<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0">
    <channel>
        <title>Cafebleu Diary</title>
        <link>http://www.cafebleu.net/blog/</link>
        <description>最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD</description>
        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2012</copyright>
        <lastBuildDate>Sun, 22 Jan 2012 00:43:49 +0900</lastBuildDate>
        <generator>http://www.sixapart.com/movabletype/</generator>
        <docs>http://www.rssboard.org/rss-specification</docs>
        
        <item>
            <title>悪い娘の悪戯／マリオ・バルガス＝リョサ</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4861823617?tag=cafebleu0b-22"><img alt="悪い娘の悪戯" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/llyosa/4861823617.jpg" width="200" height="291" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>あまりの読後感の良さに、この本から去りがたく、もう一度最初から最後まで読んでしまった。これは純愛小説と言えるのだろうか。1950年代から40年余にわたる一組の男女の愛の物語......というと、まるで映画のようだが映画にするには内容が濃すぎるようだ。</p>

<p>読み始めたときはバルガス＝リョサがこんなものを書くのかと、ちょっと驚いた。コメディであれば「フリアとシナリオライター」、エロティックな小説であれば「継母礼賛」「官能の夢」がある。けれど、いずれも構造はリョサらしい入れ子構造の語り口で、幾分か実験的なものや幻想的なものが含まれていた。ところがこの作品はどストレートな恋愛小説のようで、すんなりと読めてしまう作品だ。</p>

<p>ただ、どこにでもある恋愛小説と少し違うのは、その時代の世界情勢や流行といった時代背景を描いていること、海外へ移住した人間から見たペルーの現代史を追っていることだろう。1950年代のリマ、1960年代のパリのカルチエ・ラタン近辺、1960年代終盤から70年代にかけてのロンドンのヒッピーや外国人のたまり場アールズコート、1970年代末頃の東京、そしてパリへ戻り、最後はスペインのマドリー、フランス南西部地中海沿岸のセートで終幕を迎える。</p>

<p>ni&ntilde;a mala（ニーニャ・マラ）は書名通りの「悪い女」で、最初はリリーと呼ばれていたが、次々と名前が変わるため、結局ずっとニーニャ・マラと呼ばれることになる（本名は最後の方に判明する）。主人公のリカルドは ni&ntilde;o bueno（ニーニョ・ブエノ）と呼ばれるが、これは直訳の「良い男」というよりは日本でいうところの「（どうでも）いい人」に近いと思われる。書名の「悪い娘の悪戯」はかなり考えた末のものだろうと思うが、「ニーニャ・マラの悪戯」でもよかったような気がする。</p>

<p>以下、ネタバレになります。</p>

<hr>

<p>貧しい生活から抜け出したいという野心をもったニーニャ・マラだが、結局何がしたかったのだろうか。死ぬまで自分でもよくわかっていなかったのではないか。最初はとにかく贅沢がしたい、いい生活をしてちやほやされたい、というところから出発していて、手段は何でも良いと思っている。しかしキューバの軍事訓練に応募するところがかなり無茶だなと思うのだが、それしか方法がなかったのか。外国に出さえすればなんとでもなると思ったのか。</p>

<p>キューバの司令官の情婦→フランスの外交官の妻へと登っていくが、外交官は実際のところさほど金持ちではない。それでもパリでの生活が気に入って楽しんでいるようにも見えたのだが、夫に満足できないからか、イギリスへ夫の財産をもって逃げる。もちろん男と一緒だろう。</p>

<p>次にイギリスではかなりの富豪の夫人となり、贅沢な生活をして世界中を旅して楽しむが、夫の家での環境になじめず、退屈で暇をもてあましている。そこで今度は慰謝料をとって逃げようとしたが、過去がばれて失敗。東京へ移動する。そこで怪しいビジネスをしている男の愛人となり危険な仕事をして、初めて「何かの役に立つ」ことに喜びを覚える。そして、過去に男に支配されることのなかった彼女はフクダに支配され虐待されることに依存してしまった。命からがら逃げ出して、パリに舞い戻る。</p>

<p>その間、ずっとリカルドは彼女を追い求め、祭り上げる以外に何をしたのか。何もしていない。しかしこの時点で初めて彼女の役に立つことをする。相手が弱っているときだから出来たことかもしれないが、さすがに年月が経過して貧乏だった彼も少しは使える金が出来ていたのだろう。病気療養中、金銭面でも精神面でも彼女を助ける。</p>

<p>ところが、また彼女は逃げ出す。が、一度は逃げ出したもののすぐにまた舞い戻って来る。それは何故なんだろう？さすがにリカルドに悪いと思ったのか、それとももう肉体的に女性を武器に生きていくことは厳しいと思ったのか。どちらかというと後者なような気がする。そこできちんと結婚し、働いて、主婦もするという平凡な生活を歩む。何かの役に立てるという喜びを上手にコントロールできなかった東京での生活での反省もあるのだろう。計算すると、7～8年はこの生活をしているように思えるのだが、間違っているかもしれない。</p>

<p>結局またそこから逃げ出すことになるのだが、それは彼女の言うとおり「平凡な生活に耐えられなくなった」のだが、結果的には「最後の花火を打ち上げた」形になってしまっている。</p>

<p>金持ちの妻になるのは良いが、結局夫の財産や職業に生活が左右されるのは間違いないわけで、それなら夫の財産をベースに自分で事業でも興した方が良いし、出来るだけの能力・胆力もおそらくある彼女なのだが、そうはしない。一方で自分の力で好きなことが出来るだけの仕事や家庭をもっても、逆に縛られていると感じてしまったようだ。結局のところ、彼女が望んだのは「冒険に満ちた人生」なのだろう。</p>

<p>ずっと一方的に追いかけていたニーニョ・ブエノだけれど、最後にはニーニャ・マラに必死で探し求められる。上記でパリに舞い戻るまで彼女に対して「何もしていない」と書いたが、長い間ニーニャ・マラの精神的な支えであり続けたように思える。純粋に自分を追い求めてくれる男がいたら、それだけで辛いときにも強気になれるものだ。リカルドの気持ちが報われたことが、この物語のさわやかな読後感の理由だと思った。</p>

<p><br />
■書誌事項<br />
マリオ・バルガス＝リョサ著，八重樫克彦，八重樫由貴子訳<br />
書誌事項：作品社　2012.1.5　426p　ISBN978-4-86182-361-9<br />
原題：Travesuras de la Ni&ntilde;a Mala : Mario Vargas Llosa, 2006<br />
</p>]]></description>
            <link>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2012/01/post-295.html</link>
            <guid>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2012/01/post-295.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">010)ラテンアメリカ文学</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">バルガス＝リョサ</category>
            
            <pubDate>Sun, 22 Jan 2012 00:43:49 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>崖っぷち／フェルナンド・バジェホ</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4879842982?tag=cafebleu0b-22"><img alt="崖っぷち／フェルナンド・バジェホ" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/4879842982.jpg" width="200" height="294" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>コロンビアの作家の小説で舞台がメデジンと聞くだけで、<a href="http://www.cafebleu.net/blog/archives/2004/05/post-122.html">ホルヘ・フランコ「ロサリオの鋏」</a>のような麻薬とゲリラと暗殺者、といった雰囲気を想像したら、トーマス・ベルンハルトだった、といった感じ。実際このフェルナンド・バジェホには映画化された「暗殺者の聖母」という作品があり、これがシカリオ（暗殺者）の物語で、どちらを訳すか迷ったという話が訳者あとがきに記載されていた。</p>

<p>思わずトーマス・ベルンハルトと言ったが、「夜になる前に」のレイナルド・アレナスもその傾向がある。罵倒罵倒、すがすがしく罵倒。なので一気に読める。</p>

<p>主人公がエイズに犯された弟の見舞いに実家に帰って来たところから話は始まる。遡って父親が死んだときの話や、弟とニューヨークで暮らしていた頃の話も出てくる。読んでいくうちに主人公の家庭が裕福であることに気付く。父親が大臣を経験したこともある政治家であり、兄弟も多く（そこがまた母親への憎悪の理由になるのだが）、実家も大きなお屋敷のようだ。それが弟と二人で不法移民として暮らしていたニューヨークでは守衛、トイレ掃除といった仕事をしている。NYで社会保障に守られている黒人への罵倒は編集部が後書きの後に一言断りをいれたのもわかるほどの内容だ。</p>

<p>ここで罵倒されているのは国（コロンビア）、宗教（カトリック）、女（母親）。その三種類を繰り返し罵倒する。とにかくしつこい。自伝的な色の強い作品で、バジェホ自身5人兄弟の長男。父親は新聞社を経営したこともある人物で、母親の姓の「レンドン」は作品の中でも罵倒の対象として何度も出てくる。表紙の写真は作家本人と弟の子供の頃の写真だそうで、後ろの方が本人。この美しい時代の後に二人は実際にどうなって行くのだろうか？作品の中では悲惨な行く末となるのだが。</p>

<p>主人公は母親や他の兄弟たちは罵倒するが、父親とすぐ下の弟ダーリオへだけは掛け値のない愛情を抱いている。しかしダーリオがエイズになったのはゲイだからであって、弟をゲイへと導いたのは主人公自身だ。</p>

<p>ところで、本当は何人兄弟なのだろうか？23人とか20数人とか言う数字が出てくるが、それはお話としても少々現実味に欠けるので、最初に出てきた9人が正しいのだろう。長男・フェルナンド（主人公）、次男・ダリーオ（エイズで死にかけ）、三男・シルビオ（25歳で自殺）、［以下順不明］弟・アニバル（その妻ノラは父親の屋敷に住んでいる）、弟・カルロス、妹・グロリア、妹・マルタ、弟・マヌエル、末っ子・グエン・グエポン。作家の本当に兄弟の数は5人だそうだ。</p>

<p>フェルナンド・バジェホは1942年生まれだから70歳近い。作家になる前に映画監督をしていたせいか作家デビューが43歳のときと遅いせいか、意外に年齢が高い。それにしても初翻訳とは。先に挙げた「暗殺者の聖母」も訳して欲しい。</p>

<p><br />
■書誌事項<br />
フェルナンド・バジェホ著，久野量一訳<br />
書誌事項：松籟社　2011.12.8　212p　ISBN978-487984-298-5（創造するラテンアメリカ 1）<br />
原題：El Desbarrancadero : Fernando Vallejo, 2001</p>]]></description>
            <link>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/12/post-294.html</link>
            <guid>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/12/post-294.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">010)ラテンアメリカ文学</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">フェルナンド・バジェホ</category>
            
            <pubDate>Thu, 15 Dec 2011 22:38:13 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>paris match winter concert 2011</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="paris match winter concert 2011" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/parismatch2011.jpg" width="135" height="135" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span>12月3日（土）日本橋三井ホール　18:00開演</p>

<p><a href="http://marimizuno.exblog.jp/">ミズノマリ</a>（vo)　paris match<br />
<a href="http://coolism.exblog.jp/">杉山洋介</a>（g,key)　paris match<br />
<a href="http://higunao.blog76.fc2.com/">樋口直彦</a>（guitar）<br />
<a href="http://ameblo.jp/ohkanda/">大神田智彦</a>（bass）<br />
濱田尚哉（drums）<br />
<a href="http://horinky.withmusic.jp/">堀 秀彰</a> （keyboards）<br />
<a href="http://kenban-atsuko.jugem.jp/">山中淳子</a>（keyboards&chorus）<br />
山本 一 （sax）<br />
<a href="http://schedule0522.blog33.fc2.com/">佐々木史郎</a>（trumpet）<br />
<a href="http://aya-nasu.cocolog-nifty.com/">黒沢綾</a>（chorus）</p>

<p>セットリスト<br />
 1. Saturday（Type III）<br />
 2. coffee machine（PM2）<br />
 3. VOICE（After Six）<br />
 4. ツキノシズク（PM2）<br />
 5. FM（PM2）<br />
 6. 暗礁（After Six）<br />
 7. TIME SHADE（passion8）<br />
 8. After Six PM（After Six）<br />
 9. Desert Moon MOON（PM2）<br />
10. Song For You ～ Deep Inside（Song for you～Type III）<br />
11. Eternity（♭5）<br />
12. Strawberry Waltz（to the nines）<br />
13. The Time After Sunrise（After Six）<br />
14. Free（Passion 8）<br />
15. アルメリアホテル（Quattro）<br />
16. 虹のパズル（Flight7）<br />
アンコール<br />
1. 太陽の接吻（♭5）<br />
2. soft parade on sunset（TypeIII）<br />
3. Silent Night（Song for you）</p>

<p></p>

<p>デビュー当時から聞いてるのに一度もライブに行ったことがなく、行ってみたいと思っていたのだけど、やはり時間的・体力的に難しい。今年は前半にカバーツアーがあって、それも行きたかったが、年末にオリジナルのみの一度だけのワンマンライブがある。チケットはまだある。でもライブハウスではなくコンサートホール。それは着席を意味するので、比較的敷居が低く、思い切って行ってみた。</p>

<p>そんなにメジャーではないのにずっと聴いていたのは、この杉山洋介という人が同世代で、好きだった音楽がおそらくかなり一緒で、作る音楽に色濃く反映されていて、それで好きだというだけの話。あと女性ボーカルの声質が好みだったこと、もう一つ詞がかなり微妙な感じ。意味不明な言葉遊びとかはないのだけど、意味深な歌詞が多かったりする。不倫もドロドロした感じではないし、最新作に同性愛の内容があったりするので驚かされた。</p>

<p>6～7曲目に歌詞を映し出して歌っていたのは、新しい試みとのことだが、それだけ重要だということだ。このバンドはもともとは3人で、今は2人だけれど、抜けた古澤大も作詞というバックアップは続けている。この人の詞が実はかなりポイントが高い。</p>

<p>開演前と終演後のアナウンスもやっていたのはご愛敬。オープニングが"Saturday"なのは事前に予想出来ていた。アンコールの"Silent Night"くらいも予想の範疇ではあるが。オープニングの第一声の声がちょっとずれてて、ハラハラした。</p>

<p>生を聴いて感じたのは、この人の場合バックのコーラス隊が結構重要だということ。声量云々ではなく、良い声なんだけど線が細く、艶やかさはあっても豊かさや深みに欠ける面が若干あり、コーラス隊とのかけあいがフォローとして必要だなと思った。</p>

<p>年に1回ずつ、3～4バンド行きたいなと考えている今日この頃。若い頃というかバブルの頃、ドームあたりに来る往年の来日アーティストにさんざん行ってしまったので、もうそういうのはいいかなと思う。フェスティバル系も行ったっけ。今はもう出来るだけ小さいハコがいいと思っている。</p>

<p><br />
<a href="http://coolism.exblog.jp/17015592/">杉山洋介のブログ</a><br />
<a href="http://marimizuno.exblog.jp/17015983/">ミズノマリのブログ</a><br />
<a href="http://blogs.yahoo.co.jp/sabaay_dee_may_krap/54171478.html">ライブ中に呼ばれていたインド駐在の方のセットリスト一覧</a><br />
</p>]]></description>
            <link>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/12/paris-match-winter-concert-201.html</link>
            <guid>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/12/paris-match-winter-concert-201.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">030)paris match</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">paris match</category>
            
            <pubDate>Mon, 05 Dec 2011 23:22:24 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ピナ・バウシュ強化月間</title>
            <description><![CDATA[<table><tr><td valign="top" width="250"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/488303271X?tag=cafebleu0b-22"><img alt="ピナ・バウシュ タンツテアターとともに" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/488303271X.jpg" width="200" height="296" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span></td>
<td><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4845999943?tag=cafebleu0b-22"><img alt="ピナ・バウシュ　怖がらずに踊ってごらん" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/4845999943.jpg" width="200" height="285" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span></td></tr>
<tr><td valign="top" width="250">「ピナ・バウシュ タンツテアターとともに」<br />ライムント・ホーゲ著，五十嵐蕗子訳<br />三元社　1999.5.20（2011.1再版）</td>
<td>「ピナ・バウシュ　怖がらずに踊ってごらん」<br />ヨッヘン・シュミット著，谷川道子訳<br />フィルムアート社　1999.6.1（2005.6.1第2版）</td></tr>
</table>

<p>ヴィム・ヴェンダース監督の<a href="http://www.wim-wenders.net/movie/pina.html">「Pina／ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」（PINA 3D）</a>を観た。舞踏シーンの美しさには目を見張ったし、舞台芸術を映像化するのに3Dを使った点も理解できた。ただ、それとは別に自分がピナ・バウシュをまったく知らないことで、とまどったのも事実だ。私がピナ・バウシュについて知っていることと言えば、<a href="http://www.google.co.jp/search?q=Pina+Bausch&num=100&hl=ja&prmd=imvnsb&source=lnms&tbm=isch&ei=0gDcTtWfM8ftmAW997HGCw&sa=X&oi=mode_link&ct=mode&cd=2&ved=0CBUQ_AUoAQ&biw=1152&bih=937">彼女のすばらしく美しいタバコを吸っている写真</a>だけだ。実にカッコイイ。これだけ美しくタバコを吸える女性は少ないと思った。</p>

<p>言葉（戯曲）から舞台芸術に入っている私には縁のない存在だった。嫌いとか敬遠しているわけではなかったが、ピナ・バウシュだけでなく、コンテンポラリー・ダンスというか、現代舞踊というか、そういったジャンル全般に疎い。ダンスそのものに縁がなかった。</p>

<p>映画を観て感じたのは、まずこれがピナ・バウシュとヴッパタール舞踊団の作品の中で重要な作品の、しかも印象的で有名なシーンが詰まっているのだろうということ。それだからこそ、なのかもしれないが、とても面白いと感じた。その一方で、おそらくは一元的な解釈を嫌うのだろうということに不安を覚えるのだ。「これは何を意味しているのだろう？」と考えても、「それはあなたがそう思うのなら、そうなんじゃない？」と言われるのだろうなと簡単に予想できる。</p>

<p>何故カバなの？あの大きな石は何なの？イスをどかす人は何なの？正面に向き合っているカップルの体勢をしつこく変えようとしているのは何故なの？などと考えてはいけないのだろうか？いけないわけではないけれど、答えを人に押しつけてはいけないのだろうな、などと思うにつけ、正直少々面倒くさく感じるのだ。</p>

<p>それでもせっかくの映画を味わうのに少しでも手がかりがあった方が良いかなと思い、「春の祭典」「カフェ・ミュラー」「アリア」「コンタクトホフ」の4作品の動画（一部しかないが）をYouTubeで観た。それから本を2冊読んだ。予想通り、言葉でピナ・バウシュを説明することの困難さを訴える内容だが、それでも私たち読者に少しでも手がかりをくれようとして著者が努力していることがわかった。ロルフ・ボルツィクという名もその一つ。メリル・タンカード、そしてドミニク・メルシィ。たくさんの名前が出てきた。彼女の伝記も、少し役に立ちそうだ。</p>

<p>彼女がインタビュー嫌いなのはよくわかる。言葉で表現できる人なら劇作家にでもなっていただろう。本人がいわゆる「解釈」をいやがるのは当然だろうと思うが、観る方が安心できないので舞踊評論家がちゃんと説明してくれている。それに自分及び自分の芸術に対する一元的な捉え方「フェミニスト」「ドイツ人」といった定義付けを嫌う。「人間主義者」「人類の芸術家」であると訂正させる。それでも周囲は彼女の芸術の中から何かをつかもうとして、言葉を尽くしたくなるものだ。その気持ちはわかる。</p>

<p>ピナ・バウシュの舞台では彼女が問いかけを投げ、それに対し劇団員が自分自身で考えた動きをすることをベースに振り付けを組み立てていくという作り方もするという。「現代美術用語事典ver2.0」によると<a href="http://www.artscape.ne.jp/artwords_beta/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%86%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%BC">タンツテアター Tanztheater </a>は「ダンサーたちが日常的で個人的な経験に基づく断片的な場面をリハーサルに持ち寄ることによって作品が構成される」ものだそうだ。</p>

<p>本を読んだ結論から言うと、ピナ・バウシュの舞台を観て動揺するのは人としてまっとうだということのようだ。否定であれ同調であれ、魂が揺さぶられるのは間違いない。なんだか安心した。付け焼き刃でも何でも何もないよりはマシ。これでもう一度「PINA 3D」を観ることができる。一般上映は来年の2月だ。</p>

<p><br />
最後に、フェリーにの<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4845999943/">「そして船は行く」</a>はプレミアついて高い。レンタル屋なんかにはどこにもない。観たい...。</p>]]></description>
            <link>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/11/post-293.html</link>
            <guid>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/11/post-293.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">020)映画</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">040)演劇</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">ピナ・バウシュ</category>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">ヴィム・ヴェンダース</category>
            
            <pubDate>Wed, 30 Nov 2011 14:52:13 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>ブエノスアイレス食堂／カルロス・バルマセーダ</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4560090181?tag=cafebleu0b-22"><img alt="ブエノスアイレス食堂" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/4560090181.jpg" width="200" height="289" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>「猟奇的」とオビに書いてあったので、その辺は覚悟しつつ読み始めるが、のっけから衝撃。すぐに話が変わり、ほっとして読み進めるが、時折ちらちらと彼＝セサル・ロンブーソの影が見えると、少々身構えるような感じになってしまう。</p>

<p>気を取り直そう。この作品の内容は<a href="http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=09018">白水社のページ</a>を見た方が早いので省くが、アルゼンチン移民の年代記なのだ。面白くないはずがない。前世紀から約四代にわたり、母系を軸として受け継がれていく食堂の物語。最初は船乗りの双子の兄弟。順風満々だったのが、突然の死。叔父とその子供達が引き継いでいく間にも戦争があり、戦後の軍事政権があり。夫が死んだり、レストランが焼かれたり、夫婦で殺されたりと波瀾万丈ながら、なんとか生き延びていく食堂。料理人たちはみな料理に情熱をもつ気持ちの良い職人たちばかりだ。</p>

<p>そして、この食堂がビストロなのだけど、実際は結構高級なイタリアンレストランなのだ。マル・デル・プラタへ休暇でやってくるような要人や富裕層が大勢やって来るようなお店だが、庶民も来店している。料理が主役の文学作品は好きだ。「バベットの晩餐会」「赤い薔薇ソースの伝説」「柘榴のスープ」などが瞬時に思い起こされる。食材や調味料の大量の言葉を浴びてすっかりうっとりとしてしまった。</p>

<p>アルゼンチン移民史と料理史。この二つで充分おなかがいっぱいなのに、その上「猟奇的」と来られたら...。</p>

<p>セサル・ロンブーソという人物の心理はほとんど出てこない。当然のことかもしれない。彼は生まれついての狂人なのだから。彼の心理はわかるはずはない。だから、余計に不気味なのだ。彼の時代に来る前までがみんなわかりやすい人物ばかりなのだが、不気味なのはセサルだけではなく、叔母や叔父という人物がやはり少々薄汚れた感じが否めない。これが一気に変わっていくわけではなく、流れの中にセサル・ロンブーソの生い立ちも入ってきたりするので、なんだか南の島でジョーズがひそかに現れるような気配を感じつつ読み進めていった。</p>

<p>「アルゼンチン・ノワール」はみんなこんなに怖いのか？著者の他の作品、あるいは最近のこの分野の作品に興味はそそられた。</p>

<p>■書誌事項<br />
カルロス・バルマセーダ著，柳原孝敦訳<br />
書誌事項：白水社　2011.10.25　227p　ISBN978-4-560-09018-3 (エクス・リブリス)<br />
原題：Manual del canibal : Carlos Balmaceda, 2005</p>]]></description>
            <link>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/10/post-292.html</link>
            <guid>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/10/post-292.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">010)ラテンアメリカ文学</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">カルロス・バルマセーダ</category>
            
            <pubDate>Thu, 27 Oct 2011 00:05:04 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>仔羊の頭／フランシスコ・アヤラ</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4773810106?tag=cafebleu0b-22"><img alt="仔羊の頭／フランシスコ・アヤラ" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/4773810106.jpg" width="200" height="308" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>1940年代～50年代に書かれたが、1978年にようやく出版された本だそうだ。スペイン市民戦争は内戦であるという性質上、第二次大戦終結を戦後文学と呼ぶ他のヨーロッパの国々と異なるように見える。内戦終了後に暗黒時代が始まり、実に1975年まで続いているのだから、そもそも「戦後文学」なる言葉はスペインにはあてはめにくいのだろうなと感じた。</p>

<p>表題作「仔羊の頭」はモロッコ旅行中に血縁があると言い張る一家に出会ったことで、戦時中に叔父を見捨てたことがフラッシュバックしてしまう男の話。「帰還」「タホ川」はまさに"帰還文学"。戦後もすぐに表へ出て行けなかった微妙な立場の反体制側の市民の物語が「名誉のためなら命までも」。「言伝」だけがよくわからなかったが、訳者解説によると内戦前の物語で、その後の家族の中での分裂を矮小化したものだという。</p>

<p>著者本人が序文で述べているように、スペイン市民戦争は外国人の手で書かれることが多かったが、これは内側からの声である。ヒロイズムに浸っている「誰がために...」のような作品ではその真実はまるで伝わらない、とでも言いたいのだろうか（きっとそうだと思いたい）。</p>

<p>フランコ時代の陰惨な分裂がこの国にもたらした負の遺産をどう払拭するか、の方ばかり私は見てきた。ではどういう分裂だったのかを庶民のレベルで教えてもらえたことは意義があった。</p>

<p>内容的には興味のある本なのだが、この装丁のせいか手元においておきたいと思うほどではなかったので、めずらしく図書館を利用した。そうして良かったと思う。繰り返し読むほどでも、線を引いておきたいというほどでもない。スペイン現代史に通り一遍の知識しかないので、勉強にはなったが、楽しめたかと言われるとそうでもない、というのが率直な感想。アラヤでもアジャラでも別に構いませんが、ジョサというわりにはアラヤなんだなと。</p>

<p>■書誌事項<br />
著者：フランシスコ・アラヤ著，松本健二，丸田千花子訳<br />
書誌事項：現代企画室　2011.3.31　270p　ISBN978-4-7738-1010-3<br />
原題：La cabeza del cordero: Fransisco Ayala, 1949,1962</p>

<p>■目次<br />
序<br />
言伝<br />
タホ川<br />
帰還<br />
仔羊の頭<br />
名誉のためなら命も<br />
</p>]]></description>
            <link>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/10/post-291.html</link>
            <guid>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/10/post-291.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">035)スペイン文学</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">フランシスコ・アヤラ</category>
            
            <pubDate>Tue, 04 Oct 2011 01:06:08 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>orange pekoe 2011 acoustic duo tour in東京</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="orangepekoe.jpg" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/orangepekoe.jpg" width="450" height="176" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span></p>

<p>orange pekoeを初めて聴いたのは、インディーズ3枚目の「やわらかな夜」だ。他のバンドのCDを買ったときにamazon.co.jpが教えてくれた。ネットで気軽に視聴が出来るようになった頃だ。ほどなくして「Orange Plastic Music」でメジャーデビュー。春の日射しが強くなってきた頃、カンバラクニエのイラストが原宿・青山を飾っていた。大阪のインディーズ・シーンにいたというバンドには意外なほど華やかなデビューだった。2002W杯日韓大会の移動中はこればかり聴いていた。その後、SHIBUYA-AXでのライブに行くと、まだあどけない顔の小さな女の子がはちきれんばかりのパワーで歌っていた。2002年の秋だった。</p>

<p>それから9年も経ってようやく2度目のライブだ。このバンドに限った話ではなく、コンサートやライブというものにその後ずっと行くことができなかった。この1～2年ほどの間になんとか復活しようとチャレンジしてはダメになり、チケット取ってもダメになったり、といったありさま。様々な事情により、映画や芝居はともかく、ライブはなかなか難しい。この会場では1回切り、ということが多いからだと思う。</p>

<p>orange pekoeが昨年好評だったaccoustic duo tourを今年もやるという。しかも場所は全部変わったところで、東京は品川キリスト教会という。ずっとライブには行けなかったが、シングル、アルバムはすべて聴いていた。かなり無理があったが、なんとか都合をつけて行った（無理のしわよせは今日速攻で来た）。</p>

<p>教会の残響が気持ちよくひびく。ともじは大人の女の人になったなぁ。一馬くんはおっさんになったなぁ。しみじみとギターだけで聴くともじの声に感極まる。音も声も好きな組み合わせというだけで、純粋に音楽が気に入っている。他の好きなバンドからの流れもない。</p>

<p>年末のビッグバンドに行きたいのは行きたいが、さすがに難しいだろうなぁ。</p>

<p>2011.9.30<br />
品川キリスト教会</p>

<p>1. Beautiful Thing<br />
2. tiny baby<br />
3. スウィート・ムービー<br />
4. ホットミルク<br />
5. スピカ<br />
6. 空の庭<br />
7. 一馬のソロ<br />
8. 輪舞<br />
9. やわらかな夜<br />
10. メドレー～太陽のかけら～ Happy Valby ～極楽鳥～メドレー 君の夜空～キラキラ～joyful world<br />
11. 空に架かるサークル<br />
アンコール1<br />
13. selene<br />
14. LOVE LIFE<br />
アンコール2<br />
15. 虹 </p>]]></description>
            <link>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/10/post-290.html</link>
            <guid>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/10/post-290.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">020)orange pekoe</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">orange pekoe</category>
            
            <pubDate>Sat, 01 Oct 2011 23:39:16 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>パレルモ・シューティング</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.palermo-ww.com/"><img alt="パレルモ・シューティング" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/parelmoshooting.jpg" width="200" height="283" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>ようやく「パレルモ・シューティング」を見ることが出来た。3年ごしだ。海外在住の方々は観ておられるのだが、私には無理だった。</p>

<p>ヴェンダース監督はこういうパーソナルな作品をよく撮る。昔は一本おきにがっちりストーリーのある作品と、ちょっと行き当たりばったりの小さな作品を撮ってバランスをとっていたが、最近は音楽ドキュメンタリーを除くと、「ランド・オブ・プレンティ」がそれにあたるのだろうか。少し違うかもしれない。やはりドイツに帰ってきたことが大きいのだろう。</p>

<p>オープンカーでヘッドフォンを耳にかけて走るのはかなり危険だと思う。カーステレオは外の音も聞こえるが、あれでは周囲の音が全然入らない。その上、ハンドルをもちながら撮影しようとしたりもする。無茶するなと思って見ていると、やっぱり事故に遭いそうになる。主人公は不眠のためパレルモの町中で昼寝をしてしまうのだが、シチリア島で昼寝なんて危ないなと思っていると、彼女に危ないわよと言われてしまう。スクーターの多い街だなと思って見ていると、彼女は赤いスクーターに乗っている。パレルモってピンクのユニフォームだっけなと思っていると、サッカーのバッタもののユニフォームが売られているシーンが出てくる。そんな感じで、なんだか監督にいろいろとこちらの思うことが見透かされているような気がした。</p>

<p>パレルモの風景を楽しみつつ、ジョアンナ・メッツォジョルノの不思議と悲しげな美しさに魅了されつつ、デニス・ホッパーがいつ出てくるかなとかわくわくしながら最後まで見たが、何かとっかかりがないと「不思議な映画だなー」という感想になってしまうかもしれない。だから音楽は重要なアイテムだ。</p>

<p>吉祥寺バウスシアターではレイトショーで爆音シアターという形で上映している。自分が観たのは残念ながら、爆音での上映ではなかったが、なるほど、爆音がふさわしい作品だ。</p>

<p>主人公がヘッドフォンを耳にかけて音楽を鳴らすと同時に音量があがり、耳から外すと音楽が止まる。「ベルリン、天使の詩」の天使が人間になったときからモノクロ→カラー変換をやったように、こういうわざとらしいというか、わかりやすいとも言える演出をすることが度々ある。嫌いな人は嫌いだろうなぁ。</p>

<p>人生に行き詰まったときに音楽が人生を救ってくれた経験をもつ監督は、こういうパーソナルな作品ではたいへんに音楽を重要視する。その点で爆音シアターを主催するboid（配給元）の目にとまってくれたのなら、よかったと思う。なにしろ、日本での上映をほぼあきらめていたので、ちゃんとした映画館で見ることが出来て、boidには感謝している。</p>

<p>確かにプロモーションには難しい作品だと思う。デニス・ホッパー遺作とは言えるのだが、なんとおもしろさを表現すれば良いのか。ロードムービーという言葉もあったが、確かによそには行くが、その過程が描かれず、一足飛びに飛行機で行ってしまったので、ロードムービーとは言えないように思う。「リスボン物語」の方がまだ車での移動が少々だが入っていたのだけれど。</p>

<p>ライン川の男性は何者なのだろう？Bankerと役名はあるが、この人はいろいろ解釈できそうだ。ルー・リードはすごくストレートでいい。大好きなジューク・ボックスで曲がなっている時に出てくる。登場するのは一瞬だが、いい味を出している。</p>

<p>最後の方、結局死神の愚痴を聞いている主人公がそこはかとなくおかしい。</p>

<p>2011年9月3日～23日吉祥寺バウスシアター。9月24日～10月14日新宿K'sシアター。以後大阪、横浜、広島、京都など地方巡回が決定している。</p>

<p><br />
<a href="http://www.palermo-ww.com/">Palermo Shooting 公式サイト</a>。</p>

<p>監督・脚本・製作：ヴィム・ヴェンダース<br />
出演：カンピーノ、ジョヴァンナ・メッゾジョルノ、デニス・ホッパー、ルー・リード、ミラ・ジョヴォヴィッチ</p>

<p>→近日中にサイトの方も更新します。<a href="http://www.wim-wenders.net/">Wim Wenders Fansite</a></p>]]></description>
            <link>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/09/post-289.html</link>
            <guid>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/09/post-289.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">020)映画</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">ヴィム・ヴェンダース</category>
            
            <pubDate>Sun, 18 Sep 2011 00:44:23 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>聴く女／トーベ・ヤンソン</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4480770186?tag=cafebleu0b-22"><img alt="聴く女／トーベ・ヤンソン" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/4480770186.jpg" width="200" height="311" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>トーベ・ヤンソン・コレクションの最終巻はトーベ・ヤンソンが大人の本として出した最初の作品。何かに背中をつつかれるように、心がざわざわして焦りだしたときにトーベ・ヤンソンを読むと落ち着くことを思い出して、読んでみた。</p>

<p>多分それは「リス」のような作品に代表される"島暮らし"の描写なのだろう。厳しい自然と孤独に淡々と闘う姿を見ていると、次第に気持ちが落ち着いて来る。本作でも薪を割っていく仕事や、朝起きてからの一連の動作を儀式のように執り行うことで、気持ちが落ち着いてく様がこちらに伝わって来る。ともに冬を越そうとするリスともなれ合うでもなく、無視するでもない理想的な関係を築こうとするが、自然はやはり意外なことをしてくれるのだ。</p>

<p>表題作「聴く女」では、人間関係をきちんと押さえていく人の基礎能力はやはり「記憶力」なのだなとあらためて思い知らされる。忘れただけではないようだけれど、失われた記憶を再構築していく様が独特の方法で興味深い。「人の話をきちんと聞ける人」はいつの時代もどこででも高い評価を得るが、そんな人の中にもいろいろな思惑があるもの、という話だろうか。あるいは、いい人そうに見える人ほどなめてかかると怖いということだろうか？</p>

<p><br />
「偶像への手紙」はあこがれの作家の新作が評判が悪く、励ましたくて初めて手紙を書き、そして自分の住所を書いたことから一線を越えてしまった女性の話。誰しも「偶像＝アイドル」はいるが、そこに近寄ることを禁じているうちは良かったのに、踏み込んでしまったときのあの気まずさといったら独特のものがある。ファンレターのみの昔と違い、今はtwitterなどで気軽にみんな話しかけているが、あの気まずさを感じることが少しは減ったかもしれない。しかし、やはり踏み込んで良い相手と悪い相手がいるのだと感じている。それは相手にとって、という意味ではなく、自分にとって、という意味なのだが。</p>

<p><br />
「砂をおろす」や「発破」に見られる、働く人に憧れる子供への目線が厳しくも優しいところがトーベ・ヤンソンらしいなと感じた。</p>

<p>■書誌事項<br />
著者：トーベ・ヤンソン著，冨原眞弓訳<br />
書誌事項：筑摩書房　1998.5.5　202p　ISBN978-4-480-77018-9<br />
原題：Lyssnerskan, 1971. Tove Jansson</p>

<p>■目次<br />
聴く女<br />
砂を降ろす<br />
子どもを招く<br />
眠る男<br />
黒と白―エドワード・ゴーリーに捧ぐ<br />
偶像への手紙<br />
愛の物語<br />
第二の男<br />
春について<br />
静かな部屋<br />
嵐<br />
灰色の繻子<br />
序章への提案<br />
狼<br />
雨<br />
発破<br />
ルキオの友だち<br />
リス</p>

<p>→<a href="http://www.cafebleu.net/blog/archives/2010/09/post-264.html">「島暮らしの記録」トーベ・ヤンソン</a><br />
→<a href="http://www.cafebleu.net/blog/archives/2010/08/post-261.html">「フェアプレイ」トーベ・ヤンソン</a></p>

<p>今回は、ほぼ定価で古書にあったので買ってしまったが、上記2冊はまだプレミアついて高い。</p>]]></description>
            <link>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/09/post-288.html</link>
            <guid>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/09/post-288.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">040)その他海外文学</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">トーベ・ヤンソン</category>
            
            <pubDate>Sat, 17 Sep 2011 09:30:01 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>紙の民／サルバドール・プラセンシア</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4560081514?tag=cafebleu0b-22"><img alt="紙の民" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/4560081514.jpg" width="200" height="286" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>奇想天外というか奇妙キテレツというか、とんでもなく変な小説。アメリカ西海岸におけるチカーノ文学にこんなものが登場したのか。今年出た本では「オスカー・ワオ」に匹敵するかというくらい。どうもラテン系移民のアメリカ文学は今とても「来ている」のかもしれない。</p>

<p>「紙の民」は文字通り紙で出来た人のこと。創世記のような壮大な物語が始まったかと思うと、物語はいくつかに分岐していく。フェデリコ・デ・ラ・フェとメルセドの夫婦、それに娘のリトル・メルセドを加えた親子のストーリーが一つ目。土星ことサルバドール・プラセンシアのストーリーが二つ目。そして紙の民の末裔であるメルセド・デ・パペルのストーリーや聖人サントスとサヤマサトルのプロレス物語、本当はメキシコ生まれではないがそういう設定になっているリタ・ヘイワースの物語などが同時進行で進んで行く（ラテンの人はリタ・ヘイワース好きだな。プイグの「リタ・ヘイワースの背信」を思い出した）。</p>

<p>自分の夜尿症が原因で妻に去られたフェデリコ・デ・ラ・フェは娘を連れてメキシコからロサンゼルス郊外の花卉栽培を主産業とする町エルモンテに落ち着く。土星にすべてを上から見られているような気がしていたが、鉛の甲羅の中に隠れていれば見られないことに気付く。彼はエルモンテの若者たちEMFと組んで、土星への戦いを開始する。一方、土星はと言えば、この戦争のせいでリズに去られ、カメルーンにも逃げられそう。土星とEMFの戦いの幕は切って落とされた。しかし、どんな戦いをするんだ、この人たちは？と思いながらどんどん読み進めて行く。</p>

<p>けれど、読んでいると、とにかく痛いのである。「イタイ」とカタカナで言うところの痛さではなく、物理的な痛さを感じてしまう。私は刃物で切ったことはないのでわからないのだが、紙で切ったときの痛さはわかるから、それをいちいち思い出すため、メルセド・デ・パペルの物語はあまり一生懸命読むことができない。フェデリコ・デ・ラ・フェはやけどを負うことで夜尿症を治すし、カメルーンがハチに刺されることで精神的な安定を得る話は麻薬の暗喩かなぁと思いつつ、いやこれは本当にハチにさされる話だなと思ったり。</p>

<p>それから、なんだかいろいろにおってくる。「香り」ではなく「臭い」。フェデリコ・デ・ラ・フェの尿のにおい。リトル・メルセドが中毒になっているライムのにおい、エルモンテの町のカーネーションのにおい。土のにおい。さまざまな形で小説が触覚と嗅覚を刺激してくる。そして視覚的にも。大枠が物語る側と物語られる側の戦いのため、ページ上で戦いがすごいことになっている。普通の本ではあり得ないレイアウト。泥棒教会やアポロニオの母親の聖人の話などはメキシコでは普通にあることのように思えてしまう。五感を刺激しながら物語が渾然一体となって迫ってくる感じを受ける。</p>

<p>フェデリコ・デ・ラ・フェも土星もフロッギーも、女性に去られた後の男の情けなさを見せてくれるが、それでもフロッギーとフェデリコ・デ・ラ・フェはしつこくおいかけたりはしないので、まだいい。この土星の情けなささ、未練たらしさと言ったら。非常にうざくて、たいへん良いです。この情けなさが物語世界を一本貫いている筋のようなもので、これを頼りに進んで行けば迷わないような気がした。</p>

<p><br />
■書誌事項<br />
著者：サルバドール・プラセンシア著，藤井光訳<br />
書誌事項：白水社　2011.8.10　284p　ISBN978-4-560-08151-8<br />
原題：The People of Paper , 2005, Salvador Plascencia</p>]]></description>
            <link>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/08/post-287.html</link>
            <guid>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/08/post-287.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">010)ラテンアメリカ文学</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">サルバドール・プラセンシア</category>
            
            <pubDate>Mon, 08 Aug 2011 23:55:31 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>世界文学とは何か？／デイヴィッド・ダムロッシュ</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4336053626?tag=cafebleu0b-22"><img alt="世界文学とは何か？" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/4336053626.jpg" width="200" height="287" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>600ページという量と価格の高さに二の足を踏んでいたのだが、読んでみると驚くほど平易な文章で、読みやすく、おもしろい。学術書のイメージだったのが、完全に違った。読みやすさには行間に余裕のある組版のせいもあるだろう。</p>

<p>そもそも「世界文学」という言葉になんとなく懐かしさを感じて惹かれていたのだが、その理由が読み始めてすぐにわかった。そうだ。"Weltliterature"だ。これは懐かしい。ゲーテが「国民文学」に対抗する言葉として造った言葉だって教わったような記憶がある。そうそう「エッカーマンとの対話」っていうから、ゲーテが書いたんだとばかり思ってたらそうじゃなくて変だなと思っていたのだけど、そういう事情だったんだね...というような懐かしい記憶をたどりながら読んでいたら、あっという間に引き込まれてしまった。</p>

<p>あれ？何の本だったっけ？と思った頃にぶつかるキーワードをこの先の糧にする。</p>

<blockquote>
世界文学の作品は、世界中へ移動していくときに新しい生命を授けられる。<br>
（略）<br>
本書でこれから論じるのは、主として、翻訳で何が失われ、何がえられるのかということだ。
</blockquote>

<p>そして、ギルガメシュ叙事詩の話になると、インディー・ジョーンズのような考古学的冒険譚が始まり、ちょっとわくわくさせられる。当然のことながら、神話や聖書の話が出てくるので、これもまた懐かしいにおいがする。著者は比較文学の人なんだろうとぼんやり感じていたのが確信に変わる。</p>

<p>次に、メソポタミアの地から、アステカ王国へと、連れていかれる。スペインから来た宣教師たちが、キリスト教の教義を現地の民に教え込むのには、彼らの神・文化に精通する必要を感じて、彼らの詩を研究する。押しつけられた文化であっても融合していく力をもっていた南米の文学。</p>

<p>そして次は、アフリカへ。かつて世界文学と言われたものが、いかに西洋文学に偏っていたかを、ノートンやハーパーコリンズなどいくつかの選集に収録された作品の変遷を実例に解説してくれる(こういう作業が私は大好きだ)。徐々に非西洋文学と女性作家が増える様を語りながら、普遍的と言われた作品の、時代による評価の変化を示してもくれる。</p>

<p>こうやって著者は具体的な作品をていねいにとりあげながら、読む者を世界のあちらこちら、古代から現代までに連れ出して飛んでいく。カフカと言えば、20年前でも「難解」「不条理」「世界の中の孤独」といった扱いをされていたが、次第に実際はローカルの色濃く、意外に楽しげなものに変化していったように思う。リゴベルタ・メンチュウの物語が事実か事実ではないかは重要ではなく、ブルゴスとの共同作業がもたらしたものが何か教えてくれる。次にミロラド・パヴィチ「ハザール事典」の密かな政治性を教えてくれる。パヴィチは公式サイトをもつ現代作家だ。</p>

<p>読書として充分に楽しむことが出来たので、この本を研究書として敬遠しなくてよかったと思うが、それでも自分の中で消化できたとはとても思えないので、いくつか引用だけ記しておき、いつの日かまた読んでみたい（そんな日は来るのか？）</p>

<blockquote>
翻訳がすぐに古びてしまうのはよくあることだ。文化に対する文学観が変わると、ある時代では一番良い翻訳もすぐに時代遅れになる。原テクストのトーンや価値観をまったく再現できなくなるし、翻訳としての役割も訳が生みだされた文化が発展するなかで、十分にはたせなくなるからだ（p258）。

<p><br />
どうして悪い翻訳はできるのか？　解釈がみなそうであるように、翻訳が失敗する基本的な理由は二つある。はっきりとした誤訳―単純な間違い―か、あるいは、原作の力と美しさを伝えられていないかだ（p260）。</p>

<p><br />
純粋な普遍主義というものは、倫理的にも美学的にも、作品の実際の複雑さを矮小化し、最後には損なってしまう。かといって、作品はローカルなコンテクストとありとあらゆる点でつながっていて翻訳で表現しきれるものではない、原文で読んでこそ意味がある、という正反対の主張も同じように無益だ。世界文学の作品をきちんと読むためには、両面を同時に生かすようにしなければならない（p425）。<br />
</blockquote></p>

<p>「世界文学とは何か？」最終章でダムロッシュは明確な回答を提示してくれている。</p>

<p>1．世界文学とは、諸国民文学を楕円状に屈折させたものである。<br />
2．世界文学とは、翻訳を通して豊かになる作品である。<br />
3．世界文学とは、正典（カノン）のテクスト一子委ではなく、一つの読みのモード、すなわち、自分がいまいる場所と時間を越えた世界に、一定の距離をとりつつ対峙するとうい方法である。</p>

<p><br />
繰り返しダムロッシュが述べているのは、文学作品は世界を旅して豊かになっていくということだ。受け入れる国の時代や文化、伝統、さらにはその時の作家たちのニーズによって変わっていくものだが、そうやって発した国と受け入れた国のどちらか一方の文化に閉じこめられることなく、世界文学として生きていく。私たち読者はは今ここで偶然出会った作品の翻訳を楽しめばいいのだと感じた。</p>

<p><br />
■書誌事項<br />
著者：デイヴィッド・ダムロッシュ著，秋草俊一郎，奥彩子，桐山大介，小松真帆，平塚隼介，山辺弦訳<br />
書誌事項：国書刊行会　2011.4.14　196p　ISBN978-4-336-05362-6<br />
原題：What is World Literature? David Damrosch, 2003</p>

<p>■目次</p>

<p>序章　ゲーテ、新語を造る<br />
　第一部　流通<br />
　第一章　ギルガメシュの探求<br />
　第二章　法王の吹き矢<br />
　第三章　旧世界から全世界へ<br />
第二部　翻訳<br />
　第四章　死者の都で恋して<br />
　第五章　マクデブルクのメヒティルト、その死後の生<br />
　第六章　カフカ、故郷へ帰る<br />
第三部　生産<br />
　第七章　世界のなかの英語　<br />
　第八章　活字になったリゴベルタ・メンチュウ<br />
　第九章　毒の書物<br />
　終章　ありあまるほどの世界と時間<br />
</p>]]></description>
            <link>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/07/post-286.html</link>
            <guid>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/07/post-286.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">040)その他海外文学</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">デイヴィッド・ダムロッシュ</category>
            
            <pubDate>Thu, 28 Jul 2011 15:38:29 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>バルガス＝リョサ講演会（東京大学）</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.l.u-tokyo.ac.jp/event/2178.html"><img alt="バルガス＝リョサ講演会チラシ" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/llosa_toudai_thumb.jpg" width="200" height="283" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span><!--<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="バルガス＝リョサ講演会" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/20110622.jpg" width="200" height="267" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span><br clear=all />（もちろん写真撮影禁止ですが、開演前なのでご容赦を）-->バルガス＝リョサの東大での講演会に行ってきた。まず、バルガス＝リョサ氏へ、日本人の一人として、今この時に予定どおり来日してくれて、世界へ向けてメッセージを発信してくれたことに感謝します。日本はとても危険に思われ、来日を断ったり帰国する人が多い中でのこの男気というか仁義というか、大作家らしい態度はさすが。</p>

<p>実物のバルガス＝リョサを見て、まず、なんて華やかな人だろうと思った。大柄で、背筋がしっかりと伸び、75歳とは思えない声量で精力的に話している。さすが、一時は政治家を目ざしただけのことはある。</p>

<p>最初に話したのはこの世界における文学の役割。文学は偏見や暴力、不正義から人々を守る役割がある、等々。ノーベル文学賞受賞者だから、そういうお話をしなくてはならない。例えば「作家にとって生きることは書くことだ」なんていう言葉を彼がスペイン語で言うと、たいへんな重みがあるのだけれど、それは書いた文ではとても伝えられない。</p>

<p>面白かったのが、「密林の語り部」ができるきっかけ。この作品はバルガス＝リョサが実際に行ったアマゾンへの先住民に対する調査というか冒険の体験に基づくものであることは知っていたが、その詳細を話してくれた。大学在学中（？）、アマゾン川流域の街<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%90">プカルバ</a>へ赴き、分散してしまった先住民であるマチゲンガ族のコミュニティを調査する調査隊に参加した。その中には文化人類学者であり宣教師でもある米国人夫妻がいて、彼等から自分は語り部の話を聞いた。分散してしまった部族の人と人を物語でつなぐのが語り部である。自分はこの語り部になろうと思った。文学はこのような役割を果たすものである、と。細かい言葉としては違うかもしれないが、そのような趣旨の話だった。20年後に再開した夫妻が覚えていなかったというオチがついていたが。</p>

<p>質疑応答タイムは野谷先生の教え子の学生たちが先を争って？あるいはきちんと仕込まれて？質問し、司会を務められる野谷先生も「若い人！」とご指名。</p>

<p>氏は詩人のルベン・ダリオの研究論文を発表しているが、詩という文学ジャンルについてはどう思うか？という質問に対し、すべての作家は詩を書くことから文学から入っており、詩人を羨望のまなざしで見ている。詩は完璧なものをつくることが出来るが、小説は完璧なものはつくり得ない。自分は詩人としては、ヘボでした、とのことで会場から笑いがもれる。</p>

<p>「専門化が進むことにより人々が分断されていく」という話をしていたが、研究者がどんどん専門的に先鋭化していくことについてはどう思うか？あるいは研究者の役割とは何？という大変良い質問が出たが、「批評家は読者と作家の橋渡しをするのが役割」という、わりと平凡でかつしごくまっとうな回答。</p>

<p>作品については昨日のセルバンテス文化センターの方が話が濃かったのかもしれない。少しうらやましい。</p>

<p>ゲットしてきた大事な情報を。</p>

<p>1.絶版中の「密林の語り部」が岩波文庫から出るらしい。</p>

<p>2.氏は今日の午前中、神保町で古書店巡りをした。かつてオクタビオ＝パスが入ったのと同じ古書店で「北斎漫画」を見る。その際、偶然NHKがロケ中で急遽出演した。妖怪を扱った番組で、放送は後日とのこと。どこからか情報が出ると良いのだが。</p>

<p><br />
最後にちょいと。</p>

<p>1. 東大文学部（教授）席が空きすぎ。バルガス＝リョサの邦訳としては最新作の訳者である田村さと子先生をたいへん良い席ではあるけれど東大側の案内もなく一般席に座らせておいて、それはないんじゃないかなーと思った。</p>

<p>2. そんな中でも柴田元幸先生は英米文学の方だが、研究熱心な方だけあって出席されていたことを確認。さすが。（他にもおられましたが、どなたかまでは確認できず）。</p>

<p>3. <a href="http://criollisimo-cafecriollo.blogspot.com/2011/06/premio-nobel.html">赤いポロシャツの素敵な先生は幻だったようです...。</a></p>]]></description>
            <link>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/06/post-285.html</link>
            <guid>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/06/post-285.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">010)ラテンアメリカ文学</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">バルガス＝リョサ</category>
            
            <pubDate>Wed, 22 Jun 2011 23:53:37 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>低開発の記憶／エドムンド・デスノエス</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4560081328?tag=cafebleu0b-22"><img alt="4560081328.jpg" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/4560081328.jpg" width="200" height="288" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>キューバ革命が起こった直後のキューバ。主人公は親に家具店を買ってもらって経営していたインテリでブルジョアの男。妻や両親、友人らが皆国を逃げ出すのに自分だけは残る。それは主人公が革命に共鳴したからではなく、彼等と縁を切りたがっていたからだ。つまり、それまでの自分の生き方そのものを否定したいのだろう。彼の過去が徐々に明らかになるが、若い頃ユダヤ人の彼女とニューヨークで作家として暮らすことが出来なかったのが彼の挫折というわけだ。原因は安定を求める自分自身の優柔不断のせいなのだから、それはなるほど、納得できない人生だ。</p>

<p>自分の生き方に嫌悪感を抱いている一方、海外旅行を頻繁に出来るようなブルジョアの身分で、自国を「低開発」と嘲るように語る。妻を自分の思い通りにしつけられなかったからと言って、手ひどくいびって傷つけ別れる。そんな嫌悪感を抱かせる主人公にしたのは無論意図的なものだろう。では革命で彼も変わることができるのだろうか？以前からの希望だった作家になるチャンスなのだから、マンションの家賃で遊んで暮らせる身分になって、部屋の中で思う存分書けば良いのだ。だが書けない。だから街を歩く。けれど帰宅してからも書けない。人恋しくて、若い女の子をひっかける。やっぱりつまらない女だったと気付いて捨てる。やれやれだ。結局、彼は自分に何を望んでいるのだろう？</p>

<p>革命で何もかも変わる！と信じていたら、そうでもなかったというような話なのか。あるいは革命に身を投じるには、旧来のブルジョア的価値観から脱却できない優柔不断のインテリを糾弾する話なのか。そんなに単純に割り切れるような小説ではないから、傑作と言われるのだろうと思う。</p>

<p>ラストの方、主人公がキューバ危機についてアメリカのラジオを聞いているシーン、一般市民の代表であるノエミは英語がわからないから、彼の恐怖が伝わらない。主人公が海岸でミサイルを運ぶトラックをみかける場面と合わせ、作家が書きたかったのはこの「核の恐怖」だったのか。インテリで臆病で優柔不断で海外旅行経験があって多少はグローバルな視点をもつ主人公が、心底おびえているところを見せたかったのかもしれないなと感じた。</p>

<p><a href="http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/04/post-279.html">「低開発の記憶」は映画を先に見た</a>。映画が先が良いか原作が先が良いか、どちらかは比較できないが、映画で今ひとつわかりづらかったところが明確になってよかった。例えば、デスノエス本人が出てくる文学討論会がとても唐突に感じられたが、「僕」とエディの関係が（映画の中でも少し触れられていたが）詳しく説明されている。また、エレーナとの裁判があっさりとセルヒオ側の勝利に終わった点で腑に落ちないところがあったが、「なるほど」という理由が小説には書かれている。そういった細かな点で映画を補完するような意味を小説が果たしている。これは小説が先だと、映画に別の意味が加わるのだろう。</p>

<p>「いやしがたい記憶」として小田実が1972年に翻訳したものを何故2011年になって野谷先生が訳したのかの謎は2003年に"Memorias del subdesarrollo" の新しい版が出たからだという事情を訳者解説で知った。追加された3つの短編は主人公がかつて書いた作品という設定だ。映画がきっかけにならなければ読めなかった作品だが、これもまたタイミングというか出会いなんだろうなと思う。装丁はカッコイイ。</p>

<p><br />
■書誌事項<br />
著者：エドムンド・デスノエス著, 野谷文昭訳<br />
書誌事項：白水社　2011.6.5　196p　ISBN978-4-560-08132-7<br />
原題：Memorias del subdesarrollo: Edmund Desnoes , 1965</p>]]></description>
            <link>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/06/post-284.html</link>
            <guid>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/06/post-284.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">010)ラテンアメリカ文学</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">エドムンド・デスノエス</category>
            
            <pubDate>Tue, 21 Jun 2011 21:33:41 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>屍集めのフンタ／フアン・カルロス・オネッティ</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4773811013?tag=cafebleu0b-22"><img alt="屍集めのフンタ" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/4773811013.jpg" width="200" height="297" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>舞台となるサンタ・マリアは架空の街らしいが、ウルグアイの中規模地方都市くらいのイメージで考えていた。売春宿の主人や売春婦、彼らと敵対する神父や富裕階級の人々、そしてその後継者たる若者たちの姿を描いた群像劇のようだが、何か違う。何がおかしいっていろいろとおかしいのだが、群像劇ならもっとなんというか様々な人の思惑が入り乱れた派手な話になりそうな気がするのに、すごく地味だ。もちろん、思惑は確かに入り乱れてはいるのだが。</p>

<p>フンタがタイトルにもあるので主人公のはずと思っていたら、最初は老医師のディアス・グレイの視点から入って来ているので、彼が話を進めるのかと思っていたら、突然ホルヘという「僕」による一人称語りが始まって、どこの視点から話を読めばいいのか最初は少々混乱する。フンタは売春宿の主人だが、そのうさんくささに反して、売春宿を建設する許可が下りるまで出版社の経理をやっている。そして許可が下りると、今度は売春宿をともに経営するパートナーを首都まで戻って必死で探したりと、意外にマジメだったり、情けなかったりする。</p>

<p>そして問題は「僕」。やはり主役はこちらのようで、「僕」の心の動きが物語の中心だ。街の良家の子弟の一人で兄が新婚の妻を残して急死し、その妻が狂気に陥っていて、義理の弟である「僕」と関係をもつ。義理の姉である彼女の弟もまた絡んで来る。この女性が狂っているのかどうか、そしてまだ15～16歳くらいの「僕」が何故こんな狂った状況に身を投じているのか、そこから何を見ているのか、「僕」は本当に正気なのか。それらの点を考えながら、彼の心理をじっくり追うと、なかなか味わい深い作品だなと思った。</p>

<p>そして、匿名の中傷ビラ。これはガルシア＝マルケスの「悪い時」にも登場するが、先だって読んだ<a href="http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/05/post-282.html">「百年の孤独を歩く」</a>にはコロンビアでは現実に今でも行われていると書かれていた。本書の舞台はウルグアイと思われるが、似たような形なのだろう。市井の人々が直接声をあげるメディアのない時代、このビラが今で言うインターネットの掲示板替わりをしていたのだろうか。そして街の倫理に関するスポークスマンは教会の神父。神父を中心とした反売春宿の「紳士同盟」のような組織やビラを作る女学校の少女たちの物語は街の潔癖さよりは、街の過去に対するうしろめたさといった感情や街全体を覆う閉塞感を表現していて、とても重苦しく感じる。地味に暗い話だが、どんどん読める感じではある。</p>

<p>本作はバルガス＝リョサの「緑の家」とロムロ・ガジェゴス賞を争ったというが、その派手さにはそりゃ負けるわと思う。著者本人が向こうは「オーケストラつきだから」と言うのも納得。でも、その地味さが読みやすさでもあると感じた。</p>

<p>それにしても相変わらずこの「セルバンテス賞コレクション」の装丁はすごい。「ラテンアメリカ文学選集」の装丁は地味だが素敵だった。あれが地味すぎたから今度は派手にしようと思ったのか、派手の基準を間違えたのか。そして相変わらずあとがきは「マリオ・バルガス＝ジョサ」だし。イヤ別にどちらが正しいかなんて興味はまったくないけれど、検索のことを考えたら、統一した方が良いのではと以前からずっと思っていたが、こういう人名表記なんていうのは翻訳者はそれぞれのこだわりがあるので、編集の仕事ではないかなどと考えていたら、<a href="http://www.hanmoto.com/diary/2011/05/25/539/">こんな文章を読んだ。</a></p>

<p>そうか。現代企画室って常駐スタッフ2人しかいないのか。こんな助成金がないと出せないような本（初版1200部）、そんな構っていられないよね。造本にも装丁にもお金かけられないよね。細かいところチェックしているような暇はないよね。出してもらえるだけありがたいと思わないとね。とも思うけど、やはり納得はいかない。本の内容が意外と良いだけにもったいないことをしているなと思った。</p>

<p><br />
■書誌事項<br />
著者：フアン・カルロス・オネッティ著，寺尾隆吉訳<br />
書誌事項：現代企画室　2011.1.31　328p　ISBN978-4-7738-1101-9<br />
原題：Juntacad&aacute;veres: Juan Carlos Onetti, 1965<br />
</p>]]></description>
            <link>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/05/post-283.html</link>
            <guid>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/05/post-283.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">010)ラテンアメリカ文学</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">フアン・カルロス・オネッティ</category>
            
            <pubDate>Tue, 31 May 2011 00:11:19 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>百年の孤独を歩く―ガルシア＝マルケスとわたしの四半世紀</title>
            <description><![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4309020356?tag=cafebleu0b-22"><img alt="百年の孤独を歩く" src="http://www.cafebleu.net/blog/images/4309020356.jpg" width="200" height="292" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></a></span>著者と知己を得た研究者が長年の交友から著者及びその家族から得られた証言を元に、作品の舞台となった地を訪ねるというガルシア＝マルケスのたぐいまれな研究書ではあるが、一方で現在のコロンビアの旅行記という非常に珍しい面もあり、両方の意味で貴重な本だと思う。</p>

<p>ガルシア＝マルケスの作品にて語られるエピソードが事実に基づくものであることはよく言われることだが、舞台となった場所をこれだけ丹念に訪れて確認した外国人はまずいないだろう。泥にまみれてたどり着いたマルケシータが眠ると伝えられる場所の話など、なかなか聞けるものではないと思う。本書はガルシア＝マルケスの物語は私的な出来事、歴史的な出来事、伝承や地域の音楽などが渾然として形作られているのだということを細部に至るところまで教えてくれる。</p>

<p>南米大陸で今もっとも危険な国であるコロンビアの、観光地ではなく奥地にまで入り込むのはひどく難しく危険なことだろうと思っていたら、実際にそう書いてある。様々な支援者がいて実現できたことだそうだが、まずはご本人の強い意志があってのことだろうと思う。ガブリエル・ミストラルの研究論文を出した後、ガルシア＝マルケス研究をいわばライフワークとして続けていらして、その集大成という形で刊行された本だと思うと、なかなか一気に読めなかった。何年にもわたる、何回にもわたるコロンビア渡航によってもたらされている果実は、日本語だけではもったいないと思ったら、あとがきによると、スペイン語版も出るようだ。</p>

<p>カタルヘナと言えば<a href="http://www.cafebleu.net/blog/archives/2008/08/post-230.html">「コレラ時代の愛」</a>はカタルヘナが見たいが故に観に行った映画だった。DVDを入手したまま放置しておいた「愛その他の悪霊について」もカタルヘナが舞台なのだから、早く見なくては。それにしてもアラン・モネ監督の「カタルヘナ」という映画の情報が入って来ない。作られているのだろうか？</p>

<p>■書誌事項<br />
著者：田村さと子著<br />
書誌事項：河出書房新社　2011.4.30　286p　ISBN978-4-309-02035-8</p>

<p>■目次<br />
序章　ガルシア＝マルケスと知り合うまで<br />
1　グアヒラ半島<br />
2　アラカタカ<br />
3　バランキージャ<br />
4　マグダレーナ河<br />
5　モハーナ地方<br />
6　カルタヘナ</p>]]></description>
            <link>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/05/post-282.html</link>
            <guid>http://www.cafebleu.net/blog/archives/2011/05/post-282.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">010)ラテンアメリカ文学</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">ガルシア＝マルケス</category>
            
            <pubDate>Thu, 19 May 2011 23:12:24 +0900</pubDate>
        </item>
        
    </channel>
</rss>

