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その他海外文学

2011年9月17日

聴く女/トーベ・ヤンソン

聴く女/トーベ・ヤンソントーベ・ヤンソン・コレクションの最終巻はトーベ・ヤンソンが大人の本として出した最初の作品。何かに背中をつつかれるように、心がざわざわして焦りだしたときにトーベ・ヤンソンを読むと落ち着くことを思い出して、読んでみた。

多分それは「リス」のような作品に代表される"島暮らし"の描写なのだろう。厳しい自然と孤独に淡々と闘う姿を見ていると、次第に気持ちが落ち着いて来る。本作でも薪を割っていく仕事や、朝起きてからの一連の動作を儀式のように執り行うことで、気持ちが落ち着いてく様がこちらに伝わって来る。ともに冬を越そうとするリスともなれ合うでもなく、無視するでもない理想的な関係を築こうとするが、自然はやはり意外なことをしてくれるのだ。

表題作「聴く女」では、人間関係をきちんと押さえていく人の基礎能力はやはり「記憶力」なのだなとあらためて思い知らされる。忘れただけではないようだけれど、失われた記憶を再構築していく様が独特の方法で興味深い。「人の話をきちんと聞ける人」はいつの時代もどこででも高い評価を得るが、そんな人の中にもいろいろな思惑があるもの、という話だろうか。あるいは、いい人そうに見える人ほどなめてかかると怖いということだろうか?


「偶像への手紙」はあこがれの作家の新作が評判が悪く、励ましたくて初めて手紙を書き、そして自分の住所を書いたことから一線を越えてしまった女性の話。誰しも「偶像=アイドル」はいるが、そこに近寄ることを禁じているうちは良かったのに、踏み込んでしまったときのあの気まずさといったら独特のものがある。ファンレターのみの昔と違い、今はtwitterなどで気軽にみんな話しかけているが、あの気まずさを感じることが少しは減ったかもしれない。しかし、やはり踏み込んで良い相手と悪い相手がいるのだと感じている。それは相手にとって、という意味ではなく、自分にとって、という意味なのだが。


「砂をおろす」や「発破」に見られる、働く人に憧れる子供への目線が厳しくも優しいところがトーベ・ヤンソンらしいなと感じた。

■書誌事項
著者:トーベ・ヤンソン著,冨原眞弓訳
書誌事項:筑摩書房 1998.5.5 202p ISBN978-4-480-77018-9
原題:Lyssnerskan, 1971. Tove Jansson

■目次
聴く女
砂を降ろす
子どもを招く
眠る男
黒と白―エドワード・ゴーリーに捧ぐ
偶像への手紙
愛の物語
第二の男
春について
静かな部屋

灰色の繻子
序章への提案


発破
ルキオの友だち
リス

「島暮らしの記録」トーベ・ヤンソン
「フェアプレイ」トーベ・ヤンソン

今回は、ほぼ定価で古書にあったので買ってしまったが、上記2冊はまだプレミアついて高い。

2011年7月28日

世界文学とは何か?/デイヴィッド・ダムロッシュ

世界文学とは何か?600ページという量と価格の高さに二の足を踏んでいたのだが、読んでみると驚くほど平易な文章で、読みやすく、おもしろい。学術書のイメージだったのが、完全に違った。読みやすさには行間に余裕のある組版のせいもあるだろう。

そもそも「世界文学」という言葉になんとなく懐かしさを感じて惹かれていたのだが、その理由が読み始めてすぐにわかった。そうだ。"Weltliterature"だ。これは懐かしい。ゲーテが「国民文学」に対抗する言葉として造った言葉だって教わったような記憶がある。そうそう「エッカーマンとの対話」っていうから、ゲーテが書いたんだとばかり思ってたらそうじゃなくて変だなと思っていたのだけど、そういう事情だったんだね...というような懐かしい記憶をたどりながら読んでいたら、あっという間に引き込まれてしまった。

あれ?何の本だったっけ?と思った頃にぶつかるキーワードをこの先の糧にする。

世界文学の作品は、世界中へ移動していくときに新しい生命を授けられる。
(略)
本書でこれから論じるのは、主として、翻訳で何が失われ、何がえられるのかということだ。

そして、ギルガメシュ叙事詩の話になると、インディー・ジョーンズのような考古学的冒険譚が始まり、ちょっとわくわくさせられる。当然のことながら、神話や聖書の話が出てくるので、これもまた懐かしいにおいがする。著者は比較文学の人なんだろうとぼんやり感じていたのが確信に変わる。

次に、メソポタミアの地から、アステカ王国へと、連れていかれる。スペインから来た宣教師たちが、キリスト教の教義を現地の民に教え込むのには、彼らの神・文化に精通する必要を感じて、彼らの詩を研究する。押しつけられた文化であっても融合していく力をもっていた南米の文学。

そして次は、アフリカへ。かつて世界文学と言われたものが、いかに西洋文学に偏っていたかを、ノートンやハーパーコリンズなどいくつかの選集に収録された作品の変遷を実例に解説してくれる(こういう作業が私は大好きだ)。徐々に非西洋文学と女性作家が増える様を語りながら、普遍的と言われた作品の、時代による評価の変化を示してもくれる。

こうやって著者は具体的な作品をていねいにとりあげながら、読む者を世界のあちらこちら、古代から現代までに連れ出して飛んでいく。カフカと言えば、20年前でも「難解」「不条理」「世界の中の孤独」といった扱いをされていたが、次第に実際はローカルの色濃く、意外に楽しげなものに変化していったように思う。リゴベルタ・メンチュウの物語が事実か事実ではないかは重要ではなく、ブルゴスとの共同作業がもたらしたものが何か教えてくれる。次にミロラド・パヴィチ「ハザール事典」の密かな政治性を教えてくれる。パヴィチは公式サイトをもつ現代作家だ。

読書として充分に楽しむことが出来たので、この本を研究書として敬遠しなくてよかったと思うが、それでも自分の中で消化できたとはとても思えないので、いくつか引用だけ記しておき、いつの日かまた読んでみたい(そんな日は来るのか?)

翻訳がすぐに古びてしまうのはよくあることだ。文化に対する文学観が変わると、ある時代では一番良い翻訳もすぐに時代遅れになる。原テクストのトーンや価値観をまったく再現できなくなるし、翻訳としての役割も訳が生みだされた文化が発展するなかで、十分にはたせなくなるからだ(p258)。


どうして悪い翻訳はできるのか? 解釈がみなそうであるように、翻訳が失敗する基本的な理由は二つある。はっきりとした誤訳―単純な間違い―か、あるいは、原作の力と美しさを伝えられていないかだ(p260)。


純粋な普遍主義というものは、倫理的にも美学的にも、作品の実際の複雑さを矮小化し、最後には損なってしまう。かといって、作品はローカルなコンテクストとありとあらゆる点でつながっていて翻訳で表現しきれるものではない、原文で読んでこそ意味がある、という正反対の主張も同じように無益だ。世界文学の作品をきちんと読むためには、両面を同時に生かすようにしなければならない(p425)。

「世界文学とは何か?」最終章でダムロッシュは明確な回答を提示してくれている。

1.世界文学とは、諸国民文学を楕円状に屈折させたものである。
2.世界文学とは、翻訳を通して豊かになる作品である。
3.世界文学とは、正典(カノン)のテクスト一子委ではなく、一つの読みのモード、すなわち、自分がいまいる場所と時間を越えた世界に、一定の距離をとりつつ対峙するとうい方法である。


繰り返しダムロッシュが述べているのは、文学作品は世界を旅して豊かになっていくということだ。受け入れる国の時代や文化、伝統、さらにはその時の作家たちのニーズによって変わっていくものだが、そうやって発した国と受け入れた国のどちらか一方の文化に閉じこめられることなく、世界文学として生きていく。私たち読者はは今ここで偶然出会った作品の翻訳を楽しめばいいのだと感じた。


■書誌事項
著者:デイヴィッド・ダムロッシュ著,秋草俊一郎,奥彩子,桐山大介,小松真帆,平塚隼介,山辺弦訳
書誌事項:国書刊行会 2011.4.14 196p ISBN978-4-336-05362-6
原題:What is World Literature? David Damrosch, 2003

■目次

序章 ゲーテ、新語を造る
 第一部 流通
 第一章 ギルガメシュの探求
 第二章 法王の吹き矢
 第三章 旧世界から全世界へ
第二部 翻訳
 第四章 死者の都で恋して
 第五章 マクデブルクのメヒティルト、その死後の生
 第六章 カフカ、故郷へ帰る
第三部 生産
 第七章 世界のなかの英語 
 第八章 活字になったリゴベルタ・メンチュウ
 第九章 毒の書物
 終章 ありあまるほどの世界と時間

2010年11月19日

昼の家、夜の家/オルガ・トカルチュク

昼の家、夜の家/オルガ・トカルチュクポーランドの作家の初翻訳。ポーランドとチェコの国境地帯にある小さな町、ノヴァ・ルダとその近隣の森や山が作品の主役。冬はおそらく厳しい寒さに襲われる森の中で主人公の女性が暮らす姿がめんめんとつづられていくのかと思ったら、突然インターネットのサイトの話になったりする。暗かったり重かったりはしない。軽やかな筆致で進められるので、さくさくと読み進めることができる。

彼女の夢想や日々の暮らしの話、キノコのレシピや自然の姿、街の歴史、土地の聖女の物語とその伝記を書いた修道士の話、木こりの話...などが111の断片になって互いに関連しながら、とびとびで登場する。日常と歴史・物語が交錯するので、南米のマジック・リアリズム好きには意外に好みの作品。日常を描いた部分がエッセイっぽいなと思っていたら、作者はエッセイでも活躍しているらしい。

主人公の家の隣にマルタという老女が一人で住んでいるのだが、この人がとても頻繁に登場する。以前鬘を作る仕事をしていたそうで、家の中には鬘がたくさんしまっているようだ。それだけでもなんだか不気味な感じなのだが、主人公は彼女がとても好きなようで、なんども訪れたり招き入れたり、買い物に出かけたりしている。彼女と一緒にいる時間が長く、観察しているうちに「マルタのように歳をとりたい」と思う。「たっぷりある午前中」「のんびりした午後の楽しい時間」...。

それからわたしは、こう思った。問題はたぶん、老いではない。ある年齢になりたいのではなくて、わたしが言っているのは、ある生き方なのだ。ああいう生き方は、たぶん、歳をとったときにだけできるのだ。なにも行動しないこと。あるいは、なにかするにしても、急がないこと、あたかも結果は重要でないかのように。

ここからまた面々とどんな生活なのかを連ねている。単なるのんびりとした老後、という意味ではない。「焦らない」「結果は求めない」というのは歳をとらないと出来ないことなんだろうなと思う。そう思うと、歳をとればそうしてもできるのなら、それまでは急いだり結果を求めたりしてもいいのかなと思ったりもする。急いでいること、常に結果を求めることに何故かいくばくかの罪悪感があったりするからだ。

東欧文学は比較的親しみがあるものの、あえて熱心には読んでいないのだが、これはジャケ買いならぬ装丁買い。こんな絵が好き。アリツィア・スラボニュ・ウルバニャックというポーランド人の画家だそうで、国立にある画廊を一度見に行きたい。白水社のエクス・リブリスは中身も良いが、装丁に気合いが入っていて、どれも素晴らしい。

翻訳された小椋彩さんは沼野充義先生のところの方だったようで、さすがロシア・東欧文学の権威、良い人が育っているようで、今後もどんどん翻訳を出してもらいたい。

昼の家、夜の家
著者:オルガ・トカルチュク著,小椋彩訳
書誌事項:白水社 2010.10.19 380p ISBN4-560-09012-2/ISBN978-4-560-09012-1
原題:Dom Dzienny, Don Nocny, 1998: Olga Tokarczuk

2010年9月 9日

島暮らしの記録/トーベ・ヤンソン

島暮らしの記録せっかくトーベ・ヤンソンの「フェアプレイ」を読んだのだから、クルーヴハルにまつわるエッセイを読んでみようと思った。

30年間もの島暮らしをするからには、それだけの土壌があるのだと知った。さすが彫刻家の父と画家の母の間に産まれた子だけあって、子供の頃から夏は「島」というのが定番だったようだ。

プロの助けは借りたが、自分たちで作った小屋だったということを知った。もう結構売れっ子だったと思うのだが、ヨーロッパ人というのは意外となんでも自分で作る。どんな貧乏でもサウナを自宅に作るのがフィンランド人だそうだ。サウナは日本人でいうところの風呂なので、それはなんとなく理解できる。

伝記には1965年~1995年頃までトーベはここにいたとある。1964年秋から作り始め、雪が降る頃に一度停止、翌年春からまた再開して、夏には住んでいた。ムーミンが書かれたのは1945年~1970年なので、「ここでムーミンが産み出されました」というのは嘘ではないが、かなり違う気はする。

さて、長い待機が始まった。わたしは孤立とは似ても似つかぬ、新手の隠遁にはまりこむ。
だれともかかわらず、部外者を決めこみ、なんにしろ良心の呵責はいっさい感じない。

トーベとトゥーリッキとトーベの母親のハムの3人の女性芸術家がそれぞれ自分の芸術に向かい合う。諍いがないわけではないが、それぞれの領分をそれなりに守って暮らしていたのだろうと想像する。だって、あんな狭い小屋の中で...と思ったら、ちゃんと外に仕事場を作っている人もいたようだ。

石と水平線ばかりで暇をもて余さないか、自然の緑が恋しくならないかと、
島を訪れる客たちに訊かれて、ハムは驚きを禁じえない。

海の近くに暮らしていると思うのだが、海は季節によって、時間によって、天候によって、すごく顔を変える。飽きることはない。

静寂がないと、孤立していないと、芸術は生み出せないのだろうなと思う。でも気の置けない友人はそばにいて欲しい。

ところで、例のドキュメンタリーでも言ってたが、「クルーブハル島」という言い方は変だ。「クルーブハル」もしくは「クルーブ島」だろう、とか細かいことを思ったりした。

■著者:トーベ・ヤンソン著,冨原眞弓訳
■書誌事項:筑摩書房 1999.7.25 ISBN4-480-83705-1
■原題:Anteckningar från en ö , Tove Jansson

2010年9月 3日

池澤夏樹個人編集 世界文学全集 第3集 短篇コレクションI

池澤夏樹個人編集 世界文学全集 第3集 短篇コレクションI河出書房の世界文学全集、南米で初訳だけという限定で買おうとしたら結局「楽園への道」だけになってしまった。初訳はないが「南部高速道路」をトップに持って来たというセンスの良さと、ルルフォを欠かさなかった正しさを評価して、「短篇コレクションI」を読んでみた。

フリオ・コルタサル「南部高速道路」
この作品、「悪魔の涎・追い求める男」ではなく、『ユリイカ』1983年7月号の「ラテンアメリカ文学」で初めて読んだ。そのとき作りたいと思っていたものを、今回良い機会なので、作ってみた。

南部高速道路

クルマの配置図なのである。1列12台だが、外側は省略した。プジョー404を中心にしているが、前のシムカとタウナスの位置関係がわからない。読むと、両方ともプジョー404の前のように見える。また今ひとつ確認できないのが、IDシトロエンとボリューだ。誰か、これが正しいというのを教えて欲しい。
この話はいわば都会の遭難物語なのである。8月からたぶん11月か12月頃にかけてのパリに向かう道路が舞台。片側6車線の上下線を合わせ12車線全部を上りにしているから上記の図は右にあと3台、左にあと2台いるはず。食料や水の確保、医療や看護の相互扶助等からリーダーが自然発生的に生まれ、共同体が創設される。その中では諍いも起こるし、他のグループとの駆け引きも発生するし、中には失踪する者あり、自殺する者あり、病死する者あり、妊娠する者ありという、不条理というか(来るはずのものを待っているからゴドー待ち?)ファンタジイというか、少し変わった物語が進行する。最後に渋滞が突然解消され、共同体は崩壊する。日常の中での遭難というテーマがおもしろくて、この話はよく覚えている。

オクタビオ・パス「波との生活」
この作品には「波と暮らして」という訳もある。どちらの方が正しいかなんて、私にはわからない。この先二人でどうやって逃げるのだろう、わくわく、と思わせて、一瞬で捕まって1年経ってしまうという展開は時間の使い方が意表をつく。

フアン・ルルフォ「タルパ」も昔のメキシコの聖人信仰の強さなど知らないとわからないかもしれない。それにしても暗い...底抜けに暗いけど、ルルフォ短篇の完成度の高さ、流れの美しさには毎回感動を覚える。

張愛玲「色、戒」
戦前から戦時中初期の中国のスパイものって、こういう雰囲気にならざるを得ないのか。衣装とかきらびやかさは「上海バンスキング」?二人で「相手は自分を愛している」と思っているところがおもしろい。

ユースフ・イドリース「肉の家」
イスラームの禁欲主義から、こんなえぐい話が出来てしまう。日本も戦前の田舎で、封鎖的で人の目がうるさそうなところほど、夜這い文化があったりするからなぁ。でもこの話、目の見えない人をなめてるでしょう。こんなの、絶対わかると思うよ。

P.K.ディック「小さな黒い箱」
黒い箱ってiPhoneの黒ですか?なわけない。テレビの前においた取っ手のついた黒い箱で宇宙人と交流できるSF。禅ブームだったアメリカの頃を思えば古くさいと感じられるし、この黒い箱をガジェットの一つと思えば新鮮に感じられる。

チヌア・アチェベ「呪い卵」
短いながら、天然痘のせいで人気のなくなった市場の恐ろしい空気がじわっと感じられる作品。キーワード一つ一つが私の思うアフリカ文学らしさ満載だ。「キティクパ=天然痘」「お飾りをもらう=天然痘にかかる」「夜の仮面」「鈍いの卵」等。ナイジェリアというと、どうしても知人のアフリカ人のビジネスマンを思い浮かべてしまうのだが、大きく外れてはいないのかもしれない。

金達寿「朴達の裁判」
なるほど、プロレタリア文学にユーモアは少ない。みんなきまじめすぎる。こんな転向してばかりの主人公は通常の左翼文学では許されないだろう。それにしても、100ページ近い。これは短篇か?。

ジョン・バース「夜の海の旅」
「泳ぐ」を「生きる」と読み替えて読むと、すんなり読めてしまう。

ドナルド・バーセルミ「ジョーカー最大の勝利」
アメコミが嫌いなので、全然わかりません。

トニ・モリスン「レシタティフ─叙唱」
白人と黒人の女の子が8歳のときに児童養護施設で知り合って、その後大人になって再会し...なんていう出だしだったので、ベタベタな友情ものを一瞬想像したが、そんなことはまるでなかった。意図的にどちらが黒人でどちらが白人かわからないように描かれていて、あえて混乱させようと、人種的アイデンティティをわからなくさせてから読ませようとしている。私は「ロバータは黒人、トワイラは白人」と根拠なく決めて読んでいた。そうでもしないと居心地悪くて読み進められなかったからだ。この紀要の「人種をこえる娘たち」が詳しい。

リチャード・ブローティガン「サン・フランシスコYMCA讃歌」
よくわかりませんが、おもしろいかな。

ガッサーン・カナファーニー「ラムレの証言」
人にやられてイヤだったことは人にするのをやめましょう...という民族的記憶というのは存在し得ないのだろうか。老人と少年の視線が交錯したそのとき、引き継がれた何かがあったのだということが、じわっとわかる。哀しい記憶が引き継がれてしまったのだろう。

アリステア・マクラウド「冬の犬」
雪と氷に閉ざされた冬の厳しさとゴールデンリトリバーの黄金色の毛のふさふさ感がなんともいえずマッチしていて、カナダらしいと言えばそうなのだが、何とも感じの良い作品だ。カナダっていうとこういうイメージだが、日本の東北っぽさがないのは、海のせいか、木の高さのせいか?

レイモンド・カーヴァー「ささやかだけど、役にたつこと」
パン屋がなぜ「こんなふう」になってしまったのか。空虚な人生を送って行くことが、どれほどの対価を支払わなくてはならないことになるのか、というお話かなと。彼は少しでも取り戻すように、若い夫婦と夜を徹して話しているのだろう。

マーガレット・アトウッド「ダンシング・ガールズ」
「緑したたる未来の楽園はあらかじめ失われている」それでも夢を見てもいいでしょう?アラブの民族衣装を着た彼ら、みんなが一緒にいるところを。いい話だと思う。さすが岸本佐和子訳。ジャンル的に積極的には読まないが、文芸誌やアンソロジーで見かける岸本さんの訳された作品はおおむねおもしろい。
変な下宿屋で息が詰まるお話かと思いきや、なかなか愉快。それにしてもどうして狭量な中年女性の子供は、頭の悪い粗野な子供になるんだろうな。

高行健「母」
懺悔の話なのだけれど、「僕」というのが辛くなって、「彼」と言ってしまって混在しているところが、すごくいい。中国人は親を、子を大切にするものだと思っていたのだけど、文革とか天安門とか、いろいろあったからかな。こういう物語が出てくるのは。

ガーダ・アル=サンマーン「猫の首を刎ねる」
比較的最近見たテレビでイスラム圏から日本に留学している若い女性が「自分の国では貧乏な男とぶさいくな女は一生結婚できない。」と言い切っていた。一夫多妻制だから財産のある男のところに美人が集中し、子供もそこでたくさん産まれるから、それでいいらしい。と語る留学生本人は美人だったけど、それがイヤで留学してるんだろうに。テレビで顔を出すなんて、ナディーンのバンジージャンプ並にすごいことでは?それにしてもおばさんの花嫁の口上はすごい。奴隷どころか、二次元の女の子以上ですよ、みなさん。

目取真俊「面影と連れて」
沖縄の話というと、戦前戦時中の話が多いのだが、これは戦後(1955)~海洋博(1975)の頃の話。うっすらと記憶に残っている。主人公の女性は逆子で産まれてきて、少し知的な遅れがあって、親からは見捨てられ、小学校でいじめにあって登校拒否になる。悲惨と言えばそうなのだけど、不思議とそんな感じはしない。

■書誌事項:河出書房新社 2010.7.1 ISBN978-4-309-70969-7
■内容:
「南部高速道路」フリオ・コルタサル著,木村榮一訳 Julio Cortázar : La autopista del sur, 1966 (「悪魔の涎・追い求める男」1992)アルゼンチン
「波との生活」オクタビオ・パス著,野谷文昭訳 Octavio Paz : Mi vida con la ola (「鷲か太陽か?」2002)メキシコ
「白痴が先」バーナード・マラマッド著,柴田元幸訳(「喋る馬」2009)アメリカ合衆国
「タルパ」フアン・ルルフォ著,杉山晃訳 Juan Rulfo : Talpa, 1950 (「燃える平原」1990)
「色、戒」張愛玲著,垂水千恵訳(新訳)上海
「肉の家」ユースフ・イドリース著,奴田原睦明訳(「集英社ギャラリー 世界の文学 20 中国・アジア・アフリカ」1991)エジプト
「小さな黒い箱」P.K.ディック著,浅倉久志訳(「ゴールデン・マン」1992)アメリカ合衆国
「呪い卵」チヌア・アチェベ著,管敬次郎訳(新訳)ナイジェリア
「朴達の裁判」金達寿著(「金達寿小説全集6」1980)在日朝鮮
「夜の海の旅」ジョン・バース著,志村正雄訳(「アメリカ幻想小説傑作集」1985)アメリカ合衆国
「ジョーカー最大の勝利」ドナルド・バーセルミ著,志村正雄訳(「帰れ、カリガリ博士」1980)アメリカ合衆国
「レシタティフ─叙唱」トニ・モリスン著,篠森ゆりこ訳(初訳)アメリカ合衆国
「サン・フランシスコYMCA讃歌」リチャード・ブローティガン著,藤本和子訳(「芝生の復讐」1976)アメリカ合衆国
「ラムレの証言」ガッサーン・カナファーニー著,岡真理訳(『前夜 2005年春号』2005)パレスチナ
「冬の犬」アリステア・マクラウド著,中野恵津子訳(「冬の犬」2004)カナダ
「ささやかだけど、役にたつこと」レイモンド・カーヴァー著,村上春樹訳(「大聖堂」2007)アメリカ合衆国
「ダンシング・ガールズ」マーガレット・アトウッド著,岸本佐和子訳(「ダンシング・ガールズ」1989)カナダ
「母」高行健著,飯塚容訳(「母」2005)中国
「猫の首を刎ねる」ガーダ・アル=サンマーン著,岡真理訳(初訳)シリア
「面影と連れて」目取真俊著(「魂込め」1999)沖縄

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