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サッカー本

2007年5月21日

蹴る群れ

蹴る群れ「サッカーで世界を知る」ために、私はこういうタイプのサッカー本本を読む。サッカーに関する書籍が全部こうとは限らないので毎回慎重に選ぶが、著者が木村元彦だから間違いはない。

「オシムの言葉」のせいで日本代表のサッカージャーナリストと思った人も多いかもしれないが、木村元彦という人はもともと民族問題のジャーナリストで、旧ユーゴおよびユーゴサッカーををその流れの中で追っていて、「オシムの言葉」を2005年12月に上梓、その後2006年のW杯後にオシムが監督になったためにベストセラーになったという次第。本書はその著者の最新作。Numberほかに寄稿したものをまとめたものだが、民族とサッカー、日本サッカー稗史、GKとは、の3部構成。

戦禍の中過酷な転戦を強いられるイラク代表チーム、実は今とてもセンシティブな立場にあるドイツにおけるトルコ移民、チェコの「プラハの春」によって弾圧を受けた両親の元で育ち、懸命にサッカーで道を探るハシェクなど、様々な国でサッカーで救われた人々のレポートに深い感銘を受ける。当時はアテネを目指すイラク代表のチーム内の内情なんてまるで知らなかったし、やさわやかな笑顔で痛快にヴィッセル神戸を騙して去って行ったイルハンにも知らなかった苦労があったのだなぁと思う。特に日朝サッカー史を取り上げたことは興味深い。

スポーツは様々あるが、サッカーでしか、こんなふうに世界を理解することは出来ないと思う。一つ一つの国の事情が必ず記憶に残って、別の本でつながっていくことが私の場合多いな。

■著者:木村元彦著
■書誌事項:講談社 2007年2月16日 341p ISBN978-4-06-213767-6

2006年9月29日

ナポリのマラドーナ―イタリアにおける「南」とは何か

ナポリのマラドーナ■著者:北村 暁夫著
■書誌事項:山川出版社 2005.11.5 ISBN4-634-49191-5 202p(historia)

■感想
私がイタリアの南北問題に気付かされたのは、ヴィスコンティの「揺れる大地」「若者のすべて」「山猫」といった作品群によるものだ。だから、この本がサッカーにはほとんど関係のない本であることはよくわかっていた。1990年のイタリアW杯でマラドーナ率いるアルゼンチンと開催国イタリアが、マラドーナが救世主となったナポリの地で準決勝を戦うことになった話も知っている。付随していうと、中村俊輔が最初に海外移籍したレッジーナがレッジョ・カラブリアという街にあり、ここが南イタリアの先端で、あと少しでシチリア島というところにあり、貧しく治安の悪い地域であるという話も聞いていた。私の前知識はその程度のレベルだった。だから興味をもったのだ。

本書から、南北問題とひとくくりで言うことが出来るわけではなく、南にも様々な地域格差があり、また、統一前からあった格差は実は小さく、統一後、人為的に拡大していったことなどを教えてもらった。

イタリアからアルゼンチンへの移民と言えば、「母を訪ねて三千里」のマルコがステレオタイプとして有名だが、前から気になっていたのは、もともとスペインを宗主国とし、スペイン語を公用語とするアルゼンチンに、どうしてイタリア移民が多いのだろうということだ。ボカ地区などはほとんどイタリア移民で占められていたという。それが何故なのか、本書を読んでだいたいわかった気がする。イタリア移民が多いからイタリアの二重国籍を取りやすいのに、スペイン語が公用語だし、気候も合っているからといって、アルゼンチンのサッカー選手は皆スペインへ行きたがる、という不思議な現象が起きている。先祖はイタリアに多いというのに…。変だなぁ。イタリアのクラブが北東部に集中しているせいもあるだろう。南部ならともかく、アルゼンチン人には寒いのだ。

先日読んだ別の書籍でもそうだったが、それまであった国内での地域や人種差別が、他民族の移民増加伴い自然と沈静化していくという現象がここでも起きているらしい。人間はどこまでも「差別」を必要としていて、対象が変わることでしかその差別は終わらないという輪廻のようなお話が結末だったのは、なんだかとてもがっかりだった。

2006年9月18日

僕のプレミアライフ

僕のプレミアライフ■原題:Fever Pitch
■著者:ニック ホーンビィ著,森田義信訳
■書誌事項:新潮社 2000.3 ISBN4-10-220212-9 399p(新潮文庫)

■感想
サッカーファンには有名な本書ではあるが、プレミアリーグにさほど興味がないので読まずにここまで来たのに、私がこの本を読んだタイミングが、まさにアーセナルがハイベリーを離れた最初のシーズンだったいうのは偶然だろうか。著者は「自分はアーセナルを愛しているんじゃなくて、ハイベリーを愛しているんじゃないだろうか?」と書いていたが、エミレーツ・スタジアムに足を運んでいるだろうか?

まず、邦訳のタイトルがよくない。サッカーをよく知らない人は「プレミア」ライフでプレミアリーグ生活とは思えないんじゃないだろうか。逆にそれが狙いだったりしたら、不誠実だろう。サッカーファンにはそのまま「フィーバー・ピッチ」でいいんじゃないだろうか。中身がよく伝わってくるタイトルだ。

内容はというと‥これが何とも気恥ずかしい。本書に対する基本的な思いは「シンパシー」だ。寒い雨の中スタジアムに足を運び、負けた日なんか、いったい何のために行ったんだろうと思う。去年からサポーターになった彼女が10年前からじっと優勝を待っていた自分と同じようにチームの優勝を祝う資格はないなんて狭量なこと言ったらはったおされるから口には出せないが、実際心の底ではみんなそう思っている。サッカーにはまった人々は「人生のすべてがチームに支配される」ということにならないよう努力する必要性がある。本当にバカみたいなんである。どんな手ひどい失敗でも、これほどまでに落ち込まないだろうな‥というような落ち込み方をするのだよ、実際(2002年6月12日宮城スタジアムでアルゼンチンのグループリーグ敗退が決まった日が人生で最大につらい日だったかもしれない‥)。

リアル・ライフが浸食されるのを必死で食い止めないと、あっという間にサッカーに覆い尽くされる。普段は試合の中継の日程をチェックして次の試合を見逃さないようにすることが、あるいは次の渡欧をいつにするかを考えることだけが人生になっていくのだ。周囲にそういう輩がいっぱいいた。私は今も尚、そうなることを必死で食い止めている。

だからこそ、「こいつ頭おかしいんじゃないの?」と思えることもたくさん書かれている。著者は「頭おかしい」自分を自虐的にかつ申し訳なさそうに、赤裸々にさらけ出している。これは恥ずかしくて本当に書けないサッカーファンの正直なところだ。


しかし、この著者はこれが最初の出版物でベストセラーなんだから、まさにアーセナルに人生を救われたと言えるだろう。けれど、そんな人は5%未満だろう。80%以上の人はサッカーにまとわりつかれたまま平凡に終わるが、15%くらいの人は結構悲惨なことになってしまうのではないだろうか?

例えば、2002年のワールドカップのボランティアで結婚相手を見つけ、翌年には式をあげた彼女。新築マンションに住まい、とても幸せそうだ(ちゃんちゃん)。

例えば、金子達仁のサッカー塾とか戸塚啓のサッカー塾とか、一流と言われるサッカーライターの小遣い稼ぎに付き合わされ、大学を卒業すると同時にフリーライターなんかやって人生を狂わされてしまった若者たち。彼らの99%はテープ起こしだの、穴埋め記事だの、安くて便利なライターとして消費され、40になっても年収300万以下だ。自宅から独立できず、出来たとしてもボロアパート暮らしで、結婚なんてほぼ不可能だ。そんな人生になってしまったのも、すべてサッカーが悪いのだ(脱線)。

まぁ、それはともかく、やっぱりもっと早く読んでおけばよかったなぁ。最初に戻るが邦題が悪い。読むと気恥ずかしいが、とても楽しい本だ。

2006年9月 3日

フーリガンの社会学

フーリガンの社会学■原題:Le hooliganisme
■著者:ドミニック・ボダン著,陣野俊史,相田淑子訳
■書誌事項:白水社 2005.11 ISBN4-560-50894-1 156p(文庫クセジュ)

■感想
新書版の文庫クセジュにそう多くを望んではいけないとは思いつつ、フィールドワークの少なさにちょっと辟易。生声が聞こえなくてはフーリガンがどんなものか伝わってこない。著者たちは一応聞き取り調査等しているのだが、生々しさに欠ける。ルポルタージュじゃないので、当然といえば当然なんだけど。
過去の社会学的見地から発表されたフーリガンに関する論文をさらっとおさらいした本書は新書らしい薄っぺらさで、あまり本格的には知りたくない人にはちょうどよいかもしれにあ。「フーリガンとは?」という問いに対する答えをこれまでの「イギリス人で労働者で鬱屈していて‥」という固定概念から引きはがそうとしているのだが、明確な答えは出していない。フランス人にもいるしってそんなこと言われてもね。

先日読んだ「サッカーが世界を解明する」にフーリガン華やかなりし時代を懐かしむ人たちが登場したけど、そんなもんでしょう。その後のネオナチ系のサポーターや最近の悲惨なほど増えた人種差別的ヤジに満ちたスタジアムについて考えるにつけ(ワールドカップ決勝でさえも!)、スタジアムの暴力は表面化はしないものの陰湿な方へ向かっていることは間違いない。その辺の最新ルポルタージュを待った方がよさそうだ。

2006年8月28日

ナチス第三帝国とサッカー

ナチス第三帝国とサッカー―ヒトラーの下でピッチに立った選手たちの運命

ナチス第三帝国とサッカー■原題:Stürmer für Hitler Vom Zusammenspiel zwischen Fußball und Nationalsozialismus : Gerhard Fischer / Ulrich Lindner
■著者:ゲルハルト・フィッシャー,ウルリッヒ・リントナー編著,田村光彰,岡本亮子,片岡律子,藤井雅人訳
■書誌事項:現代書館 2006.4.25 ISBN4-7684-6919-1 240p

■感想
社会学系の堅い本を出している出版社のせいか、非常に訳が堅い。原文のまわりくどさ、そのままの部分がかいま見えるが、きっと原文も相当堅いのだろう。それにしても翻訳者はサッカーに対しての知識があまりないようだ。「全国選抜チーム」ってひょっとして、ドイツがかつて分裂していたことと関係あるのか‥?などと勘ぐってしまいたくなるんだが、単なる誤訳か?

現在のドイツサッカー協会が、第二次大戦前のナチ時代にいかにナチにすりよっていたか、そして戦後、親衛隊員だった幹部がそのまま居残ったように、その体質をまったく反省することなく現在まで面々と続いているかが書かれている。しかしナチ時代というのは、どんな組織・団体でもそう言えるが、異常に残されている文献が少ない。少しの典拠で、なんとかここまでたどりつきました、という印象が強い。インタビューはいつもながら、みなぽっかり記憶喪失で、「政治は関係ない、ただサッカーがしたかった」という決まり文句が出てくるばかり。著者たちはさぞ苦労したことだろう。ベッケンバウアーだって同じ流れの同じ穴のむじななんだなぁ。

本書にはユダヤ人がいかにクラブチームや代表から排斥され、除外されてきたかが書かれているが、そう言えば、現在のドイツ代表にどれだけユダヤ人がいるのだろう‥?

覚えておきたいのは、ユダヤ人に対してリベラルなFCバイエルン、反ユダヤ主義のTSV1860ミュンヘン、テクニックのバイエルン、ファイターのTSVというのは俗説で、実際はこの2チームの区別はクラブのある地域(シュヴァービング=バイエルン、ギージング=TSV)によるものだったとのこと。同じミュンヘンの中でもそれぞれの地域に住む住民の違い、カルチャーの違いにより発生していた、いわばローカルのクラブチーム対決によくある図式に過ぎないということ。

1944年の6月といえば、結構敗色の濃い時期だが、まだリーグ戦が行われていたというのだから、どうしてもサッカーしたかったのか、それとも国民の目を欺きたかったのか。

何しろ時間が経過しているため、具体的なエピソードに乏しいのは仕方がない。ディナモ・キエフのように被害者の方が文献が多く、逸話も多く残されている。だからこそ、ドイツ本国でのナチ時代のサッカーを書いた文献が少ない中で、ドイツワールドカップ前に日本で刊行されたことは高く評価したい。

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