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2005年2月28日

若者のすべて

若者のすべて■原題:Rocco e I Suoi Fratelli
■制作年・国:1960年 イタリア
■監督:ルキノ・ヴィスコンティ
■製作:ゴッフレード・ロンバルド
■脚本:ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーゴ/パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ/マッシモ・フランチオーザ/エンリコ・メディオーリ
■撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ
■音楽:ニーノ・ロータ
■助監督:リナルド・リッチ
■出演:アラン・ドロン(ロッコ)/レナート・サルヴァトーリ(シモーネ)/アニー・ジラルド(ナディア)/クラウディア・カルデナーレ(ジネッタ)/スジー・ドゥレール(ルイーザ)/クラウディア・カルディナーレ(ジネッタ)/スピロス・フォーカス(ヴィンチェンツォ)/マックス・カルティエール(チーロ)/ロッコ・ヴィドラッツィ(ルーカ)


ヴィスコンティが冷徹なリアリズムて社会の底辺にいる人々を撮った最後の作品。本人は実は一番気に入っているという。第二作「大地」の続編とも言える、南からミラノへ移住してきた家族の大河ドラマ。衝撃的なシーンで公開当時またまた物議を醸し出し、そのシーンのときだけ画面が暗くなるというような処理をして公開したそうだ。さもありなん。

5人の兄弟と母親が父親の死を機に都会に出てくる。母親は父親が死んだのだから、まずは長男が家の面倒を見るべきだと考える。長男はすでに婚約者がいるため、まず自分の家庭が優先で、それは映画の最後まで終始一貫している。それから次、次へと期待がかかるが、うまくいかず、四男のところまで降りて行く。都会へ出ていくことで派手に成功する者と地味だが堅実に成功する者、自分の家庭をきちんと築く者、犯罪者にまで墜ちる者と運命は分かれていく。

最初の方、雪の降った朝のシーンはとても美しい。初めて見る雪というだけではない。1ヶ月経っても誰も仕事が見つからずにいたため、雪かきの仕事があるから嬉しい、という光景だ。子供たちを起こし朝食を作る母親。寒いから厚着をするようにいいトシこいた息子たちに言うし、息子の方もまた言うことを聞いている。イタリアは母親が本当に強い。ママの作ったパスタが一番のお国柄。

それにしてもイタリア南部の人たちの家族の絆の深いこと。しかし、それがそもそも不幸の原因ではないだろうか?ロッコの兄想いの寛容さが生んだ悲劇だとも言えるのだから。いいトシした男が揃いも揃って母親と一緒に暮らしている方がどうかと思うが、それは現代の都会人の考え方なんだろう。

シモーネの堕落は本人の弱さ故だが、確かに都会特有のものだろう。田舎にはあれほど美しい娼婦はいないだろうから。娼婦は商売で愛想よくしているだけなのに、純情素朴な青年は一発でやられてしまう。更に追い打ちをかけるのは周囲の人間のひどさだ。シモーネにナディアのことを言えばどうなるか、最初にロッコとのことを言う人もそうだし、最後に言う友達もそうだ。わかっていてあえてやるのだから始末に負えない。だいたいナディアも同じ場所へ戻って来て弟と平気で付き合うのは迂闊というものだ。シモーネはどんどん追いつめられて結局は行くところまで行くしかなかった、という演出が行き詰まるようで見事だった。

撮影方法も少し変わって来ている。まず人物のアップが以前より増えたようだ。演劇的な演出と言っていいのだろうか。それからカメラを同時に三台回して撮っており、シーンからシーンへの移り変わりを撮影の中断なしに撮れるため、緊張感が持続しているように見えた。

映画としては緊張感があって、テンポよく、ぐいぐい引っ張って行くので、3時間があっという間だった。でも好きにはなれない映画だ。ロッコの「素朴で虫をも殺せない人物像」という設定に同意できない点が多々あるせいだ。

最後にチーロがまとめをする。「ロッコは聖人だがそのせいで自分を守れない。許してはいけないこともある。シモーネを許しすぎたことが不幸の原因だ」と。それは正しいが、一部間違っていると思う。家族を想う気持ちは大切だが、ロッコがナディアにした仕打ちはどうだろう?何故彼は家族を捨ててナディアと一緒にシモーネのいないところへ逃げようとしないのだろう?そもそも、昔シモーネが盗みをしてまでナディアにご執心だったことを知っているのに「あれほどとは思わなかった」とはなんという鈍さ。「2年も前のことだろう?」って、兄の気性を知っていながら自分の女を守るために兄に事前に断りを入れるくらいの慎重がない。ナディアとロッコ別れのシーンは一見は美しいが、ロッコの鈍さと弱さと偽善者ぶりを露呈しているように見える。「自分を信じろ」と言われて立ち直ろうとしたナディアが裏切られて自暴自棄になったのは当然だろう。あれほどひどい目に遭いながら、ロッコは結局ナディアよりシモーネを優先するという自己満足で自分を守っているのではないか?ロッコはシモーネの堕落が自分のせいだと自覚しているから、好きではないボクシングをしてまで金を工面する。それがナディアを寝取ったせいだと考え、自己犠牲を課す。それが気高い自己犠牲か?シモーネは確かに人間のクズだが、ロッコも見方を変えれば家族以外のものはどうでもいい、法や自分さえも、という人間に見え、家族以外の人間には非常に残酷なことをしている。天は自らを助くる者を助く。つまり、自分を助けようともしない人間は神様だって見捨てるよ、ということだ。

また、やはりああいうシーンがあるのはどうしても勘弁。殺人の方はまだいいのだけど。あのシーンでナディアは最後覚悟をして腕をあげたのだろうと思う。シモーネが現れたとき、あれほどおびえたのは予感がしたからだろう。それなのに「死にたくない…」というのはどういうことだろう?一度は覚悟したものの、やっぱり死にたくなかったのか。シモーネを堕落させたが、ロッコの力を借りて何とか立ち直ろうとした。けれどダメだった。それは娼婦だからしょうがないのだろうか。

どうもよくわからないシーンがある。シモーネがモリーニの部屋に金の無心に行くシーンで使われるテレビだ。静止画でボッカチオだかなんだかルネッサンス期の絵画が映る。この場面、かなり意味深で、省略されており、シモーネがモリーニに身体を売ったことが暗示されているようだ。モリーニがシモーネにどんな弱みを握られているのだろう?という点が疑問であるが故に、余計にそう勘ぐってしまう。

この家族の救いはロッコではなく四男のチーロだ。チーロはこつこつと勉強し、夜学を出てアルファ・ロメオに就職し、婚約者もできた。母や弟のためにシモーネと対立し、ロッコに止められてもシモーネの犯罪を警察に告発しに行く。ロッコが「これで俺たちは終わりだ」と言ったように、チーロだって兄が犯罪者だと知られたら婚約者の家族に嫌われ、婚約破棄されるかもしれないのに、それでも警察へ駆け込んだ。彼は強く、そして正しい。彼は物語の内側にいるようで、シモーネとロッコとナディアの悲劇からは外側の枠に存在し、それを客観的に見て解説している。この枠がなければ、作品が悲劇的な愛憎物語で終わってしまう可能性があった。バランスを取る意味で、非常に重要な役どころだろう。

五男のルーカの後ろ姿で映画は終わる。「ロッコが帰るのなら故郷に帰る」という。それが最後の希望なのか。この映画は南部問題というイタリアに根強い差別意識が生んだ悲劇だとは思う。本当に驚くほどそれは根強い。例えば、セリエAを見ていると、今でもちらっとそれを感じるときがある。

アラン・ドロンは「太陽がいっぱい」の直後だ。まだ若く繊細な印象。私が小さい頃、外国人の映画俳優で最も人気があったのはアラン・ドロンだったと記憶している。ドロンの「怪傑ゾロ」をロードショーで見たというところが我ながらすごいな(トシがばれる)。もうカッコよくて夢中だった。アニー・ジラルドはあまり好きではない…。シモーネ役のレナート・サルヴァトーリとこの映画が縁でその後結婚したところが、なんかすごいな。もちろん離婚してるんだけど。