどではないが、これも3回目くらいの再読になるだろうか。荒唐無稽というか、デフォルメされすぎというか、グロテスクというかナンセンスというか、もう滅茶苦茶なんである。裏切ったかつての友を丸焼きにして祝宴に出す、宝くじの不正を隠すため2000人もの子供たちを乗せた船を沖に出して爆破する、妻子は犬に八つ裂きにされるし、列挙したらきりがない。

誰にでも読みやすいとは言えないかもしれない。改行のない文章が延々続く(改段は4ヶ所くらいだったように思う)。それから、語り手が不特定である。「わたし」だったり「われわれ」だったり、違う時代のはずなのに、同じような顔をしてでも異なった語り手が現れる。また、例によって時系列もぐちゃぐちゃで、死んだ後からスタートし、さかのぼったり、後ろへ行ったり、概ねもう年齢の行ったところから死ぬまでの流れにはなっているものの、ゆらゆらと揺れる感じがして、これっていつの話?などと思うのを止めてしまう。これだけでも相当読みづらいのだが、全然感じさせないパワーがあるし、何にせよおもしろいエピソードが満載なので、全然疲れない。

荒れ果てた宮殿をさまよう牛と孤独な独裁者のイメージ。そして足のつぶれた、ヘルニアの腫れ上がった、女のような手をした老いた独裁者。このイメージを決めて、語り口をあのゆら~っとしたやつに収めたところで、著者の勝ちだったような気がする。そしてそのイメージの世界に入り込めば、読む方も苦労せず、すっと楽しめるようになる。
ラテン・アメリカの複数の独裁者がモデルだそうだが、カリブ海沿岸の臭いはエクアドル、ホンジュラスあたりかな?海がないというあたりがボリビアっぽいし。あの辺の生ぬるい空気の感じをつかんでおくと、もっと楽しめる。

「族長の秋」は新潮社から全集の中の一冊→文庫で出され、その他の6篇はサンリオ→ちくま文庫の「エレンディラ」7篇の中から「失われた時の海」を除いた6篇。「エレンディラ」の映画ってDVDにならないのかなぁ。クラウディオ・オハラのコマーシャル、まだ覚えてる。すごい印象的だった。ビデオにはなっていたんだけど、DVDになって欲しい。そういや芝居が始まっているんだな。芝居で盛り上がって、DVDになってくれないかな。「大きな翼のある、ひどく年取った男」もDVDになって欲しい作品の一つ。

■著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス著,高見英一訳
■書誌事項:新潮社 2007年4月25日 446p ISBN978-4-10-509012-8
■目次:
大きな翼のある、ひどく年取った男 Un senor muy viejo von unas alas enormes(鼓直)
奇跡の行商人、善人のブラカマン Blacamán el bueno vendedor de milagros(木村榮一)
幽霊船の最後の航海 El último viaji del buque fantasma(鼓直)
無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語 La increible y triste historia de la cándida eréndira y de su abuela desalmada(鼓直)
この世でいちばん美しい水死人 El ahogado más hermoso del mundo(木村榮一)
愛の彼方の変わることなき死 Muerte constante más allá del amor(木村榮一)
族長の秋 El otono del patriarca(鼓直)

2007年6月30日

落葉 他12篇

蹴る群れすでに持っているものばかりなので、新潮社から再編集されているガルシア=マルケスの一連の新刊を買おうか買うまいか、ものすごく迷って、結局買ってしまった。というのも、読んだのがあまりにも前で、内容も細かいことは覚えていないし、同じタイトルでも収録作品が違い、時系列に再編集されているためだ。短編集「青い犬の目」(福武書店)の全編、「落葉』」(新潮社)から表題作、「ママ・グランデの葬儀」(集英社)から「土曜日の次の日」をまとめたもので、1947~55年の初期の作品を集めた短編集となっている。

「土曜日の次の日」「落葉」「マコンドに降る雨を見たイサベルの独白」をこうやって並べて読んでみて、なるほど、連作だと実感する。実を言うと「落葉」より「マコンドに降る雨…」の方が記憶に残っている。雨がずっと降りっぱなしだと、人間だらけていくというより感覚が鈍くなっていく感じがよくわかる。生きていく気力がなくなるというか、気迫が薄くなるというか、そういう感じがじわっと伝わってきて、妙にぬめっとした感じの残る作品だった。最後は晴れて本当に良かったなーと思うのだけど、そこら辺の決着の付け方がマルケスは初期の頃からとんでもなくうまい。

表題作「落葉」だけが短編ではなくて中編。大佐と呼ばれる祖父、その娘と孫の3人の意識が同時進行で進んでいく。この話、なぜかとてつもなく怖い。大佐は約束を果たすことで満足しているのかもしれないが、所詮老い先短い。残された娘と孫を永遠の孤独の中に閉じこめてしまう怖さがじわっと伝わってくる。で、あとがきを読んで「ダロウェイ夫人」の影響について触れられていて、なるほどなと気づく。

「三度目の諦め」の中にカフカの香りがぷんぷんする。「六時に来た女」はヘミングウェイのきざったらしさ(と私は思う)がそのまんま出ている。この短い会話のスタイルがオシャレに感じられたんだろうなぁと思う。この辺の作品は“修業時代”という感じが強くする。

「エバは猫の中に」はサンリオから出ているラテンアメリカ作家のアンソロジーの表題作にもなっているのでよく覚えている。寝ている少女から魂が抜け出して、猫を探しているときの浮遊感が妙に生々しく伝わってくる。この感じはずっと忘れられなかった。これからもきっと忘れないだろう。

■著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス著,高見英一訳
■書誌事項:新潮社 2007年2月16日 341p ISBN978-4-10-509009-8
■目次:
「三度目の諦め」 La tercera resignacion(井上義一訳)
「エバは猫の中に」 Eva esta dentro de su gato(井上義一訳)
「死のむこう側」 La otra costilla de la muerte(井上義一訳)
「三人の夢遊病者の苦しみ」 Amargura para tres sonambulos(井上義一訳)
「鏡の対話」 Dialogo con el espejo(井上義一訳)
「青い犬の目」 Ojos de perro azul(井上義一訳)
「六時に来た女」 La mujer que llega a las seis(井上義一訳)
「天使を待たせた黒人、ナボ」 Nabo, el negro que hizo esperar a los angeles(井上義一訳)
「誰かが薔薇を荒らす」 Alguien desordena estas rosas(井上義一訳)
「イシチドリの夜」 La noche de los alcaravanes(井上義一訳)
「土曜日の次の日」 Un dia despues del sabado(桑名一博訳)
「落葉」 La hojarasca(高見英一訳)
「マコンドに降る雨を見たイサベルの独白」 Monologo de Isabel viendo llover en Macondo(井上義一訳)

2007年3月21日

ガルシア=マルケスに葬られた女

ガルシア=マルケスに葬られた女ガルシア=マルケスの「予告された殺人の記録」のモデルとなったマルガリータ・チータの実像を追いかけたルポルタージュ。ルポルタージュのくせにわざと私信ふうなエッセイっぽい書き方にしているのは、「予告された殺人の記録」がいかにもルポルタージュ風に書いているのに、小説だと言い張るガボへの皮肉だろうか。

内容は小説家という生き物がいかに業の深い、情けのない生き物か、というよくあるお話。ガルシア=マルケスはマルガリータ・チータという人物の人生を自分の小説のモデルとしてとりあげたことでメチャクチャにした。にもかかわらず、彼女からの謝罪や訂正の要求を一切無視し続けた(彼女の死の直前に電話をかけたが、受けてもらえなかったというエピソードが入っているが‥)。

作家は、まずモデルとなった人物に取材をしておらず、事前に一言の断りも入れず本を上梓した。そのことを著者は非難する。だが、まず彼女自身に取材はできなかったと思う。すでにガボは小説家だったのだから、取材なんかしたら本に書くことがバレバレで、拒否されるのが明らかだったからだろう。それともカエターノが死んで彼の証言を聴けないのなら、マルガリータの証言も聴くべきでないと考えたのかもしれない。

この本の価値は最後の方、唯一のマルガリータのインタビュアーであるブラス・ピーニャの証言の部分だ。実際にマルガリータのインタビュー内容も載っている。彼女自身が家族の名誉のために受けたインタビューだが、著者は実際にブラスに会い、マルガリータが彼に対して嘘をついていたようには思えないと判断している。だから、真相と判断しても差し支えないのだろう。

著者は執拗に真相を求めているが、私は別に真相はわりとどうでも良いと思っている。もともと小説なのだし、カエターノなのかどうか微妙な感じで描いているのだから、そのまま受け取っておいた方が良いのだろうなと思う。「予告された殺人の記録」が真実を求めてのものではなく、「何故殺人が起こることがわかっていたのに、誰も止められなかったのか」というテーマを追いたかったものだから、この著者が何故ここまで真相に執拗なのか今ひとつピンとこない。

ただ、「予告された殺人の記録」の最後の部分、彼女が夫に手紙を送り続け、30年後1通も封を開けずにもってきた、というエピソードはいかにも嘘くさい。でも小説なのだからそれはそれで良いと思うのだが、モデル本人にとってみたら、一番気に入らないところなのだろうとは思う。

著者は明らかにマルガリータに対して同情的に書いているのだが、しかし彼女が結婚前にミゲルにはっきり言わなかったせいでカエターノが殺されたという事実をあまり重視していないように思われる。「結婚式初夜に処女でなかったことがわかったら実家に戻される」という風習自体がたとえ理不尽なものであったとしても、当時としては一般的なことだったわけだし、どういうことになるか明確にわかっていたのに何も言わなかった。そこに、この著者も認めているが、どこかで彼女が自分を裏切ったカエターノに対して「罰したい」という気持ちがなかったとは言えないのではないだろうか。

まぁ、ガボ愛好家にとっては、前出のブラスのインタビューやスクレという町の雰囲気なんかが少し参考になる程度かなというレベルです。

■著者:藤原章生著
■書誌事項: 2007年1月30日 246p ISBN978-4-08-781358-4
■内容:マルガリータ―de México/イシドロ―del Rio Magdalena/エスペランサ―de Sucre/ジーナ、マルタ、ウーゴ―de Sucre/ハイメ―de Cartagena/ハイメ、マーゴ―de Cartagena/ガブリエラ―de Cali/ルイサ―de Sincelejo/ルイサ―de Sincelejo/アマリア、ブランカ―de Sudáfrica,Sincelejo/ブラス―de Sincelejo/ブラス、ルイサ―de Sincelejo

2006年12月10日

コレラの時代の愛

コレラの時代の愛マジック・リアリズムではなく、ストレートなリアリズムで幻想的な恋を描く、1985年の長篇作品を今ようやく読むことができた。

51年と9ヶ月と4日の間、待ち続けたフロレンティーノ・アリーサより、50年以上の長きにわたり、連れ添ったフナベル・ウルビーノ博士とフェルミーナ・ダーサの夫婦愛の方が面白おかしく読んでしまうのも、それもまた私が平凡な人間だからなのだろう。最初は一応アツアツだったが、姑・小姑と同居すると見えてくる夫の優柔不断、愛の欠片を探して旅立ち、その後訪れる社会的にも家庭的にも充実した穏やかな時期、突然やってくる別離の時期、再び戻っていき、夫婦のまま片方は天寿を全うする。二人とも最初から愛があったわけではなく、それぞれの思いがあって結婚したが、少しずついろいろな苦難を越えて行く様がおもしろおかしく描かれている。二人ともきちんと自分の思いを表明して、戦って、対策を実行して、時間をかけて、関係を続けていくのは、本当に一言では表せない。ありきたりだが、紋切り型の言葉では表せないことを、実に微妙に語ってくれる。

「床に落ちたものは拾わない、明かりは消さない、ドアは閉めないという点では完璧な夫だった。」家事を任せたら何もできない。夫の浮気が発覚したため家出したら、2年も経てからようやく迎えに来てもらえて、それでももう失神しそうなほど嬉しい妻。人間ってわけのわからない生き物だなぁと、思わせるエピソードがさりげなくちりばめられている。

しかし、フロレンティーノ・アリーサの方もどこぞの恋愛小説の主人公のように、あるいは童話の主人公のようにただ待ち続けていたわけではなく、とても人間くさく、面白おかしく生きていた。その間の様々な女性たちとの関係も一筋縄ではなく、こちらの方も笑えるエピソードが満載。

どちらの愛がどうということではなく、それぞれが愛なのだなと納得させられる力業。何世代にもわたる歴史ドラマではなく、たった3人の生きた姿をこれだけの大河ドラマにしてしまうところが、さすが稀代の物語作家だなと思った。

映画が撮影中。「Love in the Time of Cholera」だそうだ。そのうち日本でも見られるといいな。

■原題:El amor en los tiempos del c&ocute;lera : Gabriel García Márquez
■著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス著,木村榮一訳
■書誌事項:新潮社 2006年10月28日 526p ISBN4-10-509014-3

2006年10月19日

わが悲しき娼婦たちの思い出

わが悲しき娼婦たちの思い出できることなら、「コレラ時代の愛」を読んでから、の方が良いと思ったのだが、待ちきれずつい読んでしまった。これは少し前に話題になった最新刊。マルケスの作品はかなりちゃんと邦訳が出ているのに、ずっと出ていなかった1985年の作品が「コレラ時代の愛」。順は追った方が良いと思いますよ、木村先生。まぁ、分量が違いますが。

川端康成の「眠れる美女」に想を得た、90歳になった老人が自分の誕生日祝いに娼婦を買うお話と聞いて、もっと隠微な内容なのかと思ったら、全然違った。90歳にして、このピュアさと前向きさ加減はいったいなんだ。老人の愛なんていうと、川端先生の真骨頂なところで、日本だとなんだか陰々滅々してしまうのが、このラテン文学の明るさと前向きさで押し切ってしまうところが、とてもいい。財産家の息子で、教養のあるコラムニストで、でも90歳になるまで独身。そして、自分で自分のことを醜男と言っているのだから、まぁ、何かとちくるって、娼婦を買おうとしているのかと思ったら、生涯で買った女性は5000人は越える遊び人。お金を払わないといけない人もいけなくない人も、ひとしくお金を払ったことしかないという、仰天な遊びっぷり。そして、90歳にして真実の愛に目覚めて前向きに生きて行ってしまうわけだ。無茶苦茶だな。

新潮社はこの後、過去に出したものも全部出し直すらしい。卑怯な。買うか、買わないか、結構迷う。というのも、すでに全部入手済みだから。一般的に手に入りにくい状況よりはいいけど、新装版を出されると、ちょっと憎いな。もちろん、自伝は買う予定だが、ほかのものは悩む。

■原題:Memoria de mis putas tristes : Gabriel Garcia Márquez, 2004
■著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス著,木村榮一訳
■書誌事項:新潮社 2006.9.28 ISBN4-10-509017-8 160p

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