最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2012年9月

2012年9月29日

君の誕生日は来て、過ぎた/ポール・オースター

Coyote No.47めでたく復刊した『Coyote』No.47に早速、柴田先生訳のポール・オースターが掲載されていた。これは「Winter Journal(冬の日記)」と題したこれまでの人生で出会った女性達を書いた2作目の自伝の中からの一篇だ。

ポール・オースターにとっての大切な女性と言えば、シリ・ハストベットとリディア・デイヴィスとお母さんだろうなと思う。これは、そのお母さんのことを書いた短篇だ。若いうちに結婚した1度目の結婚の子であり、彼女にとっては長子であったオースターはその後の彼女の人生をずっと見つめていくことになる。彼女の人生はいろいろと山あり谷ありで、母親に失望させられることもあったようだ。しかし、小さい頃に深い愛情に包まれ面倒をみてくれたことや、一緒に遊んでくれたことは彼の人生にとって大きいことだったのだろうということが伺える。少し大きくなっての野球チームのつきそいと活躍は印象に残っているという話から、親にとってはしんどさの方が比重の高い「スポーツチームのつきそい」は子供にとっては意外に大事なことなんだなと思い知らされる。

ご祝儀のつもりもあったのだが、短い一篇だけれど、このためだけに『Coyote』を買う価値はあった。「Winter Journal」が翻訳されるのは、順番通りにいくとまだまだ先だが、いつまでもお待ちしています>柴田先生。

Your Birthday has come and gone by Paul Auster. Autumn 2011
「Coyote」No.47 スイッチ・パブリッシング 2012.9.15

2012年9月27日

ブルックリン・フォリーズ/ポール・オースター

ブルックリン・フォリーズ"人生で大きなものを失った男"、"死んでいてもおかしくはないほどの状況に陥った男"の再生物語第3弾。「幻影の書」は家族を飛行機事故で亡くした男、「オラクル・ナイト」では重い病気からなんとか治ったばかりの男だった。主人公のネイサンは肺ガンから復活したが、妻とは離婚、仕事は辞めざるを得なくて、生まれ故郷のブルックリンに越して来たところ。そこで甥のトムに偶然出会うが、これも将来を嘱望された文学研究者だったのが、一時はタクシードライバーにまでなっている。ダブル負け犬である。そして二人は、一時は完全に負けたものの今は多少は復活しているハリーという古書店主と出会う。この三人の負け犬話が物語の前半を占めていて、なんだかどんよりしている。

それを打開するのがルーシーという9歳の少女だ。彼女が登場して一気に物語は転がり始める。ルーシーのおかげなのか、「愚行の書」なるものをつけるほど"愚かな"人生だったネイサンが変わり始め、次々にやってくるトラブルを解決し、周囲の人を幸福にしていく姿は爽快ですらある。ハリーのために忠告し、詐欺師を恫喝して蹴散らし、甥にふさわしいパートナーを見つけ(偶然も手伝うが)、姪を救い出しに行き(彼女を捜すことが出来たのはかつての同僚というコネがあったからだ)、姪とその子の住まいを見つけ、姪のカウンセリングを行い、娘の精神的な危機を救い...と、負け犬がその豊富な経験を生かして素敵に復活する。もちろん、中には破滅してしまう人もいるのだが...。

「緋文字」の偽原稿の話は昔一時流行ったジョン・ダニングの古書ミステリーものを思い出す。LGBTの世界(ルーファスの表記はドラッグクイーンでもドラァグクイーンでもいいのか)、古典的なアメリカのクルマでの旅、新興宗教、モラハラ&セクハラ...豊穣な物語世界をさまざまなモチーフが彩る。

オースターがブルックリンの街を描く文章はいつも素晴らしいが、今回特に印象に残ったのがこの一節。

白、茶、黒の混ざり合いが刻々変化し、外国訛りが何層ものコーラスを奏で、子供たちがいて、木々があって、懸命に働く中流階級の家庭があって、レズビアンのカップルがいて、韓国系の食料品店があって、白い衣に身を包んだ長いあごひげのインド人聖者が道ですれ違うたび一礼してくれて、小人がいて障害者がいて、老いた年金受給者が歩道をゆっくるいゆっくり歩いていて、教会の鐘が鳴って犬が一万匹いて、孤独で家のないくず広いたちがショッピングカートを押して並木道を歩き空壜を探してゴミ箱を漁っている街。

人種だけでなく、さまざまな階級、国籍、性的アイデンティティの人が混在している街。これを"豊かさ"と言わず、いったいなんと呼べばよいだろう。

本書の明るさは、「9.11以前」であることから来るのだろう。この次は、どんな作品になるのだろう。まだまだ残ってます。それと、今年自伝が出ているようだ。


著者:ポール・オースター著,柴田元幸訳
書誌事項:新潮社 2012.5.31 331p ISBN978-4-10-521715-0
原題:The Brooklyn Follies, Paul Auster 2006

「幻影の書」
「オラクル・ナイト」

2012年9月 4日

無声映画のシーン/フリオ・リャマサーレス

無声映画のシーン/フリオ・リャマサーレス表紙の写真が素敵だ。ブレッソンの写真のようだと思ったら、本当にブレッソンだった。おそらく本の作者を知らなくても買ってしまいそうなほどカッコイイ。リャマサーレスは過去に2冊出ているが、「静寂な筆致」という言葉がぴったり合う作家だと思う。この表紙もそのイメージにぴったり合致する。

語り手が幼年期~青年期をすごした鉱山町での出来事が語られる。町のダンスパーティ、オーケストラがやってきた日、鉱山のストライキ、フランコが街の近くを通りかかった日、オートバイを乗り回していた青年の死、廃鉱にもぐりこんだ時...。

過去に撮影した写真にまつわる記憶を呼び起こして語っていく連作短編のスタイルをとっている。もし、本書で語られる30枚の写真をすべて載せてくれていたら、写真集になってしまうのではないかと思うほど、美しい写真だろう。一見エッセイ集に見えるが、著者の言うようにこれはフィクションなので、実在はしない写真。実在するのかもしれない。でも、それはどちらでも構わない。写真を実際に載せてしまうゼーバルトとの違いかなと思う。共通するのは、静かなその語り口だ。

記憶は時に――いや、たいていの場合――映画のシーンが四つか五つの瞬間に凝縮されているポスターと変わるところがない。そこに命を吹き込むことができるのは、時間という映写機のゆがんだ焦点だけである。

リャマサーレスの言葉に耳を傾けているうちに、自分の過去が甦ってくる。残念ながら、自分の幼い頃の写真にモノクロ写真はわずかなので、あまり思い起こせない。記憶というのはやはり雰囲気がないと甦らないものなのかもしれない。

今の子供たちは鮮明なデジタル画像でしか自分の写真が残らなくなってしまう。それでも、その写真がノスタルジックな記憶となるのかもしれないとも思う。15年ほど前のパソコン通信の通信音にノスタルジーを感じるかどうかは、その人次第なのだから。

原題:Escenas de Cine Mudo, Julio Llyamazares. 1994
著者:フリオ・リャマサーレス著,木村榮一訳
書誌事項:ヴィレッジブックス 2012.8.23 262p ISBN978-4-86491-005-7

創造力とは発酵熟成した記憶にほかならない。
(アントニオ・ロボ・アントゥネス ポルトガルの作家・精神科医)

黄色い雨狼たちの月(フリオ・リャマサーレス)