最近読んだ本、見た映画・芝居、聞いたCD

2008年1月

2008年1月16日

狼たちの月

狼たちの月/フリオ・リャマサーレス短編集「黄色い雨」のフリオ・リャマサーレスが初めて書いた長編。詩的な言葉がちりばめられ、情景描写も美しい、素晴らしい作品だと思う。

スペインの内戦及びフランコ将軍による圧政と言えばバスクとカタルーニャが有名だが、アストゥリアス地方のものも激烈だったようだ。この地域での反乱が収束した1937年から1946年までの約10年間、山岳地帯に隠れて生き延びた敗残兵の物語だ。家族の住む村近くの山中ので治安警備隊の執拗な捜索から逃れながら生き延びようとする4人の男たち。家族の援助も受けながら、自らも狩りで獲物を捕らえ、いつか形勢が逆転し、反乱軍が敗退することを願いながら、廃坑の中の洞窟で何とか生きている。昼間外に出ることは出来ず、行動は夜に限られている。その孤独で獣のような姿が「狼」のようだということだろう。

アンヘル、ほら、月が出ているだろう。あれは死者たちの太陽なんだよ。

アンヘルたちのことを、生きながら死者のようだという意味なのか。月の光の中でしか生きることの出来ない運命を示しているのか。

ラミーロがある地方の狼をおいこんで捕まえるという原始的なやり方について語る場面がある。素手でもって大勢で追い込んでいき、断崖の奥にある深い穴に落として捕らえ、最後は罵りの言葉を浴びせられながら、あちこちの村を引き回してから殺すという。それはまるで自分たちの運命を暗喩しているかのような言葉だ。

アンヘルは家族や民衆のために戦ったのだから自分たちには義があると思っていたが、ある日自分たちの命を守るため、軍人や治安警備隊ではない一般人を殺してしまう。そこで初めて「後戻りできなくなった」と愕然とするが、「これまでだって後戻り出来なかった」とラミーロに言われてしまう。そこで、アンヘルがこれまでは「いつか昔のように家族に囲まれた平和な生活に戻れる」と夢想していたが、ともに戦って来たラミーロにはそんな幻想はなかったことがわかる。

また、アンヘルが人民戦線に加わった理由が、誘拐した鉱山主に語るシーンがある。人を殺すことの是非を問われ、アンヘルはこう答える。

「家畜、そうだな、来高くて、しかもしつけのいい犬を選ぶんだ。」しばらくしてぼくはそう話しはじめる。「その犬を部屋に閉じこめて、痛めつけてやればいい。すると犬は人間に刃向かい、噛みつくはずだ。場合によっては人をかみ殺すかもしれない。」(p133)

すごくシンプルでわかりやすいたとえだが、真摯な言葉で胸を打つ。

詩的で情緒あふれる言葉は、山の景色、風の音、月の光、自然のあらゆる姿にあふれている。だが、自然描写だけではなく、心理描写も詩的だ。一つだけアンヘルが父親の危篤を義弟から聞かされ、洞窟に戻る場面をとりあげたい。

夜の暗闇の中を、夢遊病者のようにヒースの茂みに足をとられながら洞窟に戻る。その間、父親の記憶が無数のイメージとなってこなごなに砕け、それらの細かな断片がガラスの破片のようにぼくの心に突き刺さる。それらをいくら集めても悲しみの奥に隠されているものを浮かび上がらせはしない。それらは忘却の底無し沼で少しずつ朽ち果てていく運命にあるのだ。(p220)

それでも危険を冒して彼は危篤の父親に会いに行く。

人は絶望の中でどうやって生き続けていくのだろう。村から離れて国を離れるよりほかはないのだが、とにかく10年も村に戻りたくてしがみついている。弾圧を我慢するのも限界になってしまった妹から拒まれ、アンヘルはついに村から離れるが、離れて生きていけるものならば、とっくに離れていたのではないか。

それにしても10年も我慢した家族は立派だ。家族のことを考えたら、とっくに投降するなり遠くへ逃げるなりすればいいのに、生まれた土地から離れられない。食いつなぐことだけで何もせず、それでも生きる姿は無様を通り越して凄まじい執念を感じさせる。

「黄色い月」もそうだったが、「狼たちの月」も装丁が非常に良い。この値段でこの装丁でこの内容。とても得難い貴重な本だと思う。

■著者:フリオ・リャマサーレス著, 木村榮一訳
■書誌事項:ヴィレッジブックス 2007.12.15 272p ISBN4-7897-3187-1/ISBN978-4-7897-3187-4
■原題:Luna de Robos : Julio Llamazares, 1985

2008年1月 6日

愛その他の悪霊について

410509016X.jpg長編「コレラ時代の愛」と最近の「わが悲しき娼婦たちの思い出」の間に書かれた中編。後期というか、多分もう晩年の作品の一つと呼んでも良いのではないかと思う。物語の前段として、マルケスは1949年10月に自分が取材したサンタ・クララ修道院の納骨堂の遺骨撤去作業の現場を持ち出す。そこで22メートルの髪をもつ少女の頭蓋骨が出てきて、その少女の名前がシエルバ・マリア・デ・トードス・ロス・アンヘレス。修道院から22メートルの髪をもった頭蓋骨が出てきたことが事実かどうかを確認する作業は省略させてもらうが、事実でないとしても、ノンフィクションの体裁をとった幻想的な作品と言えよう。

両親の怠惰と無関心のせいで黒人奴隷の間で育ち、黒人の宗教(呪術?)や文化(アクセサリや衣装)を身につけて育った少女が狂犬病の犬に噛まれたことによって悲劇が始まる。先代のおかげで侯爵の地位にいる父親の無為無気力、砂糖の密輸などで興隆を極めた後、男やカカオ酒に溺れたことによって落ちぶれてしまう母親の怠惰ぶり、これはガルシア=マルケスらしい衰退の物語だ。

狂犬病にかかる=悪霊が憑くということで、父親は修道院に娘を追いやってしまう。神父カエターノ・デラウラは悪霊払いを行う。キリスト教世界の偏見の物語として読んでいるので、彼女は悪霊に憑かれてなんかいないという前提でいると、下記のような箇所にあたってしまう。

そして、デラウラは、ほんものの悪霊憑きの恐るべき光景を目にすることになった。シエルバ・マリアの髪は独自の生命を得てメドゥーサの蛇のように逆立ち、口からは緑色の涎が、そして邪教のことばの罵詈雑言が果てることなくあふれ出した。デラウラは十字架を振りかざし、彼女の顔に近づけ、恐怖のさなかで叫んだ――「そこから出ろ、何者なのか知らぬが、地獄のけだものよ、出ろ」

このシーンが読む者をたぶらかそうとしているような気がして、落ち着かなくなる。どう考えても、これではただの悪魔憑きではないだろうか?

200年前のコロンビアの「異端」に対する執拗な攻撃やそれに伴う少女の悲劇を、ガボは現代の何ととらえて物語ろうとしたのだろうか。

■著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス著, 旦敬介訳
■書誌事項:新潮社 2007.8.31 244p ISBN4-10-509016-X/ISBN978-4-10-509016-6
■原題:Del amor y otros demonios Gabriel García Márquez, 1994