その他海外文学 : アーカイブ

2008年1月16日

狼たちの月

狼たちの月/フリオ・リャマサーレス短編集「黄色い雨」のフリオ・リャマサーレスが初めて書いた長編。詩的な言葉がちりばめられ、情景描写も美しい、素晴らしい作品だと思う。

スペインの内戦及びフランコ将軍による圧政と言えばバスクとカタルーニャが有名だが、アストゥリアス地方のものも激烈だったようだ。この地域での反乱が収束した1937年から1946年までの約10年間、山岳地帯に隠れて生き延びた敗残兵の物語だ。家族の住む村近くの山中ので治安警備隊の執拗な捜索から逃れながら生き延びようとする4人の男たち。家族の援助も受けながら、自らも狩りで獲物を捕らえ、いつか形勢が逆転し、反乱軍が敗退することを願いながら、廃坑の中の洞窟で何とか生きている。昼間外に出ることは出来ず、行動は夜に限られている。その孤独で獣のような姿が「狼」のようだということだろう。

アンヘル、ほら、月が出ているだろう。あれは死者たちの太陽なんだよ。

アンヘルたちのことを、生きながら死者のようだという意味なのか。月の光の中でしか生きることの出来ない運命を示しているのか。

ラミーロがある地方の狼をおいこんで捕まえるという原始的なやり方について語る場面がある。素手でもって大勢で追い込んでいき、断崖の奥にある深い穴に落として捕らえ、最後は罵りの言葉を浴びせられながら、あちこちの村を引き回してから殺すという。それはまるで自分たちの運命を暗喩しているかのような言葉だ。

アンヘルは家族や民衆のために戦ったのだから自分たちには義があると思っていたが、ある日自分たちの命を守るため、軍人や治安警備隊ではない一般人を殺してしまう。そこで初めて「後戻りできなくなった」と愕然とするが、「これまでだって後戻り出来なかった」とラミーロに言われてしまう。そこで、アンヘルがこれまでは「いつか昔のように家族に囲まれた平和な生活に戻れる」と夢想していたが、ともに戦って来たラミーロにはそんな幻想はなかったことがわかる。

また、アンヘルが人民戦線に加わった理由が、誘拐した鉱山主に語るシーンがある。人を殺すことの是非を問われ、アンヘルはこう答える。

「家畜、そうだな、来高くて、しかもしつけのいい犬を選ぶんだ。」しばらくしてぼくはそう話しはじめる。「その犬を部屋に閉じこめて、痛めつけてやればいい。すると犬は人間に刃向かい、噛みつくはずだ。場合によっては人をかみ殺すかもしれない。」(p133)

すごくシンプルでわかりやすいたとえだが、真摯な言葉で胸を打つ。

詩的で情緒あふれる言葉は、山の景色、風の音、月の光、自然のあらゆる姿にあふれている。だが、自然描写だけではなく、心理描写も詩的だ。一つだけアンヘルが父親の危篤を義弟から聞かされ、洞窟に戻る場面をとりあげたい。

夜の暗闇の中を、夢遊病者のようにヒースの茂みに足をとられながら洞窟に戻る。その間、父親の記憶が無数のイメージとなってこなごなに砕け、それらの細かな断片がガラスの破片のようにぼくの心に突き刺さる。それらをいくら集めても悲しみの奥に隠されているものを浮かび上がらせはしない。それらは忘却の底無し沼で少しずつ朽ち果てていく運命にあるのだ。(p220)

それでも危険を冒して彼は危篤の父親に会いに行く。

人は絶望の中でどうやって生き続けていくのだろう。村から離れて国を離れるよりほかはないのだが、とにかく10年も村に戻りたくてしがみついている。弾圧を我慢するのも限界になってしまった妹から拒まれ、アンヘルはついに村から離れるが、離れて生きていけるものならば、とっくに離れていたのではないか。

それにしても10年も我慢した家族は立派だ。家族のことを考えたら、とっくに投降するなり遠くへ逃げるなりすればいいのに、生まれた土地から離れられない。食いつなぐことだけで何もせず、それでも生きる姿は無様を通り越して凄まじい執念を感じさせる。

「黄色い月」もそうだったが、「狼たちの月」も装丁が非常に良い。この値段でこの装丁でこの内容。とても得難い貴重な本だと思う。

■著者:フリオ・リャマサーレス著, 木村榮一訳
■書誌事項:ヴィレッジブックス 2007.12.15 272p ISBN4-7897-3187-1/ISBN978-4-7897-3187-4
■原題:Luna de Robos : Julio Llamazares, 1985

2007年4月23日

雪 オルハン・パムク

雪この本を読もうと思ったきっかけは、もともと自分がトルコ好きで去年ノーベル文学賞を受けたのがトルコの作家だったということもあったが、直接的なものとしては今年の1月末頃、フラント・ディンクというアルメニア人ジャーナリストが殺害されたせいだ。トルコには民族問題が存在する。アルメニア人、クルド人という民族が存在しており、過去に虐殺問題があるが、トルコ政府が正式に認めていない‥なんだか国内の事件ではないけれど、どこかの国に似てないか?件のジャーナリストはアルメニア人虐殺問題を声高に叫んでいたのが原因で、以前から極右より脅迫されていたそうだ。オルハン・パムクもトルコ政府はこの事件を認めるべきとの論陣を展開し、「国家侮辱罪」で起訴された過去があるが、パムクはトルコ人だから脅迫されたりはしないとフラント・ディンクの言及があったので、記憶にずっと残っていたのだ。

ところで本書だが、なかなか長い。しかし、一気に読ませるおもしろさが充分ある。正直言うと、8割くらいは一気に行けたのだが、終盤力尽きてしばらく放置してしまった。原因は多分「先が見えたから」。これは私の悪い癖で、著者のせいではない。

それにしても古いなぁと思う。決して悪い意味ではないのだが、埃をかぶった世界文学全集を読んでいる気分だった。いや、埃をかぶった世界文学全集が私は好きなのだけど、2002年に上梓された本とは思えないのだ。理由はおそらく翻訳の文体と、やはり内容かなと思う。内容といっても、テーマ自体はもちろん新しいものだから話の内容ではない。物語の構造は第二次大戦後ヨーロッパの影響を受け、反イスラム文化を掲げて近代化を成し遂げた結果、昨今アイデンティティの危機に陥ったトルコ人がイスラムへ回帰しており、イスラムのテロリスト対ヨーロッパかぶれの文化人くずれの主人公という図なので、これが現在のトルコなんだろうと思うわけで、別にそこに古さとか新しさを感じるわけがない。教養小説くささと異常なまでの恋愛至上主義が18世紀の古典主義文学のように思えたのだと思う。

著者は政治小説なんか書きたくなかったらしく、「最後の政治小説だ」と言っている通り、とても政治小説らしくない面白い恋愛小説だと思う。一番おもしろかったのは、Kaがイペッキとやりたくてしょうがなくて、父親が同じホテルにいるだけで「出来ない」と言われてしまったが故に、必死で父親を追い出す作戦に出たところ。テロリストたちに「実在しない新聞記者に渡してやるから声明文を書け」と言い、コミュニスト代表としてイペッキの父親を推薦し、かつ滅多なことでは外出しない彼を必死で説得するという一連の行動がおかしくてしょうがない。どこが政治小説なんだ…とこの辺では思ってしまった。

とはいえ、イスラムのことはやはり理解できないなぁと毎度のことながら思ってしまう。もっといろいろ読まないとダメなんだろう。たとえばカディフェら髪を覆った少女たちがそのトゥルバン(ターバンとは本書では言わない)を外さないと公の教育機関に入れず、それを苦にして自殺してしまった少女がいるという件。髪を覆うイスラムの女性とはいわばフェミニズムの観点からするともっとも反動的な姿なのだけれど、それをやめろと言われるのがイヤって何それ?と思う。元々アラーの教えは非常に現実的なところから来ていて(あんな暑いところで豚なんか食べたら死ぬよ、そりゃ)合理的なものが根本にあると教わった。髪を覆うのも男からおそわれないよう女性を守るための教えだったわけだが、そもそも女性を守るためのルールを決めるより、襲わないようなルールを決めろよとか思ってしまったりもする。だが何にせよ、己の信念に基づいた行動を他人に迷惑をかけているわけでもないのに、法律違反という理由で止められるのは屈辱という、その辺は理解できるのだが。

トルコのヨーロッパに対する歴史的背景は、日本人からは遠いものだが、トルコはいつだって決して日本と遠い国ではなかったと複数の書籍が教えてくれた。共通点は西洋文化に対して独自の文化、アイデンティティを守って行けるかどうかという試練にいつも立たされているところだと。が、日本の方がヨーロッパやアメリカに対して距離がある分まだトルコほどは激しくないと思う。宗教も対立していないし、トルコ人の方が多分大変なんだろう。

関係ないが、最近のトルコ・サッカーはよくない。2006W杯プレーオフ第2戦トルコ対スイスの話でしばらくの間すっかりトルコ嫌いになってしまった。2002がよかっただけに、なんだかなぁ…。しばらくしたら復活すると思うのだけどね。

■著者:オルハン・パムク著,和久井路子訳
■書誌事項:藤原書店 2006年3月30日 572p ISBN978-4-89434-504-1
■原題:Orhan Pamuk : Kar, 2002

2007年2月19日

柘榴のスープ

柘榴のスープテヘラン生まれの美しい三姉妹がアイルランドの田舎町バリナクロウでペルシア料理店バビロン・カフェを開く。差別や偏見と戦いながら、その魅力的な料理で町の人を引きつけながら次第に根を下ろしていく。そんな中、三姉妹の過去が亡霊のように蘇る事件が起きるが‥といった内容。

アイルランドとペルシア料理、なんだかとてつもなくイメージが結びつかない。一方は官能的で情熱的、一方は寒くて冷たいイメージ。イギリス人にとっては、イラン人というと革命の国から来たイメージなのだろうか、あるいはここに登場するトマス・マグアイアのように「魔女」的なイメージがあるのだおるか。日本人には出稼ぎ労働者が大勢来ていて、国籍を取得するために女性が騙されて結婚して、といった話が身近にあったりして、ちょっとイメージとしてはつかみにくい。

私はどうも「異国へ行って自分の国の料理を広める、あるいは食べさせる」というお話が好きなようだ。例えば「かもめ食堂」(フィンランドにて日本料理を)、「ショコラ」(アフリカ原産の食物をフランスの田舎にて)、「バベットの晩餐会」(デンマークにてフランス料理を)。主人公は必ずプロの料理家で、そういう女性は必ず段取り上手できれい好き。それに加えて偏見と闘う強さもあり、あらゆる面で辛抱強い。おいしそうな食材やきれいな食器、磨かれた調理道具。そういった素材も必ず登場し、すべて好ましく見えてしまう。

この物語の主人公・マルジャーンも妹二人を連れて革命を逃れ、ロンドンで働いてお金を貯め、ようやく安住の地を見つけてアイルランドの田舎に店を開く。偏見をもたずに近づく親切な人たちと追い出そうとする人たちとがいて、最後は必ず追い出そうとする一派が負けるのだが、この小説は途中が少々重たい話になってしまって、さすがイラン革命といったところか。

作者が2歳のときにイランを出てしまっていて、彼女の記憶には実際のイランはないのかもしれない。おそらく家族が語るノスタルジックなペルシアのイメージが植え付けられているのだろう。だからこそ、それだけで押し切ってもよかった気がする。無理にイラン革命の暗い面を書かなくても、とも感じた。著者が実際のところを「知らない」からこそ、かえってそれが出来ないのかもしれない。

三姉妹にとってアメリカナイズされた革命前のイランの方が楽しく、美しいものだったような描き方なので、いいのかな?と思いつつ、おそらく実際そうなんだろう。だいたい世界の歴史上「革命」と名の付くもので、女の人が幸せになったことはあまりない。

各章ごとにレシピがのっていて、材料も通販などで手に入れられそうなものばかりだが、さすがに難しそう。東京のペルシア料理屋はざくろ(日暮里)ボルボル(高円寺)LARIN(江古田)あたりが有名か。ベリーダンスや水たばこは避けたいし、少々都心から外れてる。アクセスが良いのはアラジン(六本木)か。ペルシア料理とトルコ料理は本書を読む限り、結構違う気がするんだが。私はこの中ではやはりザクロのスープと、ドルメを是非食べたい。とても難しそうだ。フェセンジューンなら前出の店で食べられるらしいが、ドルメは無理そう。

■原題:Marsha Mehran : Pomegranate Soup, Random House, 2005
■著者:マーシャ・メヘラーン著,渡辺 佐智江訳
■書誌事項:白水社 2006年7月10日 266p ISBN4-56-002746-3
■内容:第一章 ドルメ(米と挽肉をぶどうの葉でつつんもの)/第二章 赤ヒラ豆のスープ/第三章 バクラバ(お菓子)/第四章 ドゥーグ(ヨーグルトドリンク)/第五章 アープグーシュト(ラム肉の煮込み料理)/第六章 ゾウの耳(お菓子)/第七章 ラヴァーン(パン)/第八章 トルシー(漬物)/第九章 チェロウ(ご飯)/第十章 フェセンジューン(柘榴とクルミと鶏肉の煮込み料理でご飯に添えて食べる)/第十一章 偏頭痛薬/第十二章 ザクロのスープ/エピローグ ラベンダー&ミント・ティー

2007年1月14日

石の葬式

石の葬式ギリシャの山あいの寒村が舞台。時代はおそらくは1960年代で、一応自動車なんかも走っており近代化の波は押し寄せているのだが、日本と同様とりのこされる集落はあるということ。短篇集の体裁はとっているが、登場人物と舞台が重なるので、連作に近い原題は「ささやかな悪事」あるいは「ささやかな不道徳」といった感じか。ニキフォロのような大きな罪を犯す者もいれば、イェラスィモ神父や医師のような小市民的な罪を犯す者もいる。さびれていく地方の厳しい現実を描いた物語‥などではなく、ユーモアもあり、不思議な話もあり、なかなか面白い。短篇のわりにほとんどの話に安易な結末がつかず、ひねりがきいているところがよい。
「地震」が文学の大きなテーマになる国って、実はあまりない気がする。「チリの地震」(クライスト)くらいしか記憶がないが、日本人としては親しみやすさを感じる。ギリシャは地震が多いんだろうな。

テオ・アンゲロプロスの世界って、こんな感じなのかなと思った。やっぱりDVD BOX買おうかどうしようか。迷う。

■原題:Little Infamies : Panos Karnezis, 2002
■著者:パノス・カルネジス著,岩本政恵訳
■書誌事項:白水社 2006年8月10日 302p ISBN4-560-02747-1
■内容
石の葬式:大地震が起きて墓地が崩れ、過去に葬った棺桶が飛び出して来る。その中に白骨ではなく石の入った棺桶があった。イェラスィモ神父が追求するが、村の人々は語ろうとしない。いきついたところは村はずれに住むニキフォロという男のの信じられない罪だった。‥最後復讐を果たしたかのように見えて、娘たちを罪人にしなかったオチはなかなか秀逸。

ペガサス号の一日:地方をまわる私設バスに一人の女が乗り込んでくる。バスの運転手と車掌は義理の兄弟で、なんだか腐れ縁な感じ。一昔前のアメリカン・ニューシネマやドイツのロードムービーを彷彿とさせる。

神の思し召し:遠縁の遺産相続で引退した競走馬を得た男の話。地方の無知な男の気の毒な話なのだが、男がナイフで自分をバカにした地主を刺し殺そうとするあたり、ラテン・アメリカのマッチョな世界を感じる。ちゃんと女が止めるところがいいのだけれど。スズメバチの動きがなんだか薄気味悪い。

預言者エレミヤ:年金を受け取る事務所で長年申請を繰り返して来た老人が息を引き取る。いきなり現代文学によくある不条理劇の世界。

海辺のクジラ:他の短篇にも頻繁に出てくる村のカフェの店主クジラは元は重量挙げの選手だった。店に来るサファイアという女をくどいているのだが、彼女にはレツィーナという男がいる。まっとうに生きているクジラくんの方が良いと思うんですが。

野獣の日:地主がいかに不正に現在の土地を取得したかという話が出てくるが、このあたりに内戦が影をおとしている。

サーカスの呼びもの:腰から上は人間だが、腰から上は馬という不思議な動物がサーカスから抜け出したがっている。ケンタウロスとメドゥーサが普通に出てきて普通に会話をしているところが、ギリシャっぽい。

老嬢ステラの昼下がりの夢:旅の音楽師がステラのやっている村で唯一の宿屋にやってくる。それなりに宿屋は繁盛しているし、足りない分は家庭菜園でなんとかしのいでいる老嬢の悩みは不眠。この不眠が治る、幻想的なお話なのに、最後に現実的なオチがついて、ちょっとな‥と思っていると、それが「四句節の最初の日」につながっていく。

消えたカッサンドラ:少年はいつだってイイオンナに翻弄されてしまうわけですよ。

汝、癒えんことを願うか:イェラスィモ神父は主教を呼ぶためにこれまで何度も難しい交渉を重ねてきた。やっと成功したので、主教一行を迎える準備を始める。神に仕えている身でありながら、とてつもない俗人であるイェラスィモ神父の大活躍ぶりがおかしい。アレクサンドロの生涯はどんなだったのだろう‥と思わせる。

医者の倫理:何度も登場する村の医師・パンテレオンが主役。彼は医者の免状はもっていないが、こんな寒村に正規の医者なんか来るわけがないので、皆の役に立っているのでいいんじゃないかと。もう老人だが娘盛りの患者に結婚を迫られる。前の話でも出てきた嫁探しに必死になっている肉屋のところかパンテレオンのところか、いずれかに嫁に行けと義父に迫られているからだ。パンテレオンは気の毒に思い、いつもこの義父に処方している薬に髑髏のマークのついた薬を混ぜるのだった。

永遠の生命:よそから来た女が村人たちの写真を撮る。写真に撮られると永遠の生命を得るという伝説はどこにでもあるのだなぁと。

古典の勉強:ネクタリオという村役場に勤める真面目な男がインコを飼って言葉を覚えさせようとする話。ギリシャの古典を覚えさせようとする、そのインコの名前はホメロスというギリシャらしい話。

収穫の神の罪:村の一大イベントであるお祭りの話。最初に男が死ぬ話が入っているが、これは「四句節の最初の日」の続きか?村が干ばつになり、村長は自分たちが食べるのもやっとなので、娘を肉屋に嫁にやることにする。もちろん娘はそれを知らない。ギリギリになって雨が降って、その話をキャンセルにしたが、肉屋は村長を許さず、殺されてしまう。それにしても、この肉屋はもてません。

いけにえ:娘を殺した大切な種牛を息子とともに殺した男の名前がディオニュソスですか。父親が悲しんでいるのに、息子がひたすら牛を殺したことを自慢し続ける。父親は悲しんでいるが、それは妹を殺されたからなのか、牛を殺さざるを得るなかったからなのか。少年にとっては妹の方が大切だったが、父親にとって大切なのが、妹よりも牛であることを父親に認めさせないためなのか、必死で喋り続ける。

冬の猟師:道に迷った猟師たちが村に迷い込む。村人たちは銃に怯え出て行って欲しくて、いろいろと親切にしたり、びくびくしたり。そんな様子を見て少しずつ調子づいた猟師たちは‥。老人が多いとは言え、相手が武器をもっているからと言え、人数で多いのだから、戦えばいいのに。村にはもうそんな気力もなくなっている。

応用航空学:自分で羽根を作って飛ぼうとする男の話。突然イカロスの世界だ。飛ぼうとするのが教会からだったり、つけた羽根が飛べない鳥であるガチョウというオチもいい。

四句節の最初の日:「老嬢ステラの昼下がりの夢」でステラを騙したアリストは男色の看守長をたらし込んで刑務所を出る。これはちょっと長めだが、とても緊迫感のある一つのドラマに仕上がっていて、完成度が高い。

アトランティスの伝説:村がダムになる計画はずいぶん前からあったのに。村の最後。

2006年11月10日

月光浴―ハイチ短篇集

月光浴ハイチの作家の短篇集。「クレオール文学」というのも一時期流行った記憶があるが、それでも翻訳されている量は少ないかもしれない。私がハイチに興味をもったのは、アンナ・ゼーガースがハイチを好きで、ハイチにまつわる小説をいくつか書いているからだ。世界で一番最初に独立した植民地であるが故に歴史上抹殺された土地である一方、コロンブスのせいでヨーロッパ人にとって「楽園」のイメージの強い複雑な島。ブゥードゥー教なくしては語れない文化。フランス語文化圏でありながら、クレオール語がローカル・ランゲッジだったりする。作家たちのサークルはフランスにもカナダのケベックにも、アメリカにもあるという、その不思議な土地の関係。

この中で断トツに面白かったのはエドウィージ・ダンティカの「葬送歌手」だ。と思ったら、アメリカ在住の作家で、ほかに翻訳も出ている(「クリック?クラック!「アフター・ザ・ダンス」)。「葬送歌手」はハイチから何らかの理由で亡命してきてアメリカ社会にとけ込もうとハイスクールに通うハイチ人女性3人のマンハッタンでの物語。

本人の作品ではないが、フレンケチエンヌについての評論「フランケチエンヌ―クレオールの挑戦」が出ているが、他の作家は翻訳されていないようだ。

中南米の歴史的文化的背景も相当複雑だが、ハイチのそれはさらに一層複雑で苛烈な歴史だった。最後に長文の論文が掲載されていて、これがハイチ文学を学ぶ上でたいへん役に立つ。

■原題:Bain de Lune: Anthologie de re´its haíticiens
■著者:立花英裕,星埜守之編,フランケチエンヌほか著
■書誌事項:国書刊行会 2003年11月29日 364p ISBN(文学の冒険シリーズ)
■目次
ほら、ライオンを見てごらん(エミール・オリヴィエ)
昨日、昨日はまだ……(アントニー・フェルプス)
葬送歌手(エドウィージ・ダンティカ)
母が遺したもの(マトリモワヌ)(エルシー・スュレナ)
天のたくらみ(エルシー・スュレナ)
はじめてのときめき(エルシー・スュレナ)
島の狂人の言(リオネル・トルイヨ)
スキゾフレニア(ジャン=クロード・フィニョレ)
ローマ鳩(ケトリ・マルス)
アンナと海……(ケトリ・マルス)
ありふれた災難(ヤニック・ラエンズ)
月光浴(ヤニック・ラエンズ)
私を産んだ私(フランケチエンヌ)
ハイチ現代文学の歴史的背景(立花英裕)

2006年2月 5日

黄色い雨

黄色い雨■原題:La Lluvia Amarilla : Julio Llamazares, 1988
■著者:フリオ・リャマサーレス著,木村榮一訳
■書誌事項:ソニー・マガジンズ 2005.9.10 ISBN4-7897-2512-X
■感想
木村榮一の翻訳だから読んでみた。リョサやコルタサルの翻訳をした人で、ラテンアメリカ作家の方面の人だと思っていたから、スペイン作家は珍しいと思いつつ、手にとってみる。そんなとき2000円以下だと即決で買えるのだが、2000円以上だと、ちょっと考えてしまう。
亡霊が出てくる=幻想文学だというふれこみもあったが、そこから離れた方が良い。孤独と親しみ、孤独を愉しむ、よくある文学のテーマの一つと思って取りかかると、それもまた期待外れに終わる。これは壮絶な孤独との戦いの記録である。廃村に取り残されてたった一人になってしまった老人の10年に渡る物理的、精神的な戦いの様子が、簡素な文章で詩のようにつづられている。
物理的、というのは本当に人が自分のまわりからいなくなってしまう状況を指す。実際は本人も他の村へ移り住むことは不可能ではないのだが、親が苦労して建てた家を離れられなかっただけなのに。それを拒絶したのは単なる頑固だったからか。それだけではあるまい。それだけならとっくに逃げ出すだろう。
冒頭、今まさに亡霊となろうとして横たわっているのか、あるいはすでに死んでしまっているのか。男が、村に人が入ってくる人々の動きを克明に追いながら、荒廃した村を淡々と描写する。それから、最後の一家が出て行き、妻と二人きりになってしまったときのこと、妻が神経を病み自殺したこと、更にさかのぼり、息子が出て行ったときのこと、幼い娘が死んだときのことなどが語られる。一方で、荒廃の一途を辿る村の様子、自分の食料を確保するという「生きる」ための戦いも克明に語られる。
主人公は自分も妻のように気が狂うのではないかという不安におののきながら、一方では「死」に対する恐怖はないと言う。だから最後は開放感と充実感だけが残り、哀しさや悲惨さは感じない。透明感のある美しい小説で、一気に読める。

最後に、本書がとても美しい装丁デザインであることにも目を惹かれる。鈴木成一という有名な装丁家の手によるものだが、装丁って書誌データベースでは検索できないからつまらないな。ホームページくらい作って欲しい。

2005年10月 2日

トランス=アトランティック

トランス=アトランティック■著者:ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ著,西成彦訳
■書誌事項:国書刊行会 2004.9.30 ISBN4-336-03594-6(文学の冒険シリーズ)
■感想
ポーランド人の作家で、第二次大戦勃発直前にアルゼンチンに行き、そのまま故国に帰れなくなったゴンサロヴィッチの作品は日本で意外に訳されている。本作はアルゼンチンの様子は、意図的に出てこないが、当時の文壇を揶揄するような言説が少々ある。ボルヘス全盛期かぁ。そりゃあヨーロッパ気取りが鼻につく、イヤな感じの文壇だったんだろうな。裏寒いのヨーロッパからわざわざラテンアメリカの血湧き肉躍る(?)南を目指した作家には居心地悪かろう。それにしてもシルビア・オカンポとビオイ・カサレス夫妻は毎度評判いいな。

最初、ひどい訳で驚いたが、読み進めるうちにこれが強く意図したものであり、原文にたくさんのしかけがあることを察することができる。次々と現れる「?」と引っかかる言葉たちにどんな意味があるのかあれこれと考えてしまう。「すたすた歩き」とか「ムシャムシャ」とか「バカッ、ボコッ」とか。「息子」が「若さ」くらいのことはわかるんだけど‥なかなか厳しい風刺文学である。

世界中にはたくさんの祖国喪失者はいるが、当時のポーランド人というのも、精神的には相当悲惨だったんだろうな。蹂躙されるとはこのことだ、という分割に次ぐ分割で、ついになくなっちゃったという状態。それを同じ亡命者としては「我々にはショパンがいる」と言い続ける連中を惨めったらしくてイヤ~な感じだったんだということはわかる。

実際、後ろについている日記の方が面白かったりする。他の作品も機会あれば読んでみよう。

2005年9月24日

200X年文学の旅

200X年文学の旅 ■著者:柴田元幸,沼野充義
■書誌事項:作品社 2005.8.27 ISBN4-86-182051-0
■感想
柴田元幸氏の翻訳されている多数の英米文学の作品のうち、私がはまるのが、とりあえずポール・オースターだけなのだが、これだけ精力的にやってるんだから、なんか他にもあるんじゃないかと思って買ってみた。ロシア、スラブ文学の沼野氏と半分ずつというのがまたよかった。沼野氏の方も、現代ロシア文学はわからないが、東欧圏のものは縁浅からず、といったところ。だが、それぞれの評論だったら、ちょっと手が出なかったかもしれない。贅沢な組み合わせについつい、というのは出版者の思惑通りだろう。

こういう評論は自分の幅を広げて面白そうな本を探すときにはぴったりだ。おかげでエステルハージとかゼーバルトとかマグナス・ミルズとかケルテース・イムレとか。いろいろ見つかったので、これからぼちぼち読もうと思う。もちろん、外れもあるだろうが、そこそこ読書が楽しめれば充分。あたりがあったらラッキーと思う。

しかしロシア文学も英米文学も、こういう気鋭の翻訳家・研究者がいるので、その辺の読者は恵まれている。ラテンも独文もあまり若手がいない。ラテンは杉山晃と安藤哲行くらいなものか。それでもやっぱり最近の作品は出てないのだが、それは翻訳家のせいじゃなくて、版元のせいだろう。売れないからなぁ。

最後に独仏クレオール文学の3人の翻訳者を加えた海外文学の座談会がのっている。面白いのだけど、こういうところでもラテンは排除されちゃうんだな。クレオール文学を入れるくらいなら、ラテン入れてくれと思うのだけど、東大がこのライン弱いんだよな‥。現代独文の代表的翻訳家が池内紀になっちゃうんだ。そうかぁ?ま、ちょっと周辺の方ということではぴったりかもしれない。

「ほぼ日刊イトイ新聞」内の担当編集者は知っている。コーナーに詳細が記してある。

2005年1月21日

ユリイカ 詩と批評 特集:翻訳作法

■青土社 2005年1月号(第37巻第1号)

海外文学愛好者であれば、誰か好きな翻訳者がいるだろうと思う。昔っから話が翻訳になると、すぐに誤訳の話になってしまうのだが、この手の話がどうも好きではない。自分が原文で読めれば読むのだから、読めないから翻訳に頼るのだ。一生懸命訳してくれた翻訳者には基本的に感謝しなくては、と思う。

柴田元幸という翻訳界のスターが登場したおかげで翻訳家というものにもずいぶんと脚光が浴びるようになったものだと感慨深い。柴田氏のすごいところは、実は第一はその翻訳量ではないかと思っている。ポール・オースターなんて序の口で、スティーブン・ミルハウザーからなんから、何しろものすごい量なのだ。次に選択眼。昔、村上春樹の訳したものを追いかけて読んでいる英米文学愛好家がいるという話を聞いたことがある。私はさしずめその逆で、村上春樹が訳したものは絶対に自分は好きにならないだろうから、という理由で避けている。私にとってはそうだとは限らないが、彼の翻訳したものを追いかけている人のことは、さほど間違っていないと思う。

アンケートにあった岩淵達治先生の「ばらの騎士」の翻訳が過去の誤訳を全部払拭しているから素晴らしいというお言葉、らしいなぁ(笑)と思った。よく誤訳については怒っていたなぁ。翻訳家が他人の誤訳について怒るのは、それはありですよ。
興味深かったのはそれぞれ「いつかは訳してみたい」と思っているものという質問に対する答え。
野谷文昭氏が「非現実的希望」と断っているが、ガルシア=マルケス全作品の個人訳ってあなた…それは…思うだけで無謀。とりあえず、最新作だけでも、どうでしょうか?
安藤哲行氏、レイナルド・アレナスの「ふたたび、海」の訳、期待してます。

2004年10月24日

世界文学のフロンティア 3 夢のかけら

世界文学のフロンティア 3 夢のかけら■著者:今福龍太編
■書誌事項:1997.1.10 岩波書店 ISBN4-00-026143-6
■内容
死者の百科事典―生涯のすべて(ダニロ・キシュ著,山崎佳代子訳)
海岸のテクスト(ガブリエル・ガルシア=マルケス著,旦敬介訳)
最後の涙(ステーファノ・ベンニ著,和田忠彦訳)
一分間(スタニスワフ・レム著,長谷見一雄訳)
災厄を運ぶ男(イスマイル・カダレ著,平岡敦訳)
ユートピア奇跡の市(ヴィスワヴァ・シンボルスカ著,沼野充義訳)
ゆるぎない土地(ヴォルフガング・ヒルビッヒ著,園田みどり訳)
魔法のフルート(ボフミル・フラバル著,赤塚若樹訳)
かつて描かれたことのない境地(残雪著,近藤直子訳)
コサック・ダヴレート(アナトーリイ・キム著,有賀祐子訳)
ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし―見えない都市(エステルハージ・ペーテル著,早稲田みか訳)
金色のひも(アブラム・テルツ著,沼野充義訳)

■感想
「夢」を扱っていると単純に考えると幻想文学のアンソロジーのように一瞬思われるが、テーマは「ポスト・ユートピア」である。「実現されたユートピア」であるロシア革命に対する反ユートピア文学は社会主義批判の作品である。そしてその後の文学は?ということになる。となると単純に旧東ドイツの作品かと思われるが、そう簡単なくくりでもない。確かにこの中の「ゆるぎない土地」は旧東独出身の作家の手によるものだし、チェコやロシアから亡命した作家の作品もあるのだが‥。
ガルシア=マルケスの「海岸のテクスト」を読みたくて買ったのだが、これは本当にほんの一部だった。なんだか不動産情報誌に載っている「吊り」の物件のようだが、他がはずれてないので文句はない。印象に残ったものだけ。
「死者の百科事典」は死んだ人のすべての行動を記録した百科事典。全員掲載されているわけではないが、対象となった人物の誕生から死までをとある委員会が影ながら見守って報告し、まとめたものだ。非常に詳細なディティールを客観的に記述したものとなっている。これを娘が読む話だが、どこかで同じようなアイディアの作品を読んだことがあるような気がするのだが思い出せない。多分ラテンアメリカ作家の短編だと思うのだが‥。ダニロ・キシュはセルビア語で書く作家というか、旧ユーゴスラビアを代表する作家。東京創元社から同名の短編集「若き日の哀しみ」が刊行されている。
「最後の涙」はイタリアの作家。学校が舞台の作品はどうも苦手なんだな。学校が嫌いだったわけじゃないが、教師が嫌いでね。「聖女チェレステ団の悪童」は売れたようだ。
「災厄を呼ぶ男」のイスマイル・カダレはアルバニアの作家。映画「ビハインド・ザ・サン」はイスマイル・カダレの小説「砕かれた四月」を原案としたもの。この映画の監督は「モーターサイクル・ダイヤリーズ」のウォルター・サレス監督だったりする。ご縁だなぁ。この人の作品は単行本で出ている。
「ゆるぎない土地」は前述のように旧東独出身の作家の手によるもの。他の訳出されたものは
「魔法のフルート」はチェコの作家、故ボフミル・フラバルはちょっと読んでみたいと「世界×現在×文学 作家ファイル」を読んで思っていた作家だ。雑誌「すばる」のチェコ特集とこのアンソロジーにしか入っていないのが残念。単行本出ないかなぁ。こちらのホームページに作品が掲載されている。

2004年10月13日

世界文学のフロンティア 5 私の謎

世界文学のフロンティア 5 私の謎■著者:今福龍太編
■書誌事項:1997.2.10 岩波書店 ISBN4-00-026145-2
■内容
〈わたし〉をめぐる揮発性の原理(今福龍太)
だれでもない人々(フェルナンド・ペソア著,菅啓次郎選・訳)
雨に踊る人(アルトゥーロ・イスラス著,今福龍太訳)
暗闇にとりくむ(ジミー・サンティアゴ・バカ著,佐藤ひろみ,菅啓次郎訳)
『ヴォルケイノ』より(ギャレット・ホンゴー著,菅啓次郎訳)
シャム双生児と黄色人種―メタファーの不条理性を通して語る文化的専有とステレオタイプの脱構築(カレン・テイ・ヤマシタ著,風間賢二訳)
『ザミ 私の名の新しい綴り』より(オードリー・ロード著,有満麻美子訳)
記憶の場所(トニ・モリスン著,斎藤文子訳)
『私の父はトルテカ族』より(アナ・カスティーリョ著,今福龍太選・訳)
裸足のパン(ムハンマド・ショクリー著,奴田原睦明訳)
写真に抗して(アンドレイ・コドレスク著,菅啓次郎訳)
物語の終り(レイナルド・アレーナス著,杉浦勉訳)

■感想
レイナルド・アレナスの「物語の終り」を読みたくて買ったのだが、ついでに他の作品も読んでみると、これがまた非常に濃い。一作ごと読むのがたいへんだ。全体のトーンとして、何らかの形でマイノリティに所属するたちの物語である。
フェルナンド・ペソアはポルトガルの詩人。ヴェンダースの「リスボン物語」で言及されていたのを思い出す。アルトゥーロ・イスラスはメキシコ系アメリカ人(チカーノ)文化の先駆者。ジミー・サンティアゴ・バカもやはりチカーノで、自伝的なエッセイ「暗闇にとりくむ」の暗闇とはチカーノたちがみなもっている暗闇を正面から見つめたものだ。
「ヴォルケイノ」のギャレット・ホンゴーはハワイの日系三世だが、幼いうちにロサンゼルスに転居し、ティーンエイジャーの時代をそこで過ごし、大学以後、アメリカの諸都市に住む。「ヴォルケイノ」では結婚してハワイに帰って暮らしていた頃のことが描かれている。祖母は日本人の芸妓だった。そしてその息子である自分の父親の孤独な人生。ホンゴーの日本人としての系譜、ハワイ人の系譜、そしてアメリカ人としての育ち。最終的に「帰郷」した気持ちを見つけるまでの物語である。
カレン・テイ・ヤマシタの小説も何というか、複雑なもので、ヤマシタの書いた小説に対する論文という形式をとっているが、そんな小説はもちろんない。論文の注がマジメに探すと実は本物も混じっているらしいが、私には当然わからない。アジア系アメリカ人だ。
オードリー・ロードは黒人でレズビアン。またまた二重の意味でマイノリティ。今でこそ「黒人」はマイノリティなのか?だが、1960年代だから、それはもうマイノリティだ。詩とノンフィクションを書くので、どうも小説はないようだ。この作品が当初の目的だったアレナスを除くと一番面白かった。
「裸足のパン」はアラビア語で書くモロッコ方面の作家。悲惨な物語だが、こういうピカレスク文学は大好きだったりする。
さて、アレナスだが、遺稿集の中の一品で、美しいが死の予感に充ち満ちた、少々陰鬱な作品。この人はエネルギッシュなものばかりなので、こういう静かなものは意外だった。もっと翻訳出ないかな。
もう最近は国際情勢が複雑で、○○という国の作家、というのは意味をなさず、○○語で書く作家という表記をするよりほかない。独文は昔からそうで、スイス、オーストリア、ドイツの三国にまたがるので、私たちは「ドイツ語で書く作家」だと教わって来た。旧ユーゴや旧チェコ・スロヴァキアも、それぞれ言語があり、何語を選択するかも作家の主義主張や背景を映し出すため、非常に重要な要素になる。

2002年6月14日

アフリカの海岸

アフリカの海岸■著者:ロドリゴ・レイローサ著,杉山晃訳
■書誌事項:現代企画室 2001.9.20 ISBN4-7738-0110-7
■感想
グァテマラ生まれでタンジェに住んでいる若い作家。ポール・ボウルズに師事(?)していたという。羊の番をする少年の話とコロンビアから休暇に来てパスポートをなくした青年の物語がまったく関係なく進んで、最後の方で交錯する。
モロッコの町並みの入り組んで、乾いた感じが肌に感じられる。幻想的だが、非常に現代的な物語。古い世界と現代社会が入り交じって、意外と面白かった。短いので、気軽に読めます。もっとたくさん読みたいという気になりました。

2001年9月14日

むずかしい愛

■著者:イタロ・カルヴィーノ著,和田忠彦訳
■書誌事項:福武書店 1991.12.1 ISBN4-82884034-6
■感想
何の気なしに、ふらりと買った本が面白いと非常に得した気がする。カルヴィーノは現代イタリア文学の巨匠。ちょっとシュールな作風が気に入っていた。ふと古本屋で見かけたので、軽い気持ちで久しぶりに読んでみた。
現代人の日常の断面で展開される12篇のすべてが「ある○○の冒険」(原題通り)と名付けられた短篇で、どれもこれも面白い。特に気に入ったのは「ある旅行者の冒険」「ある読者の冒険」「ある妻の冒険」あたりか。
「旅行者」はローマへの長い夜行列車でのこだわりっぷりがユーモラス。「読者」は海辺で読書する人のちょっとしたアバンチュールを描いているが、読書と現実とのじりじりした関係が何となくよくわかる(私も海辺では本を読むのが常なので)。「妻」の方は特に不貞をはたらいたわけではないが、やむを得ず朝帰りになった貞淑な夫人が門が開くまでの小一時間を過ごすカフェでの様子を描き、普段は接しない、夜遊びの帰りの人や朝の早い工員などに囲まれている、そのことこそ不貞だ、とするオチがいい。なんとなく、どれもこれも「ニヤ」としてしまうオチばかりだが、「ある夫婦の冒険」のように、ほほえましい作品もある。
なかなかエスプリのきいた作品集。文庫本(岩波文庫 1995.4.1 ISBN4-00327093-2 560円)の方はまだ健在。これはオススメできる。

2001年2月17日

ダブル ダブル

■著者:マイケル・リチャードソン編,柴田元幸,菅原克也訳
■書誌事項:白水社 1990.2.25(1992.5.15第7刷) ISBN4-560-04264-0
■感想
「分身」をテーマにしたアンソロジー。「双子」「影」「自分の人造人間」「鏡」といったモティーフをもった作品を14作集めたもの。収録作品は
  • かれとかれ/ジョージ・D.ペインター
  • 影/ハンス・クリスチャン・アンデルセン
  • 分身/ルース・レンデル
  • ゴーゴリの妻/トンマーゾ・ランドルフィ
  • 陳情書/ジョン・パース
  • あんたはあたしじゃない/ポール・ボウルズ
  • 被告側の言い分/グレアム・グリーン
  • ダミー/スーザン・ソンタグ
  • 華麗優美な船/ブライアン・W.オールディス
  • 二重生活/アルベルト・モラヴィア
  • 双子/エリック・マコーマック
  • あっちの方では―アリーナ・レイエスの日記/フリオ・コルタサル
  • 二人で一人/アルジャーノン・ブラックウッド
  • パウリーナの想い出に/アドルフォ・ビオイ=カサーレス
この中に収録されている「パウリーナの想い出に」が読みたくて購入した。小さい頃から一緒で、魂が結ばれている、二人は一人だと信じていた恋人の突然の心変わりに、傷心のままヨーロッパへ去り、2年後に帰って来た彼の元へ、再び恋人が現れるが‥。結末、というよりは本人の解釈の問題なんだろうけど、わりと意外な結末だった。 他に面白かったのはルース・レンデルの「分身」くらいなもので。一応シャム双生児とか出てくるけど、いまひとつだった。「ドッペル・ゲンガー」の創始者とも言えるジャン=パウルを原文で読んだのは、大学の頃だっけか。独文やってて、このモチーフ知らないでは通らない。ゲーテだって、自分の分身に会った話とか残してるし。文学的にはおいしいのよね。
私の場合、もっと感覚的にこれの存在は子供の頃からあって、鏡がまともに見られるようになったのは、ずいぶん大人になってからだった。だから独文を選んだのかもしれないな。 しかし、少なくともこの本では萩尾望都「半神」以上の作品には巡り会えなかったな。16ページの短篇としては最高傑作だと、やはり今でも思うが、それ以上に、これほどストレートで怖い「双子」の話もないなぁと思う。 (bk1にて購入。7,000円以上だと送料無料なので、ついつい買いすぎた)