ドイツ文学 : アーカイブ

2008年6月11日

ヘルデンプラッツ

ヘルデンプラッツトーマス・ベルンハルト最後の戯曲は、語り手が饒舌なところは相変わらずなのだが、いつもの一方的に語る人が一幕目と二幕目以降と異なる。その上、本来なら語っているであろう人物が故人ときている。つまりこの戯曲で語っている人は、故人がどうだった、故人はこう考えた、ということを延々と語っているのだ。本人だったらもっと毒づいているであろうところが、少し引いたような印象をもつところだ。もちろん、批判をおそれてそういう構造にしたわけではなく、むしろ少し抑えめにでもしないと、爆発しそうな怒りを観客に感じさせてしまうことを避けたのかもしれない。それでも未曾有のスキャンダルだったそうだ。時の首相から大臣、オーストラリア国民全員が罵倒されているのだから、それも当然だろう。

1938年のヒトラーのウィーン侵攻・凱旋演説を行ったヘルデンプラッツ(英雄広場)のすぐ側、そして当のブルク劇場も見えるという舞台背景は劇場の外にいるのか、中にいるのか、混乱させる効果をもっていたのだろう。なんだか1960年代の新宿アートシアターのようだ。外では学生運動のデモ隊と警官が衝突し、劇場の中でも同様の風景が繰り広げられ、劇場の中では混乱した観客が警官役の役者に殴りかかりそうになることもあったそうな。

外の争乱とは、この場合、英雄広場に集まり、ヒトラーを迎える歓喜の声だ。劇場から出たところで、ヒトラーを迎える歓喜の声があがっていたらどうしよう、という怖さを観客は持っていたのではないだろうか?

ベルンハルトって死ぬ直前にすごいことする人だったんだと、この戯曲を読んで実感した。

■著者:トーマス・ベルンハルト著,池田信雄訳
■書誌事項:「ドイツ現代戯曲選30 第30巻」 論創社 2008.5.25 242p ISBN978-4-846000616-7/ISBN4-8460-061-6
■原題:Der Theatermacher, Thomas Bernhard, 1984

2008年6月 3日

座長ブルスコン

座長ブルスコン随分とこれも待たされた気がする。右上の「刊行されるのを待っている本」のコーナーにずっとおいておいた本だ。

ベルンハルトの戯曲は「リッター・デーネ・フォス」以外は読んだことがなかったが、小説と変わらず、饒舌・毒舌、罵詈雑言で楽しい。ナチもオーストラリア国民も、俳優も、女性全般も、自分自身でさえも(非常灯の話は本人の実話だそうな)罵倒し、パロディにする、なんてサービス精神の旺盛な作家なんだろう。

ブルスコンは国民俳優だそうだが、妻と息子と娘の4人だけの劇団でもって地方を公演して回っている。明らかに落ちぶれているのだが、それを妻の欲深のせいにしたり、病気のせいにしたりと責任転嫁しているのだが、明らかに自分のせいだろう。家族は仕方なく付き合っているに過ぎない。それでも息子だけは無類のお人好しらしく、あまり不平も言わず父親に従っている。

座長の一人芝居のように延々と台詞が続けられるが、ちゃんと間をとって、旅館の亭主やら息子やらがひょいひょいと絡んで来るあたりが小説とは違うところだろう。ドイツ語で吠えると、これがまたきっとはまるんだろうな(静岡で5月31日に1回だけやった「エリザベス2世」行きたかったな…)。

1600円とこの手の本にしては随分安いが、ゲーテ・インスティトゥートの助成を受けているらしい。戯曲だから、そんなには高くできないし、アマチュア演劇などで演じてもらうには安くないといけないしなぁ。

そう言えば新潮社「考える人」2008年春号で、海外文学のコアな読者は日本全国で3,000人しかいないそうだ。これは納得できる。以前読んだ本の奥付に何故か初刷部数が書いてあって、そこに「3,000部」とあったからだ。そのときは「自分の読んでいる本は3000人しか読まないと思われているのか」とびっくりしたが、出版業界にいると文学作品の扱いなんて、実際そんな感じだしっていうのがわかってきてしまう。寂しい限り。

■著者:トーマス・ベルンハルト著,池田信雄訳
■書誌事項:「ドイツ現代戯曲選30 第29巻」 論創社 2008.5.25 242p ISBN978-4-846000616-7/ISBN4-8460-061-6
■原題:Der Theatermacher, Thomas Bernhard, 1984

2008年5月25日

かなしい生きもの

かなしい生きものモーニカ・マローンは1941年生まれの東独ベルリン出身の作家。1981年に西側でデビューした。この作品は50代になってから書かれたもので、ちょうど語り手が舞台としている時代の歳頃と同じ位だろうと思う。最初は語り手の女性が何歳なのか、何年頃なのかの設定もわからず、次第に明らかにされていくが、時折また記憶があやふやになっていく。「実際の起きたことと起こり得たことの違い」という表現がされているが、彼女の妄想なのか、実際に起きた事実なのかをあやふやにしながら、時に真実を明確に語りながら、物語は進んでいく。
ちょうど1989年のベルリンの壁の崩壊以後にベルリンの街がダイナミックに変化し、人々の価値観も変化しつつある時代に生きた女性の物語として読むと興味深い。戦争帰りであるその親の世代との世代間ギャップ、彼女の世代における夫婦間のギャップ、娘世代との世代間ギャップ等、激しく変わる時代の中で生きた彼女が信じられるものがなかったのは確かだろう。彼女が唯一信じていた「ブラキオザウルスの前での出会い」のことを気軽に不倫相手の妻に話されて彼女は壊れてしまう。「戻ってくる」という言葉を信じなかった結果が結末だ。

物語の間ずっと不倫相手だった「フランツはもう戻ってこない」と彼女は語り続ける。読者に「何故戻ってこないのか?彼はどこに行ったのか?」という興味で引っ張りながら、上記の時代を生きた女性の不信感というものを突きつける構造になっているのだが、全体として言うと、読み進めるには私にとっては少々厳しいものがあった。確かに、途中に入る過去のエピソードは面白い。特に犬の誘拐の件、「カーリンとクラウス」の件など。しかし、全体的に引っ張れないため、これだけの長さの小説にしては途中なんども放り出しそうになった。多分、50代の不倫っていうのが、あまりに興味が持てないジャンルだからだろうと思う。

できれば、この作者のもう少し前のものを読みたい。が、翻訳されているのは、現在のところこれだけだ。

■著者:モーニカ・マローン著,梁池孝子訳
■書誌事項:あむすく 2001.12.4 195p ISBN978-4-900621-22-0/ISBN4-900621-22-6
■原題:Animal Triste, Monika Maron, 1996
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memo
Flight of Ashes (Flugasche), 1981<飛散する灰>
Herr Aurich, 1982
Das Mißverständnis, 1982<誤解>
The Defector (Die Überläuferin), 1986<寝返った女>
Silent Close No. 6 (Stille Zeile Sechs), 1991
Nach Massgabe meiner Begreifungskraft: Essays und Artikel, 1993
Animal Triste, 1996<かなしい生き物>
Pavel's Letters (Pawels Briefe), 1999
Endmoränan, 2002
quer über die Gleise, 2002
Wie ich ein Buch nicht schreiben kann und es trotzdem versuche, 2005

2008年4月27日

カレーソーセージをめぐるレーナの物語

カレーソーセージをめぐるレーナの物語 「ユリイカ 3月号」を見て読もうと思った本の一冊。「カレーソーセージ」はドイツでは庶民の食べ物として知られているが、日本でいうと何になるのだろう?ということをずっと考えながら読んでいた。あとがきで訳者が「たこ焼き」みたいなものと言っていたが、座って食べるものではない、屋台で買って立ってその辺で食べるもの、という点では当たっている。ただ、たこ焼きはやはり大阪発信の全国的な食べ物なので、1949年のベルリン発と言われているカレーソーセージとは若干ニュアンスが違う気がするが、他に当てはまるものもない。

ところで、そのベルリンが発祥地と言われるカレーソーセージだが、実際は諸説があるらしい。この作品は前述のベルリンより前にハンブルグにて出来たと主張するところから始まる。亭主に逃げられ、子どもは大きくなって一人暮らしをしている40過ぎの主婦と若い水兵の隠れ家生活の話の間は、正直あまり面白くなかった。それが、戦後水兵が出て行って亭主や娘や孫が帰って来て、それからまた亭主を追い出した後、闇市で取引を始めるところから俄然面白くなる。たばこを通貨とした戦後ドイツの闇市の中で、主人公の女性が次々と取引して欲しいものを手に入れていこうとする様が楽しくてわくわくする。

結局彼女の取引は、例の水兵の想い出のせいで大失敗に終わるのだが、そこで転んだことから、逆に大成功へと導かれる。水兵とのロマンスは長い前振りのようなものか。

私がこの本を読もうと思ったのは、終戦直前から戦後にかけてのドイツの話だからというのも一応あるが、やっぱり食べ物の話だからじゃないかと思う。食べ物にまつわるお話は、いつも楽しい。

■著者:ウーヴェ・ティム著,浅井晶子訳
■書誌事項:河出書房新社 2005.6.10 221p(河出モダン&クラシックス) ISBN4-309-20439-2/ISBN978-4-309-20439-0
■原題:Die Entdeckung der Currywurst, Uwe Timm, 1993

2008年3月20日

ユリイカ 2008年3月号 特集・新しい世界文学

ユリイカ 2008年3月号 特集・新しい世界文学「ユリイカ」の海外文学全般特集。最近海外文学を取り上げる頻度が低いので、年2~3回くらいのペースでやってもらいたい。今回の特集で特に注目したのが、ドイツ文学とラテンアメリカ文学。ドイツ文学の解説は瀬川裕司。瀬川裕司と言えばドイツ映画の人…と思っていたのだけど、考えてみたら、そんな狭い範囲のわけがないか。ベストセラーで話題のダニエル・ケールマン「世界の測量―ガウスとフンボルトの物語」(三修社 瀬川)2008年春刊だそうだ。楽しみ~。あとは、モーニカ・マローン「かなしい生きもの」とウーヴェ・ティム「カレーソーセージをめぐるレーナの物語」あたりを読んでみようか。

収録作品の中で気になったのが以下3点。

イグナシオ・パディージャ(メキシコ)「動物小寓話」Ignacio Padilla, "Bestiario Mínimo", 2001
エドムンド・パス=ソルダン(Edmundo Paz Soldán, ボリビア)「夕暮れの儀式」"Ritual del atardecer", 1998
セサル・アイラ(César Aira, アルゼンチン)「悪魔の日記」"Diarion de un demonio"収録
※セサル・アイラは映画『ある日、突然』の原作として知られる。

ラテンアメリカ文学は「ブーム」以後の作家がなかなか日本に入ってこない。ガルシア=マルケスやバルガス=リョサの新作も良いが、そろそろいいかげん新人のを読みたい。別に私は「マジックリアリズム」に限って好き、というわけではないし、南米の人ならなんでもいいというわけでも、もちろんない。ただ、ちっさい話(身近な、卑近な話)があまり好きじゃないというだけだから。

以下は今後なんらかの形でひっかかってくるかもしれないので、キーワードとしてメモをしておく。下で読んだことがあったのはホルヘ・フランコだけだ。というか、それしか翻訳されていないのだから仕方がない。


「ウォークマンと短篇を」
アルベルト・フゲー/セルヒオ・ゴメス(チリ)

「マッコンド」
ロドリーゴ・フレサン/ファン・フォルン/マルティン・レットマン(アルゼンチン)
サンティアゴ・ガンボア(コロンビア)
エドムンド・パス=ソルダン(ボリビア)
ホセ・アンヘル・マニャス/マルティン・カサリエゴ/ライ・ロリガ(スペイン)
ホルディ・ソレール/ナイエフ・イェヤ(メキシコ)


「クラック宣言」
ペドロ・アンヘル・パロウ/エロイ・ウロス/イグナシオ・パディージャ/リカルド・チャベス・カスタニェダ/ホルヘ・ボルピ(メキシコ)

ほか、まとめて。
ロベルト・ボラーニョ(チリ)
フェルナンド・イワサキ/イバン・タイス(ペルー)
ホルヘ・フランコ/マリオ・メンドーサ/(コロンビア)
クリスティーナ・リベラ=ガルサ(メキシコ)
ゴンサロ・ガルセス(アルゼンチン)

2007年9月10日

土星の環―イギリス行脚

土星の環―イギリス行脚刊行を待ち焦がれていて、すぐに購入したわりには、なんだかもったいなくてしばらく手をつけられずにした。それくらい大切な作家だ。しかし、それは何故なんだっけ…?と思って読み始めてすぐ、ああそうそう、この感じ。これが好き、と思い出す。不思議な感じがする。かつて一度も味わったことのない、妙な感じ。随筆でもなければ、小説でもなく、むろん学術書でもない。どこかにかならずホロコーストが入るところかわもわかるように、決して明るくはない。が、陰鬱というわけでもない。なんとも言えないユーモアがある。イングランドの寂しい風景がずっと続くのに、暗くない。心地よい静寂な感じ…とでも言ったら良いだろうか?

1992年に「私」=限りなくイコールに近いが完全にイコールではない=W.G.ゼーバルトがイングランド東部の海岸部を徒歩で散策したときの話。と言っても旅行記ではないし、随筆でもない。その地で実際に旅した情景もあるし、実際に出会った人も出てくるが、その土地土地にゆかりの歴史的な人物や事件、「私」が過去に別の場所で出会ってふと想起させられた人々などが次々と登場する。一応十章に分割されているものの、その一章の中のエピソードからエピソードへの流れは常に滑らかで、切れ目がわからない。


17世紀イギリスの医学者・哲学者トマス・ブラウンはノーフォーク州のノリッジで開業していた。1632年にオランダ・アムステルダムにて公開解剖が行われ、そのときの模様をレンブラントが描き出している。ひょっとしたらトマス・ブラウンはこの公開解剖を見学していたのではないか…?という「私」の想像から、滑るように思考は巡る。

19世紀の大実業家モートン・ピートーが建て、栄華を誇ったカントリー・ハウス・サマレイトン邸とピートー卿の指示のもとイギリス有数の保養地となったロウストフトという街の零落した姿が描かれる。浜の漁師からベルゲン・ベルゼンの強制収容所(アンネ・フランクらが送られた有名なユダヤ人強制収容所)の解放者の一人であったル・ストレインジなる人物、そして「ウクバール」と言えばボルヘスの作った仮想の地名(一言もボルヘスの名は出てきませんが)へと、どうやったらつなげられるんだろうという話を、特につなぐ意志もないようで、それでいてちゃんとつながっていて次々と展開されている。

順を追っていくときりがないが、アイルランド独立運動に荷担したとして処刑された外交官ロジャー・ケイスメント(1864~1916)、浪漫派詩人のアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン(1837~1909)、「ルバイヤート」の英訳者エドワード・フィッツジェラルド(1809~1883)、フランスの政治家・作家のシャトーブリアン(1768~1848)ら多数の人が登場するが、特にジョゼフ・コンラッド(1857~1924)に関する部分が印象に残る。それはコンラッドがはポーランド出身のイギリスの作家だからだろうか。ゼーバルト自身、ドイツ出身のイギリスの作家だから。

「移民たち」を思い起こすまでもなく、ゼーバルトの作品に登場するのは、禁止されていた時代の同性愛者だったり、異邦人だったり、迫害から逃れた移民だったり、はたまた零落した地主だったりと、歴史の流れで世間からはじき出されてしまった人ばかりだ。

そして今回の「土星の環」では、日本人にはなじみ深い「栄枯盛衰」「盛者必衰」の言葉が浮かんで来そうな街や建物が多く登場する。「はかないのぅ…」という感慨はイギリス人も抱くらしい。

いずれにせよ、ゼーバルトの博学ぶりには恐れ入る。おそらく自分が学生だったら飛びつくな…と思う。調べているだけでも楽しそう。

■著者:W.G.ゼーバルト著,鈴木仁子訳
■書誌事項:白水社 2007年8月10日 289p ISBN978-4-56-002731-8(ゼーバルト・コレクション)

2007年4月30日

ミネハハ

ミネハハヴェデキントの本が出ていると気づいたとき、とても驚いた。理由を探すとこの作品を原作とする映画「エコール」が公開されたためだという。なるほど。しかし、なぜ市川実和子?妹の実日子は好きだけど‥と思って後書きを読むと、「戸田史子さんが、原文のドイツ語からまっすぐに訳してくださったものを、 わたしが自分の言葉に色染めていく。」とある。一応「ドイツ語会話」に出ていたこともあってドイツ語は多少はわかるらしいが、これで翻訳と言えるのか‥?彼女の文章にはある意味なっているのだろうけど、不可解だ。リトルモアが出した理由もよくわからない。

フランク・ヴェデキントは私には思い入れの深い作家だ。なんといっても卒論が「地霊・パンドラの箱」なのだから。しかし「ミネハハ」という作品のことは知らなかった。というのも、劇作家だと思っていたからではないかと思うが、なにぶん当時はほかに翻訳されていたのが「春のめざめ」だけなのだから、仕方ない。

ところで、映画「エコール」はストレートに「ロリータ」好きにはたまらんというものらしい。そういう内容だから当然だろう。しかし、女性監督なので、おそらくは本来は少女の美しい姿が描きたかっただけなんだろうと推察できる。ともあれ、見ていないのだから何とも言えない。見たい気もしないではないが、今一つ乗り気になれない。

ヴェデキントは当時とんでもなく危険な劇作家だったのだろう。実際検閲にあい、発禁処分になっている。今読むと、むろんそんな危険な感じはせず、美しい物語になってしまっている。おそらくは孤児院か何かで育てられた女の子が7歳くらいで箱に入れられて運ばれてきて、その後初潮を迎えるまでの間、外界から隔絶された森の中の学校で教育を受ける。女の子たちは年齢の違う子でグループを形成し、上級生は下級生の面倒をみるというシステム。彼女たちの身の回りの面倒を見る老婆がそれぞれのグループに二人いて、逃げだそうとして、と一生ここから出られずに女の子たちの面倒をみさせられると教えられ、誰も逃げだそうとはしない(映画では逃げだそうとする子が死んでしまう)。ある一定の年齢になると夜は少し離れた劇場で踊るようになる。それが学校の収入源らしい。どんな客が来ていて、そんな人物が経営しているのかなどはまったく語られていない。一瞬、いわゆる洗脳の物語かと思ってしまったりもしたが、外に出てから普通の生活をして来た人が語り手になっているので、それもなさそうだしな‥と思っていると、学校の正体はよくわからないまま終わってしまう。

何にせよヴェデキントの作品を日本語で気軽に読めたのだから文句はないが、どうもおかしな取り上げられ方だなと思わざるを得ない。

■著者:フランク・ヴェデキント著, 市川実和子訳
■書誌事項:リトルモア 2006年10月19日 118p ISBN-89815-186-8
■原題:Frank Wedekind : MINE-HAHA, 1903

2006年5月17日

石灰工場

石灰工場■原題:Das Kalkwerk, 1970
■著者:トーマス・ベルンハルト著,竹内節訳
■書誌事項:早川書房 1981.12.15(ハヤカワ・リテラチャー)
■感想
ベルンハルトの作品のうち、日本語訳が出ているものはさほど多くないが、これは一番最初に刊行されたもので絶版である。ただの絶版ではなく、古書店でもなかなか出てこない。昔のように古書店巡りをしていないので確信はしていないが、かなり探さないとないだろう。図書館で本を借りて読むのは嫌い(返したくないから)だが、やむを得ない。

比較的時期の早いものを読んでから言うことではないが、ベルンハルトはワンパターンと言われる理由がようやくわかった…というか、腑に落ちた。厳密に言うと、1970年頃のこの作品からこのトーンになって行ったらしいのだが、その前の作品を読んでないのでよくわからない。ワンパターンというのは簡単に言うと次の通りだ。間接話法(○○に言った)。改行なしで一気に語る。ストーリーらしいストーリーはなく、短い事件の後に時系列でいうとずっと遡っての出来事が延々語られる。同じテーマ、同じ口調、同じ内容の文章が繰り返されている。
そして、繰り返し繰り返し「書き上げる」とか「書こうとする」といった言葉に表されるように、主人公は何かを書こうとして書けない点が何より共通項である。「破滅者」のヴェルトハイマーも「消去」のムーラウも書こうとして書けない。そして、この「石灰工場」のコンラートも書こうとして書けない。本書の場合はまた特に「書けないこと」がテーマであるかのような印象だ。

話は石灰工場に妻と二人で住むコンラートという老人が妻を猟銃で殺害し、自分は2日間野壺(イメージがわかない…)の中に隠れていて逮捕され、今は裁判中であるといったようなことだけである。

そもそも「石灰工場」というタイトルからしてプロレタリア文学のようなイメージだ。「石灰工場」という言葉からして健康に悪そうな=非人間的な建物のイメージが喚起されるが、世間から隔絶された場所のデフォルメされた形である。コンラートは人から隔絶されたこの建物に行って自分の研究を執筆することに長年固執してついに実現するのだが、結局石灰工場にはいったことで更に研究は邪魔されてしまうことになる。

それにしても、どうしてコンラートは書けないのか。病気による奇形のため、車椅子生活を余儀なくされている夫人と聴覚の研究に執念を燃やす夫の、一種サディスティックな、どちらがどう虐待しているのかわからないような、バランスをようやく保っている関係が壊れてしまうから、書かないというようなことが後書きに書いてあったが、果たしてそうなのだろうか?彼が言うように延々と邪魔されるからなのだろうか。「書けない」「書けない」という話が延々続くので、逆に「書ける方がおかしいだろう?」という気になってくる。これが作者の術にはまったということか。

自伝五部作とか出ないのかなあと思っていたら、それより戯曲が2作出るらしい。とりあえず、それを待つとしよう。今まで調べたベルンハルトの書誌事項などをまとめたページを作成。戯曲が出たらまたこちらにも追加する。

2006年4月21日

消去 ある崩壊〈下〉

消去 Lettres■原題:Auslöschung; Ein Zerfall by Thomas Bernhard copyright Suhrkamp Verlag 1986
■著者:トーマス・ベルンハルト著,池田信雄訳
■書誌事項:みすず書房 2004.2.5 ISBN4-622-04870-1
■感想
後編は主人公がヴォルフスエックへ帰り、翌日の葬儀までが綴られるのだが、相変わらずの呪詛の嵐である。ただ、過去の回想と、頭の中だけで展開していた前編と異なり、実際に現在進行形で行動するのだが、これがとても間が抜けている。自分が妹たちに要求されていること、以前とは大きく変わってしまった立場などを理解していて、もっと慎重に行動すべきであることを自覚しているにもかかわらず、彼は喋り過ぎるし、間抜けな行動をとる。それに対して後から言い訳を延々続けるのである。
前篇で触れられていたスパドリーニに対する主人公の崇拝が、とても違和感があった。というのも、あれほど母親を俗物扱いしておきながら、その庇護に預かっている長年の愛人を崇拝しているのが、非常に不自然だと感じられたからだ。葬儀の前の夜にやってきたスパドリーニに対しての不信感が現れ、崇拝と軽蔑との揺れ動く気持ちが表現されているところで、不思議と納得行く気がした。
少々笑えたのがゲーテに対する攻撃である。日本人から見るとちょっと疑問に思えるほど、ドイツ文学におけるゲーテは神聖視され過ぎではないかという面も否定できないので、こういう声をベルンハルトのような攻撃性の高い、スキャンダルの多い作家が発するのはある意味当然だろうという気がする。また、彼はドイツ人ではないので、余計に神聖視する必要性がないのだから。彼の言う通り、ゲーテは大ブルジョアだし、お貴族様のような生活をした文豪で、文学的価値の高い作品を書いたことは間違いないだろうが、他国の巨匠に比べると…と言ってしまいたくなるのもわからないではない。そう言ってはもともこもないのだが、「ウェルテルの悩み」は横恋慕のあげくの身勝手な自殺で今ならほとんどストーカーだし、「親和力」はスワッピング、「ヴィルヘルムマイスター」は独文が世界に誇るロリコン作品である…という俗な言い方も出来なくはないのだ。
「消去」というタイトルは主人公がヴォルフスエックに関して書こうとしている伝記というかノンフィクションというか、ともあれ何らかの著書につけられる予定のタイトルである。それを「書く」ということが、主人公がヴォルフスエックを自分の中から「消去」するために行われる作業になる筈だった。だが、実際に主人公はヴォルフスエックを「消去」してしまうのではあるが。「ヴィトゲンシュタインの甥」は叔父と違い、書かない哲学者だったし、「破滅者」のヴェルトハイマーもメモ書き散らすだけで「発表」はせず、すべて燃やしてから自殺する。まるで紙に書き残すなど下劣なやり方だと言わんばかりの人物ばかりなので、ベルンハルト自身は実は多作な作家であることが意外に感じられる。意外と本気でそう考えていて、自虐的な言葉を連ねることに快感を覚えていたのではあるまいか。
最終的にこの主人公が両親に対して抱いていた多くの批判が、彼らが国家社会主義者たちをかくまったことに起因していることが明らかになってくる。戦後のオーストリアにおける元ナチの存在は彼が執拗にワルトハイムを糾弾したことからもわかるように、戦後、ドイツよりも遙かに緩い存在だったようだ。そういった歴史認識の元に、今や忌み嫌っている家を継ぐのかどうか興味を持って読み続けると、なかなか愉快な結末を迎えることになる。
だいたい、この主人公も家と離れればこれほどひどい人生を送らなくて済むのにと思うのだが、中年になっても経済的援助を受けているのだから親兄弟に批判されても仕方がないと、そこは単純に思う。結局本人が認めているように、ヴォルフスエックから逃れようとしてボロボロになってしまったと。ヴォルフスエックに依存しなくては生きられないし、同時に近付きすぎても生きられない。彼の悲劇的な人生の終末は痛快だ。

2006年3月29日

消去 ある崩壊〈上〉

消去 Lettres■原題:Auslöschung; Ein Zerfall by Thomas Bernhard copyright Suhrkamp Verlag 1986
■著者:トーマス・ベルンハルト著,池田信雄訳
■書誌事項:みすず書房 2004.2.5 ISBN4-622-04869-8
■感想
長篇のため、上だけで、一度メモ程度に。上が第一部「電報」、下が第二部「遺書」という構成になっている。

主人公フランツ-ヨーゼフ・ムーラウがオーストリアのヴォルフスエックへ妹の結婚式のために帰郷し、ローマに戻って来たとたんに両親と兄の訃報が届く。フランツ-ヨーゼフはガンべッティという青年の個人教授をして生計を立てているのだが、それは表向きで、生計を立てる必要性などなく、ローマでも一番豪華な部屋を借り、家からの仕送りで生きている。彼の家はオーストリアでは非常に裕福な旧家で農業経営者だから、そんなことが可能なのだ。偏狭な中欧の片田舎である故郷をゲオルグ叔父の導きで出て以来、ウィーン、ロンドン、ナポリなどを転々としたが、今は少数だが友人もいるローマに落ち着いている。

最初から最後まで故郷ヴォルフスエックへの呪詛が延々と綴られる。両親と兄、妹を心の底から憎み、軽蔑し、幼い頃の不平を並べていく。何一つ精神的なもののない、空っぽな家族を呪い続ける。カソリックの教義に縛られ、自由な精神もなく、哲学することもなく、ただひたすら経済的観点のみを考える、無意味な人たち。この小説は彼にとって、あまりに大きな「ヴォルフエック」という存在を自分の頭の中から「消去」するために綴っているのだ。世界を全面的に破壊し、否定してから、自分に耐えられると思う形で再生する、それが世界を変えるということ。

中欧的な凡庸さ、偏狭さを嫌い、南に憧れ、南の自由と開放的な精神を愛するのは、ドイツ文学の古典時代からの伝統であろう。だいたいゲーテからしてがそうだから。一度も改行のない文章を延々と読み続けるのはさすがに疲れるが、こちらの精神がきちんとしていないと、彼の憎しみと呪詛に耐えられない。読みづらいわけでも、つまらないわけでもないが、中断すると、きっかけがないと再度取り組みにくい本だと思う。できれば一気読みが良い。

一家の歴史を語るわけだから、当然ナチズムやカソリック教会への批判が噴出するが、それはほんの一部で、彼の攻撃のまとは写真、ドイツ人の肩書き主義、イタリアのブランド店をめぐる母親、聖職者の愛人のいる母親、書庫の鍵を開けようとしない家族、ありとあらゆるところへと広がる。舞台がオーストリアのため、ドイツとは少し違うけれど、なんだかとてもオーソドックスなドイツ文学なようだ。

2006年3月 7日

ヴィトゲンシュタインの甥

ヴィトゲンシュタインの甥■原題:Wittgensteins Neffe: Thomas Bernhard, 1982
■著者:トーマス・ベルンハルト著,岩下真好訳
■書誌事項:音楽之友社 1990.7.10 ISBN4-276-21411-4
■感想
オペラ界では伝説のパウル・ヴィトゲンシュタインの晩年の友人だったベルンハルトがパウルの死後に刊行したエッセイ。狂人と呼ばれ、精神病院ので精神病院に入退院を繰り返したパウルだが、最初は金銭的にも恵まれた貴族階級の人間として人生のスタートを切った。そして、多くの才能にも恵まれ、音楽にもスポーツにも、生半可でない見識をもつ人物として有名だった。

オーストリアでも最も富裕な一族ヴィトゲンシュタイン家が産んだ二人の異端児、英国で有名になった20世紀の天才・哲学者ルードヴィヒとその甥パウルは、実際は会ったことがあるかどうかもわからないとベルンハルトは書く。しかし、二人には共通点が多くあり、片方は書いて公表し、片方は書かなかったのだと言う。何ものでもない天才というのは、こういう人のことを言うのだろう。

ベルンハルトの毒舌っぷりは痛快である。文学サロン、ヴィトゲンシュタイン一族、精神病院、田舎、なんでもぶった斬り状態である。そして自分自身の「カフェー・ハウス通い」が病気だという自分に矛先が向いていたりもするのがおかしい。どんなに大切な友人であっても「60過ぎの老人に泣きつかれるのはイヤだ」などと正直に言ったりするあたりも笑える。

本作に詰め込まれているいろいろなエピソードの中に興味深いものが多くある。ベルンハルトがビュヒナー賞を受けたときのこと、誰もベルンハルトの顔を知らず、誰も案内出来なかったという。文学サロンを拒否した作家に賞なんかあげるからだと思う一方で、そういう作家に受賞しなければならないオーストリア文学界もまた淋しい時代だったのかと思う。ベルンハルトのような偏屈な作家が賞を受けるというのも傑作と言えば傑作だ。

また、特に1974年にウィーンのベルン劇場で初演された「狩猟仲間」は本来スイスの産んだ天才俳優であるブルーノ・ガンツが主演を演じる筈だったが、劇場のユニオンの拒否にあって実現できなかったというエピソードが興味深い。ブルーノ・ガンツはこの後映画に出て世界に名前が知られることになるのだが、ちょうどこの頃は舞台俳優として完成された頃ではなかっただろうか。もうかなり有名だったことは知っている。同じドイツ語圏と言えども、スイスから出た俳優がオーストリアの一流劇場でオーストリアの俳優を押さえて主演するなど、オーストリア人のプライドが許せなかった

私のウィーンに関する知識は1920年代のもので終わってしまっているが、いくつかのホテルの名前はまだ覚えている。1960年~1970年代のウィーンのエレガントなホテルとカフェー・ハウスの名前がたくさん出てくる。ホテル・ザッハーは「ザッハー・トルテ」で有名なホテルだということはさすがに有名だろう。お菓子の名前も出てきて、ウィーン好きにはたまらないだろう。

ベルンハルトの「真実ではないもの」に対する憎悪、オーストリアが歴史的に背負って行かざるを得ない罪の意識(ナチの被害者のような顔をして、その実協力者も大勢いた)、世紀末の耀きから没落するよりほかない運命。それをペシミズムとは言えないのは、この筆の巧みさ故なのか、あるいは厳しさの中にときおり見えるユーモアのせいなのか。

私は長い間、こういう「真実ではないもの」に対する仮借ない批判を全身全霊で語るようなドイツ文学を好んでいたと思う。それは若い頃、とても自分が強かった頃だと思う。現実にさらされ、弱った心にはこういう過酷な作品に向かい合うには気力が足りず、かといってお気楽な小説にも向けず、後ろ向きな話なのに、何故かポジティブな変なアメリカ文学にはまっていたりした。そこからとんでもなく遠くへ遠くへと行けるラテンアメリカが好きになり、多分、今ある意味ではまた強くなれているんだろう。楽しめる余裕が出来ている気がする。

2006年2月25日

破滅者―グレン・グールドを見つめて

破滅者―グレン・グールドを見つめて■原題:Der Untergeher : Thomas Bernhard, 1983
■著者:トーマス・ベルンハルト著,岩下真好訳
■書誌事項:音楽之友社 1992.7.25 ISBN4-276-21412-2
■感想
グレン・グールドについて書かれた伝記ではまったくない。事実にも基づいてないし、主人公ですらない。騙された人は多いんじゃないだろうか。でも、クラシック音楽ファンが読まないと実は楽しめないという不思議な小説である。

内容的にはグレン・グールドという実在のピアニストについて書かれているのではなく、グレン・グールドとザルツブルクで一緒にホロビッツの門下で学んだ(史実にはない)というやはりピアニストであるヴェルトハイマー、そして語り手である「私」の3人の男の50年を描いた物語である。というとわかりやすいのだが、実はまったく「物語」などといえるような代物ではなく、「私」が3人に関しての思考を、少しずつ少しずつ階層を変え、変奏しながら進行するという不思議な語り口になっている。訳文は読みやすくするために適当に改行が入っているが、原文はどうやらセンテンスまったくなしという状態らしい(ケルアックみたい)。

一番主な人物はヴェルトハイマーで、彼が自殺したと聞いて、友人である「私」が葬式に行き、その帰りに彼が最後に住んでいたトライヒという町の旅館に宿泊しようとチェックインするところで小説は開始される。そして、3人が出会ったところから始まり、直前の葬儀の様子までを時系列を無視してぐるぐるとまわりながら、チェックインするところで、一息入れる。が、そのときはすでに話は終盤なんである。そしてチェックインして女将と話し、彼の最後に住んでいた家に行って、終わる。なんだか、3人の男たち一代記のようで、まったくそうではないというのが、読後「何と説明してよいものやら」という戸惑いを隠せない。

Untergeherという原題は直訳すると「下へ行く人」=落ちぶれた人、堕落者、で、この場合は破滅者と訳している。この破滅者はグレン・グールドではなく、ヴェルトハイマーのことを指す。ヴェルトハイマーがグレン・グールドに出会い、そのピアノ(ゴルトベルク協奏曲)を聞いた瞬間に、彼は破滅する運命にあったという主題が、何度も何度も繰り返される。その間に「私」がいかにピアノを捨てることが出来たか、ピアノを捨てることで生き延びたかという話も何度も何度も繰り返される。さらに、ヴェルトハイマーが捨てきれず、未練たらたらで、そのせいで自殺するしかなかったかのような、それでいて本当の原因は彼の元を去った妹のせいであるかのような、矛盾している話がずっと繰り返される。

繰り返すのは単純に繰り返しているのではなく、少しずつ位相を変えていくというか、違うバリエーションになっていくところが不思議な感じだ。一見だらだらしているようだが、リズムに載って読み進めることが出来る。どうやら、小説自体が変奏曲になっているようだ。その辺はある程度クラシック音楽の知識があった方が楽しめる作りになっているらしいのだ。

とはいえ、音楽之友社からオースラリアの作家の作品が出版されていたとは、気付かない。独文の現代作家は1990年代の日本ではまったく恵まれていなかったことがよくわかる。文芸出版社からは出せなくて、なんとか音楽関係者の目を惹こうという目論見で刊行されたのだろう。苦労が忍ばれる。最近また注目度があがったからよかったようなものの、誤解されっぱなしになってしまったところだ。

当分ベルンハルトで行こう。唐突に放り投げるかもしれないが。

2006年2月12日

ふちなし帽

ふちなし帽■原題:Die Mütze : Thomas Bernhard, 1988
■著者:トーマス・ベルンハルト著,西川賢一訳
■書誌事項:柏書房 2005.8.10 ISBN4-7601-2732-1
■感想
ついにトーマス・ベルンハルトである。何がついにかっていうと、「周辺部をうろうろしていたけれど、ついに独文に戻って来たなぁ…」という感慨があってのことである。だって18年も遠ざかっていたのですもの(ゼーバルトはドイツ人だけど、英語で書いてるので独文ではない)。ベルンハルトは故人ではあるが、立派な現代作家。それも最近非常に評価の高い作家である。でも、「カフカやベケットに通じる…」っていうのは、当たらずといえども遠からずではあるが、うたい文句としては逆効果じゃないだろうか。少なくとも私にはそうだ。ちょっと敬遠したくなるふれこみだ。

おそるおそる短篇集から入ってみた。面白い。頭のおかしい人の話なんだけど、いわゆる不条理系のもつ(なんていいかげんな表現…)不時着感というか、「落ち着かないな…」という感じがない。それから、短篇のせいもあるのか、じわじわと真綿でしめつけていくようなところがない。先日読んだ「オリエント急行戦線異状なし」のような、と言えばいいだろうか。この先主人公がどういうところから抜け出せなくなっていくのか、私の場合先を読もう読もうとしてしまい、あまり楽しめないのだ。


「ヴィクトル・ハルプナル」は800シリングの賭けに勝つために、2500シリングの義足を無駄にするのだが、何故か彼の行動に何の矛盾も違和感も感じず、おかしさしか見いだせない。「喜劇? 悲劇?」では演劇を軽蔑しながらも、前売り券を買う男が出てくるが、こういう人物は現実生活でよく見かける気がする。実際は文句を言うために実際に見てしまうのだが、この短篇では結局芝居を見てはいない。

刑務所を出ることを恐れる模範囚「クルテラー」。後から解説を読むと主人公が自殺するという最後の一節が抜けているとのこと。確かにそれがあった方が「オチ」があると言えるのだが、ないからといって気持ち悪いとは思わない。妙な浮遊感のある終わり方ということもなく、彼が消えてしまうことが明示されていると感じるエンディングなのである。件の一節はとても余計な気がする。

「大工」が気に入っている。いわれのない暴力に脅かされているのは妹やまわりではなく、ほかでもない本人なんだろう。それにしてもこの弁護士の冷静沈着ぶりがかなり怖い。

表題作「ふちなし帽」の秀逸さは、よくわからないようで、わかる気がする…。そんなことをする必要性がないのに、こうしなくっちゃと思う思いに突き動かされていく有様がおかしくもあり、怖くもある。

「イタリア人」なんかは金持ちのイタリア人やドイツ人はよく屋敷で芝居をするのだなと、ゲーテしかり、ヴィスコンティしかり、と思った以外は、よくわからない…この話は難しい。

全編に共通するのが、狂っているとか、矛盾しているとか、不条理だとか、言えなくもないのだが、とても身近な感じがするのが不思議だ。怖いのだけど、おかしい。トーマス・ベルンハルトははまりやすい作家だそうだが、このまま私もベルンハルトにはまっていくのか、いかないのか、まだ結論は出ない。とりあえず次、何か読んでみよう。

2006年1月31日

目眩まし

目眩まし■原題:Schwindel. Gefühle., 1990
■著者:W.G.ゼーバルト著,鈴木仁子訳
■書誌事項:白水社 2005.11.25 ISBN4-560-02730-7
■感想
ゼーバルトの処女作。「ベール あるいは愛の面妖なことども」「異国へ」「ドクター・Kのリーヴァ湯治旅」「帰郷(イル・リトリノ・イン・パトリア)」の長さの違う短篇4篇から構成されている。「ベール…」はナポレオン戦争に従軍したフランスの文豪スタンダールの、「異国へ」はゼーバルト自身の、「ドクター・K…」はフランツ・カフカの、「帰郷」は再びゼーバルト自身の過去への旅について。どれも「旅」を扱っており、チロル~ババリアの歴史を時間を越えて語りつつ、自分自身の過去とのつながりをつづっているように見える。

四篇に共通するキーワードは第一次大戦直前の「1913年」、そして永遠の漂泊者「狩人グラフス」である。カフカの短篇のタイトルだが、独文の人間にとっては「ファウスト」や「ミニヨン」ほどメジャーではないが、一応は知っていないとならない名前だったりする(フライング・ダッチマンとどちらがメジャーかな?)。なんとなく暗いイメージが強い人物だ。

「時とともにいろいろなことが頭のなかで辻褄が合ってきたが、かといってそれで物事がはっきりしたわけではない。むしろ謎めいていくばかりだ。」というのが「帰郷」で私が故郷に帰った理由である。明確になった過去の記憶は荒唐無稽でおぞましいものばかりだと。うんうん、わかるわかると聞き手の老人は言うのだが、さすがに私にはわからない。しかし、とても印象的な言葉なので記憶しておこう。

繊細で精密な文章のため、ほんの少しでも読み落としがあると、迷路に迷い混んでしまうのだが、ていねいに語を紡いでいくと、情景がふわふわっと、細やかに現れてくる、そんな感じである。原文がそうなのだろうけれど、おそらくは日本語訳がかなり良いのではないか?特に漢字の使い方が私は好きだ。やたらと漢字を多様するのでも、難しい漢字を使いまくるのでもなく、要所要所に面白い文字の使い方をしていて、魅力的な日本語に見える。

相変わらずノンフィクションなのかフィクションなのかわからないが、今回は一応スタンダールとカフカの伝記的事実員は基づいているらしい。だが、ゼーバルト自身の旅はどうなのだろう?エッセイのように見えて完全な創作なのだろうか。「帰郷」の中にもカフカの文章が多数織り込まれているらしいが、研究者でもない限りわからないのではないか?だから、巻末に池内氏の解説が入るのは当然と言えば当然か。

白水社もすごいなと思うのだが、ゼーバルト・コレクションとしてシリーズ化してしまった。次は柴田元幸氏訳で本年末刊行予定だそうで、愉しみである。

2005年12月23日

移民たち

移民たち■著者:W. G. ゼーバルト著,鈴木仁子訳
■書誌事項:白水社 2005.9.30 ISBN4-560-02729-3
■感想
なんとなく、はまったなという気がする。この作家のどこが好きなんだろう?手法が斬新で目新しいのは確かだ。まるでドキュメンタリーかノンフィクションのように入れ込まれている新聞記事や写真がいかにもそれらしいが、真偽のほどはわからない。だから、面白い。テーマも基本的には興味のある分野だ。本人がドイツを出てイギリスで教鞭をとったせいだろうけれど、登場するのは異国で暮らす人たちだ。しかし、その理由は、直接的にジェノサイドの影響がある。みなユダヤ人で、それも一つ二つ前の世代で、すでに亡くなった人たちなのだが、どうもその話としては暗いわりには、ユダヤ人ものの気の滅入る陰惨さがない。話としてはひどい話なのだが、不思議と清涼感というか、落ち着いた静寂感があるので、ふっと話に入って行ける。
本書は四編の短篇からなる。医者で、昔ははぶりがよかったものの、今は緩慢な死を受け入れているかのような奇妙な老人ヘンリー・セルウィン、小学校のときの担任教師で自殺したパウル・ベライター、大富豪の執事として仕え、最後は自ら精神病院に入り亡くなった大叔父アンブロース・アーデルヴァルト、マンチェスターいいたときに知り合った画家にマックス・アウラッハの4人の物語である。セルウィンはリトアニアの出身で、ベライターは両親が第三帝国に財産を没収されている。アウラッハに至ってはアウステルリッツと同様、両親がナチの収容所で死んでおり、自分だけがイギリスに送られて生き残っている。

いずれも主人公は物書きで、亡くなった人の記憶をもつ人物や資料を追いかけて記録している、あるいは亡くなりそうな人から譲り受けた資料などからその人物像を描こうとしているという前提で記述されている。主人公がなかなか筆が進まないものの、どうしても彼らの足跡を追いかけざるを得ない心情がひたひたと伝わって来る。

特にアウラッハの母親が描く子供の頃の手記が「まるでドイツのおとぎ話のよう」と書かれているように、美しく、そして非常に恐ろしい。何故こんな美しいドイツは失われなければならなかったのか、とても静かにだが、胸を打つ物語だ。

ところで、このゼーバルトの作品はゼーバルト・コレクションという全集になるそうだ。配本中の個人著作全集を心待ちにしながら読むなんて経験は初めてだが、とても楽しみである。

2005年11月15日

アウステルリッツ

黒い時計の旅■著者:W. G. ゼーバルト著,鈴木仁子訳
■書誌事項:白水社 2003.7.25 ISBN4-560-04767-7
■感想
ドイツ人でイングランドへ移民した作家ということで読んでみた。最初は建築史の話ばかりで面食らっった。文節の区切りもあまりないし、ちょっと途方に暮れたが、すぐに面白い筋書きの風変わりな小説であると気付く。面白い筋書きになる、とすぐわかったのは、アウステルリッツが自分の生い立ちを語り始めるところからだ。風変わりであるというのは、頻繁に関連する写真が入り込んで来るので、まるで伝記のようにも、あるいはアウステルリッツの語るエッセイのようにも見える点である。

人と人が行き交う、分岐点である「駅」という建築物に引かれるアウステルリッツ。自分の記憶が5歳以前くらいまではなく、自分の育ての親が養父であり、実際の親が行方不明であることを青年期に知って、以来ずっと意図的に自分の過去を探ろうとしない態度をとり続ける。

五十過ぎまで孤独に過ごし、突然ある建物の中に入り込んだことで、自分がどこから来たのかを思い出す。そこから記憶を辿ってヨーロッパ中を旅し、自分の出身国を訪れ、父や母の足跡を追う。そして、自分の過去にかかわる歴史的事実にも目を向けずに来たことに気付く。それはもちろんユダヤ人である自分のルーツ、両親のその後を知りたくなかったからだ。

彼が記憶を取り戻すきっかけになったのが建物であり、それまで建築、美術、歴史と様々な文化に触れてきたのに何故か「音楽」ではないことに意外性を感じた(後に音楽も登場するが)。五感の中で最も記憶と結びつきやすいのが聴覚=音楽だと私は思っているからだ。

残念ながら2001年に交通事故で亡くなっているそうだが、最近日本でもあと2冊翻訳されている。ぼちぼちと読んで見たい。

2002年9月30日

決断

■著者:アンナ・ゼーガース著,道家忠道,北通文,新村浩訳
■書誌事項:三一書房 1,2巻1960.11.7/3巻1960.12.6 (三一新書)
■感想
こちら

2001年11月10日

アンナ・ゼーガース著作リスト

アンナ・ゼーガース著作リストがやっと出来た。

2001年9月 2日

第七の十字架―Das Siebte Kreuz

■著者:アンナ・ゼーガース Anna Seghers著,山下肇訳
■書誌事項:河出書房新社 1972.7.10 (モダン・クラシックス)
アンナ・ゼーガースの文学:第七の十字架に移動。