1998.11.16 98年12月号まで
今回のメールはツカゴシさん。長かったですね、久しぶりに。
イアンから目が離せない
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そもそもイアンのモノローグから始まった。
自分にとって、萩尾望都先生の作品というのは、時として、冷静に感想を述べるのが、難しい場合があります。主に心理物は、作品の中にすごく入れ込んでしまって、多少感情過多な面があるワタシは、読むと果てしなく考え込んで、とても消耗してしまうのですが、『残酷な神が支配する』も、途中からどうしても、読むと激しく消耗するようになりました・・・と言って、目が離せないのですが(笑)。
こういう言い方をしてはなんですが、ワタシにとっては、ジェルミがグレッグに暴行を受けて精神的に荒廃していく部分(これもしかし、すごい描き方でした・・・・うまく言えませんが)よりも、イアンがジェルミに巻き込まれて、深く関わってくるようになってからの方が、より‘キツイ’んです。
当初、読んでいて、これはジェルミの受けた精神的肉体的虐待と、そこからの救いとか立ち直り(または救いナシ)の話しかと思っていたのですが・・・・、
今月号を読んで、「ああこれは、イアンの物語だったのか・・・・?」と思い至りました・・・・。
私はずっとイアンの物語だと思って読んでいます。もちろん主観ですけれど。ジェルミの虐待時代は、別の意味でキツイですけれど、言ってみれば、この間は「ジェルミが殺人を犯すための理由付け」「ここまで追いつめられても人を殺すことは罪か」ということを示すための過程だとわかっていましたので、逆にグレッグについて、あまり踏み込まれない先生の描き方はさすがだな、と思っていました。
グレッグの死後、ですよね、問題は。ジェルミに巻き込まれているんです。
そうですよね。思い返せば、物語の最初は、あのサンドラとグレッグの葬式のシーンで、イアンの独白で始まるわけですし。
ワタシはやはり、その後のジェルミが受ける困難の描写で、すっかりその勢いと、異常な状況に落ち込んでいく過程の物語に呑み込まれていたので、ジェルミの物語のような気がしていたのだと思います。
それは私も忘れていました。重要なポイントかもしれません。
最初の頃ジェルミというキャラクターがある程度は読めましたが、イアンに関しては、「こいつはこのまんまじゃないだろう」と思えるくらい単純な描き方だったので、逆に私は興味を引かれた覚えがあります。
あ、それはワタシも思いました。「このまんまじゃないのか」というのは。途中までは なんとなく、‘こんなに身近に居るように思える人でも、気付かないうちに こんなことになっている’というのを、知らしめるために居るだけかと・・・・。
でも、見ていて こちらとしては、いつ気付くか、いつ気付くかという思わせぶりな感じも持ちました。
グレッグが死んで、ジェルミの機会油が付いたシャツを見つけて、イアンが「もしや」と思う場面では、「ああ、ついに!」と、不謹慎ですがワクワクした覚えがあります。
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イアンはグレッグとまだまだ向かい合っていなかった。
自分は、どーしてか最近は毎号、イアンに思いっきり感情移入してしまい、同じ苦悩を味わっているような気になり、自分の身に照らし合わせて考え、最終的には自分と向き合って、ココロの深淵を覗きに行ってしまう・・・ということを繰り返していたのですが、今月号でイアンが「コントロールできていると思った自分の視点の奥に母の死をその不幸をその悲しみと怒りを見つめようとしない空洞があったとは」と考える場面で、「これか!」という気がしました。
もしかして、先生の意図というのは、ジェルミの混乱に、イアンと共に読者を巻き込み、考えさせることなのではないか・・・と思ったのですが・・・・。
私はイアンがある意味で非常に優等生であることはずっとひっかかっていました。もちろん、いわゆる「いい子」でないこと、適当に金持ちのボンボンらしく遊びはするが基本はまじめで明るく思いやりのある好青年だったわけです。
ジェルミに巻き込まれているうち、次第に少しずつ「イアンの心の深淵」に降りていく、その過程はまだまだ続きそうですが、大きなポイントではありますよね。まだ伏線程度ですけれどね。
グレッグとイアンについて、今後どのような展開になるのか、非常に興味を覚えています。イアンは、まだやっと自分の心の中に目を向け始めたところですが、いずれ自分の中のグレッグという存在と、正面から対峙する時が来るのでしょうか・・・・・。
今までも、何度もグレッグの影が現れていますが、ジェルミの幻覚に巻き込まれているという感じで、イアンはまだそれに翻弄されこそすれ、向かい合ってはいないという気がします。
イアンは思ったよりグレッグを遠い存在として意識している分、単純に普通の父親と息子としても対立した気配がありませんよね。
そうです、そうです。 ジェルミに殺人の告白を迫る辺りでも、父親を殺されたかも知れないという個人的な私怨よりも、何だかイアン自身の正義感というか 疑惑を解明したいという欲求の方が強いような印象を受けました。
そう言えばそうですね。普通父親を殺されたのだから、そういう方向から追求しますよね。イアンは時々「そうか、自分はこいつに父親を殺されたんだっけ」と気づくくらい、淡泊ですよね。
それなりの情はあったようですが、希薄ですよね。
ええ。だから私怨にあまり流されず、一般的な視野に近く事件や現実を見ることが出来る面があって・・・それがなんというか、ジェルミに告白を迫っている時は、判事のようでした。
「自分の愛する父親が、こんなことをしていた」ということに、ショックは受けていますが、グレッグとジェルミに板挟みになっている割りには、その辺の葛藤が少ない。
イアンは、よく「自分の責任」とか「義務」「権利」という言葉を使いますが、一時期遊んでいたとはいえ、実はそういうことにこだわったり縛られていたりする人なのかなー?と思います。
最近もちらちらと影のようにうろつくだけで、ジェルミにとりついた影だから見えるようになって来ただけで。そう考えるとイアンにとってはジェルミとの関わり合いを深めれば深めるほどグレッグに近づける、それこそがイアンの「自分へとたどる道」なんでしょう。
以前もイアンは 「自分の知っていたグレッグ・ローランドとは?」という疑問から、どんどん ジェルミとの問題に深く入り込んで来ましたし、当たり前に 漠然と捉えている自分の価値観などを、見つめ直すきっかけになっていました。
しかしイアンは、グレッグがジェルミに対して犯したような行為と衝動を、どこかで自分の中にも見出しているようでもありますし、避けては通れないのではないか、と思ったりします。
そうでしょうね。グレッグ対イアンって、なんだかおかしな気がするのです。
イアンにとっては「こいつの血を自分は引き継いでいる」とはっきり認識することは恐怖でもあるでしょうけれど、それを越えないとならないんでしょう。時々そんなことを言ってみたりもしますが、まだまだ向かい合っている、という感じではないですよね。
自分の母親の死については「むしろ気の毒な人」だとずっと思っていて、自分は決して傷ついていないと思い込まなければならなかったんでしょう。今回、本当に思ってもみなかった「小さなイアン」がそこにいたことを発見するんですが、潜在的に沈んでいただけで、いつもイアンの中にはあったんでしょう。
そうですね。それに気付いたというのは、大きな展開だったと思います。
イアンというのは、先の部分で永井さんがおっしゃられている通り、(ちょっと俗な言い方ですが)それなりに過去はあったけれども、それもまだ納得の行く範囲での、読者にとってはわかりやすい人であったわけですから、そうした(女性にとっては同性のナディアよりも)読者にとっては身近な人が、自分の中の知らない自分に気付くというのは、大変説得力があると思いました。
あれは、我が身に照らし合わせて、自分にもそういう部分があるのか?と思わず考えさせられるシーンでした・・・。
なるほど。先生はこういう意味でイアンを描いたわけですね。
それはそうかも。普通の人イアンがどう変わっていくか、それを読者に見せているんですね。
しかし・・・・そう思うと、イアンがグレッグと正面切って対峙するまでの道のりが、なんだか とっても遠いような気がします・・・。
今月号で、ようやくその兆しが見えます。来月号が楽しみです。
誰がジェルミを救えるのか
ジェルミのサイドから言うと「殺人は許されるのか」がテーマだと思います。イアンのサイドから言うと「人を救うとはどういうことか」ということでしょう。私たち読者は今、主にイアンのサイドに立たされています。そして、彼と一緒に人を思いやるとは、人の痛みに目をつぶらないとは、等々をを突きつけられているようで、毎回ギクっとします。
今回はリンドンがしごくまともなことを言います。「愛や同情は助けにはならない。愛していればいるほど苦しみは過剰になり倍になり、二人をおそう」と。
それは、わかっている。わかっているけれど、イアンはなんとしてもその壁を越えないことには、一歩も前に進めないでしょう。
しごくまとも・・・・ですか。そうですね、どうも自分は冷静さに欠けるので情けないですが、あのリンドンのセリフは、読むのが辛かったです。
前にイアンが、ナディアに向かって、「愛でなければ、ジェルミに近づくことが出来ない」というようなことを言いましたよね。自分はそのイアンに対して、「そうだ!その通り!」と思ってしまったせいもあって、リンドンには過酷な現実を、むき出しにされて目前に晒されたような感じです。ジェルミが、イアンに向かっていろいろな、見るに忍びない壊れた態度をとったりしますが、それよりもインパクトがありました。
ええ。これがイアンの一種の脅迫観念でもあり、ジェルミへ近づけないもどかしさから「愛している」と思ってしまったのかも、と読者に感じさせる一言でした。
しごくまとも、と言うのは、例えば家族の愛情がなければ普通の病人は直らないけれども、精神的な病に関しては、客観的な治療を施すことの出来る第三者でないと直接的な治癒は望めない、という一般的に信じられている通説では合っている、という意味で申し上げました。
ジェルミの場合はどちらとも言い難いです。両方ともダメそうだし‥。「愛はいらない」と言い切るジェルミに「愛は役に立たない」と言わせているようでもあります。そうですね、これはまさに「何がジェルミを救うのか」という「ジェルミは救われるのか」という問題の次に大事な点なんでしょう。
確かにそれは、その通りだと思います。
ああ・・・・そうですね。私事で恐縮ですが、ワタシは 長男出産後4年間、過食にハマりまして、特に4年目の次男出産直後は、あまりにも過食が激しかったもので、自分で自分を誤魔化しきれなくなり、精神科医の治療を受けました。
その時の感覚から言えば、自分で凝り固めてしまっている いろいろな考えや思い込みからは、医師の指導無くしては、どうにも身動き出来ませんでした。
そのことを思い出すと・・・・「受け止めた」ということについては、受け止めたのは、医師ではなく、自分ですね・・・・。自分で自分を受け止めた、という感じです。
そう、受け止めるような方向に手伝うという感じでしょうか?第一歩を歩ませるというか‥。
私の場合は実際自分では経験がないのですが、友人にやはり治療を受けた人がいて、「ああ、やはり必要は必要なんだな」と思ったのです。
だからと言って、友人や恋人や家族の助けがなければ、治癒はしなかったと、それは確信しているのですが。
ワタシは最初は夫に相談して、夫もいろいろと協力してくれたのですが、「最初の一歩」は夫では無理でした。けれど、自分の大きな拠り所として、居てくれてとてもありがたかったです。夫や子供や、自分を好きだと言ってくれる人の存在は、大きいですね。
だから・・・・ううっ、なんか、思考が堂々巡りを始めてしまいましたが、自分と対峙してみることが、どちらにとっても、有効なんじゃないかと・・・。
しかし、自分がもし そういう病人を見ている方の立場だったら、やっぱり 愛は無駄ではない方に 希望を持ちたいです。
ジェルミが「愛なんかいらない」と言い切ります。
「愛」なんてもっていたから、サンドラに裏切られて辛かった。
サンドラから離れられなかったから、自分はあんな目にあった。
だから、今の自分を「愛」なんかで救える筈がない、と。
ジェルミが、「愛は割に合わない」と思っていたとき、ナディアが、「それはしょうがないのよ」と言いますよね。「しょうがないことなのよ」と。
ワタシは あの時、実は 少し期待を感じてしまいました。「愛が割に合わないのが仕方のないことならば、それで愛を捨てることもないじゃないか」と、ジェルミが思い直すきっかけになるのでは?と思って・・。でも、そうはなりませんでしたが。
ジェルミが、サンドラから受けた裏切りだけでなく、サンドラから受けた愛も‘あった事実’として考えて欲しいなと思います。それで相殺されるわけではないのでしょうが。
さて、イアンはジェルミを「愛している」と思い込んでいます。
イアンは「愛」でジェルミを救えるでしょうか?
そうか・・・、自分がいつも「残酷な神が支配する」を読んでいて キツイのは、その辺のことを 毎回 突きつけられるからなんですね。
誰にとっても、だからキツイんだと思います。
作品を正視できないときがありますね。
イアンに対しては、ワタシはジェルミから離れないで、とにかくもう、一緒に居て欲しいと望んでいます。もし何も出来なくても、一緒に居る・・・一緒の時間を供に過ごす・・・ということは、無駄ではないと信じたいです。
ジェルミが一人で立ち直ることが不可能ならば、イアンと一緒にいるよりほかはとりあえずはないでしょうね。今はとにかくイアンに自分自身を何とかせいと言いたいです。
というわけで、イアンは再びジェルミの写真を持ち出し「二度とおまえの痛みに目をつぶらない」と誓った時の気持ちを思い起こして、最後のチャレンジとばかりにジェルミに挑みます。それを忘れてしまうと、再びイアンは「気づかなかった」という後悔の嵐に逆戻りするわけですから、「目をつぶっていた」と認識できたことはほんの少しの前進なんでしょうね。
どうか、この試みが成功しますように。
もう、まったくです。イアンもジェルミも、そうする作業は本当に大変で、大きな試練でしょうが、なんとか上手く行きますように・・・と祈りたい気持ちで一杯です。
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自分なら受け止められるか
私自身、愛や同情でなく、相手の苦しみを受け止めるとは、理解するとは、いったい何をどうもってすればいいのか、わかりません。わからないから、他人の苦しみが大きいほど、近寄らないよりほかないのです。
それが出来るのは、医師やカウンセラーということになるんでしょうか。いや、それは受け止めるとは言わないのかな・・・。
それはケースバイケースだと思うのです。彼らは初期の段階では力をもつ、というよりは最初はそういう人たちの力がないと一歩も前に進めないことが往々にしてあるのではないでしょうか?
けれど、最終的にはやっぱり愛情が‥欲しいかな‥???というあたりで私も迷っているのです。
あからさまに自分の愛している人が、苦痛を受けている場合などもありますよね。恋人や夫婦でなくとも、友達とか肉親とか・・・。愛してるから、自分に出来ることなら何でもしたい・なんとか力になりたいと思っても、相手が陥っている状況自体が、自分の理解の範囲を超える、受け止めきれるとは思えない・・・というのは、非常に過酷です。
場合によっては、自分が相手に持っている愛情ごと、切り離したくなるかも知れない。
そう、確かにそうですね。それ以外に(自己保存という)解決のしようがない場合がありますね。「逃げる」という言葉でまとめたりもしますが。
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サンドラが犯した罪は
サンドラはそういう意味では、「目を瞑って」しまったのでしょうか。
少し脱線しますが、ワタシは既婚でして、息子が二人居ます。
端から見ているとサンドラのとった行為というのは、非難されるべきものだとは思うのですが、ある意味ではとても納得が行きます。
永井さんは「史上最悪の平凡なお母さん」とおっしゃられていますが、そういう描かれ方だからこそ凄いというか・・・・。なんというか、「母親がそういうことを黙って見ているとは、言語道断」というのは、良識的な意見だとは思うのですが、実際にはそういうケースというのは多いと思いますし、ものすごく特別にサンドラが悪い母親だったというわけではない。その設定が凄いです。
児童虐待に話が行きますが、この場合母親は知っていて知らないふりをするというケースがほとんどだそうですね。確かにこういう場合ではものすごく特別にサンドラが悪いというわけではないでしょう。
しかし、児童虐待の小さな萌芽に気づいて早い段階で対応できたケースの方が実は表面に上がらないだけで圧倒的に多いのではないか、と思います。母親自身が加害者になるケースを含め、実は日常的に子育ての中でちょっと気がゆるむと起こり得る事態なのではないでしょうか?
その通りです。
実際に 多くの母親が、「自分は虐待するんじゃないか(しているんじゃないか)」という不安と葛藤に晒される場合があると思います。
自分の対処出来ない事態に陥った場合、苦しさから逃れるために、思考そのものを停止させるというのは、ありがちなことですし、それだけ苦痛が深いのかもしれない。
それはありがちなんでしょうけど、結局停止した結果は向かい合った場合よりも悪い結果になりがちなんじゃないでしょうか?
私が何故彼女を史上最悪だと思うかというと、子供を見殺しにした母親だから、というよりは自分にとって都合の悪い現実に目を背けようとする人間、自分のしていることがどういう意味をもつか、出来る限り考えてみようと把握してみようとしない人間が最も罪が重いと信じているからです。
そうですね。
前述の 母親自身が持つ虐待に対する不安や葛藤についても、自分がそう感じたら、‘虐待している(しそうな)自分’から逃げたり誤魔化したりせずに、向き合ってみることが大切だと言えると思います。
不安から発するいろいろな行動が、自分に向いても 子供に向いても、どちらが よりマシだとも言えませんし、ずっと逃げ続けていると、親から子供に 代々 そうしたこと(虐待など)が 受け継がれてしまうという結果になったりすることもあるでしょう。
自分や 現実と向き合うということが、そうしたことを断ち切るきっかけになるかも知れないんですね・・・・。
グレッグを除いて、あの漫画では‘悪役’が居ませんよね。ちょっとづつ問題は抱えているけれども、それぞれはああいう状況に巻き込まれなければ普通の人であったのに、やむを得ず互いに傷付け合う結果になってしまっている・・・・・なんか、八方塞りみたいなことになってしまっている。
一般的に善悪で言えばグレッグだけなのかもしれませんが、誰もが被害者であり加害者であるというような描き方にも見えます。
ただ、サンドラに関しては、萩尾先生自身意図的にかなり意地悪に描いているような気がします。私はそれを非常に敏感に感じたのではないかと思うのです。イアンに関しても気づかなかった、という点で明らかに加害者なんですが、グレッグという父親をもったことは彼に過失があるわけではないので、イアンも被害者でもあるわけですよね。もちろんジェルミは「殺人者」なわけです。これは一方的な被害者では人間はあり得ないということを突きつけられたような感じもしたのですが、いずれにせよ、全ての人が被害者であり、加害者なのです。
今回、ジェルミがナターシャから、サンドラも苦しんでたと告げられてショックを受けていますが、もしかしたらサンドラの苦しみを見つめることで、ジェルミの心に変化が起きるかもしれないと思いました。
イアンがグレッグと向かい合わなければ一歩も進めないのと同様、ジェルミもサンドラと向かい合わなければならないのだ、とはっきりわかったシーンでした。それはジェルミにとっては最大の試練かもしれません。
死んだ方がましだと思うくらい辛いかも。何しろサンドラには手ひどい「裏切り」にあってますからね。
そうですよね。サンドラの日記を見つけるまでは、「図らずもサンドラを殺してしまったこと」というのが、ジェルミにとっては大きな傷のひとつだったでしょうが、それに加えて 「サンドラに見て見ぬふりをされた」という更に深い傷を負ってしまったわけですよね。
でも、だからと言って、サンドラがグレッグと供に死んでしまった事実が無くなるわけではない。
今更ながらですが、ジェルミにとって、向かい合わなければならない問題は多くて、どれも深いですね・・・(←「カンバレ、ジェルミ!」と言いたくなっている)。
ジェルミに私が望むのは、とにかく生き抜いて欲しい、と。
それだけなんです。どんな形でもいいから、誰よりも生き延びて欲しいです。
本当にそうですよね。
ジェルミが麻薬と売春に落ちていた時期、そのことはもちろんいいとは言えないですが、死なないでいてくれて良かったです。
ジェルミは誰に「許される」と言ってもらえばいいのか
ジェルミが自ら救いを求めた、オーソン先生(亡くなってしまいましたが)が、最後にジェルミに「許す」と言いますよね。
自分の中ではあのシーンは、すごく印象的で忘れられません。先生が具体的に殺人を許したとは思えませんが、「許す」と言ってしまうのは、とても肯けます。
そうです。オーソン先生が亡くなられてしまったことは、物語にとっては大きな暗示だったのかもしれません。この先ジェルミを許すと言ってくれる人はいないんです。
そうですね・・・。少ないけれども高い可能性を持っていたサンドラは、既に死んでしまったのだから、イアンが精神的に成長して「許す」と言ってくれたら、ジェルミにはかなり励みになると思います。
イアンも一生懸命ですけれど、「罰して欲しい」と言ってるジェルミに対して「そんなことは考えなくていいんだ」としか言ってないですよね。
そう言われれば。
しかし、もし イアンが「許す」と言っても 無駄なんでしょうね・・・。ジェルミには まるで納得が行かないだろうし。
私は、ジェルミに「グレッグを殺したことを許す」と言って納得させてられる人はやはりイアンだけなんじゃないかと思います。
もちろん、今のままのイアンではダメですけれど。
そう思うと、第三者の関わりの重要性というのが説得力を持ってきますね。
マージョリーとか期待したんですけどね。
私はまだバレンタインが出てきそうな気はしているんですが。
マージョリーは、旅行の途中での別れ方が印象的です。
何か暗示がありそうで、もしかしてジェルミと再会することなく、死んでしまうのでは?と思ってしまいました。
バレンタインは、ワタシはバレンタインの双子のお兄さんに、割と期待をしていたんですが・・・・。お兄さんとその家族に、ですね。
けれど、ジェルミが本当に「許す」と言って欲しいのはサンドラなんですねぇ。
サンドラは死んでしまったけれど、今のジェルミには到底考えられないかもしれませんが、ジェルミの心の中で、サンドラを許せる時が来るかも知れない。
トーマの心臓との関連性
ところで。
今回 永井さんから頂いたメールを読んで、なんとなく 気付いたのですが、どうも自分は、サンドラとジェルミ親子に、漠然と 「トーマの心臓」のマリエとエーリクを 重ねて見ているようです。
重なる符帳が、いくつか ありますよね?
マリエ、エーリクとサンドラ、ジェルミの親子というのは、どちらも父親が居ないせいか、母子密着度が高いですよね。
そのせいか、なんとなく母・娘の間柄に近いような部分を感じます。同性の親子でよくあるような、愛憎が見受けられるというか・・・。
「トーマ」と「残酷な」には多くの共通点が見られます。
けれど、サンドラ・ジェルミにマリエ・エーリクというのは気づきませんでした。なるほど、そうですね。
マリエの方が罪が浅いけれど、子供を愛してはいるけれど、自分の方が優先ですね。
そうです。
実際、母親にとって自分自身の存在とか、位置づけというのは、何かに付けてモンダイでして、母親と言えども個を有した人間ですから、子供のことばかり優先させていると、どうしても無理が出てくるんですよ。かといって、自分を優先させてばかりだと、子供に無理が出てくるし。その辺の加減というのは、本当に難しいですねえ・・・。
わかります。マリエの自分優先とサンドラとでは重みが全く違いますけどね。マリエの優先度というのは、ある意味うまい自分の優先のさせ方なのかもしれません。
でも、「トーマの心臓」では、エーリクは対人接触拒否症のようでしたが、途中 オスカーに抱きしめられても、その症状が出なかったり、養父とも、なんとか上手くやって行けそうな気配がある。ジェルミも、エーリクのように、何か明るい兆しが見えないかな・・・と、つい思ってしまいます。
萩尾先生は、マリエとエーリクでは 描ききれなかった部分を、サンドラとジェルミで 描いてらっしゃるのでしょうか。
エーリクはユーリによって救われたわけではなく、もちろん、元々元気で強い子でしたけれど、私はオスカーの存在が大きかったと思います。イアンはちょっと似ていますが、でもオスカーじゃないなぁ‥。むむ‥。
同意見です。イアンはオスカーじゃないですねぇ・・・。
努力しても、オスカーのようになることは出来ないのではないのかとも思います。 オスカーにしても、「訪問者」で描かれていたような子供時代があって、トラウマとして残っているかも知れませんが、最後にグスタフが自分のことで涙を流した・・・ということで、随分救われていると思います。
またエーリクは、オスカーのような自分に好意を向けてくれる人に対して、とても素直な感情を持っている(もちろん、そのことに気付かせたオスカーの功績は大きいと思います)。
比べてジェルミは、サンドラは死んでしまったし、愛もいらない(受け入れられない)ということで、オスカーやエーリクと同じような方向では救われる可能性は低そうです・・・・。
まったく、どうなって行くんでしょうか。イアンはオスカーじゃないけれども、イアンなりの努力や愛が、ジェルミを救うことは出来なくても、助けになることを、望みます。 それは今月、1月号が出てからじゃないと、見当も付かないので・・
・・・ああ、早く読みたいですね・・・。
残酷を読むと自らが追いつめられるよう
今までの、HPに掲載されている他の方とのやりとりの中で、「自分の足元がガラガラと崩れていくような・・・」というお話しがあったと思います。ワタシも『残酷な〜』を読んでいて、同様の感じを持つことがあります。
普段、あまり考えないことですが、‘自分を見詰める’ということは、大変な作業です。やっていけばやっていくほど、わけがわからなくなり、「自分って一体・・・・・」という、価値・判断の基準の無い世界に落ち込んで行くようです。
多くの場合、そこまで行くには、イアンがジェルミによって巻き込まれてそうなったように、よほど過酷な状況に晒されないと、そういう機会はないのではないか・・・と思えます。
あれほど過酷なことはないでしょうけれど、他人が酷い目にあったときに自分に何が出来るのか、を突きつけられる時が一番苦しい時ですね。それまでの自分のやって来たこと、 考えたこと、一つ一つ検討せざるを得ない。変えていかなくてはならない。だから普通は先に逃げてしまうのです。
けれど、逃れられない状況ってありますよね。それが、その機会だと逆に思います。
しかし、それは大事なことなのではないでしょうか。こうした、時期的な社会の状況から見て、また・・・・、ちょっと話題が飛びますが、ネットの中で人とやりとりしたり、自分を出したりする場合において、ワタシは、いかに「自分をしっかり持つ」ということが、大変で大切なことか・・・と、よく考えます。『残酷な神神が支配する』を読んでいくうち、なんというか、その辺のことを考えるきっかけとなるとともに、非常に自分が鍛練されているような印象を持ちました。
そうですね。他人の多くの目に晒されたり、他人とのやりとりの中で培われていくものだとも思います。おっしゃる通り鍛錬されるというか…。
ネットの中はまた独特で、顔を知らない、バックグラウンドを知らない他人と言葉や理屈だけで向かい合わなければならないので、研ぎ澄まされてしまう、そんな気がします。友達とも家族とも仕事の同僚とも違う関係ですから、利害がない、あるいは単純ではないため、という理由もありますが。己の立脚点をしっかりさせなければ、言葉と理論だけの世界では混乱を来すことがまま生じると思います。
う〜ん、何度か身に覚えがあるので、耳が痛いです(笑)。
見えないということは、いろんなイメージが生じる可能性があるわけで、他人が抱いた自分のイメージに巻き込まれて、翻弄されてしまうこともあります。
それでも止めようと思わないのは、トラブルが起きて考えたことなどが、結果的に自分の為になっているような気がする為なんですが・・・・。
●これはマンガ作品だ
これが、‘マンガ’によって引き起こされている・・・ということが、なによりも驚きであり、感動であり、脅威である・・・と思います。
本当ですよね。まともな漫画がなかった世代は仕方がないにせよ、同世代でも漫画の威力を知らない、日常的に文学作品となんら変わらないところで影響力をもっていることを知らない人がいて、困ります。
やはりそうですか・・・。
大学生くらいの若い人達でも、そういう人は居ますね。残念なことです。
くだらない漫画が多いことは否定できませんが、くだらない小説だってたくさんありますよね。凄い小説があるように、凄い漫画もあるわけです。
私たちは、その中でもすさまじいものに出会って離れられなくなっています。これは幸運と言えましょう。
まったくです。同じ時代に居合わせたということに、とてつもない幸福を感じます。連載をオン・タイムで読むのは、確かにヤキモキするんですが、同時に感謝もしています。
そうですね。30禁(笑)とか言われていますが、この作品を同時代人として受け止める時期に生き、かつ、受け止めることの出来る年齢であったことを、私は感謝しています。長くなりましたが、どうもありがとうございました。