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2002年3月21日

ウォーターメソッドマン/ジョン・アーヴィング

The Water‐Method Man, 1972

ウォーターメソッドマン I/ジョン・アーヴィング ウォーターメソッドマン II/ジョン・アーヴィング 川本三郎,柴田元幸,岸本佐知子 訳
国書刊行会 文学の冒険シリーズ 1989.3.1 各1700円
I:ISBN978-4-336-02465-7
II:ISBN978-4-336-02464-0

〈ある種の感染症〉により、放尿時の異常な痛みに苦しむ男、フレッド・トランパーは、古代低地ノルド語で書かれた神話を研究する大学院生である。将来の見込みは殆どない。しかもスキーのアメリカ代表選手ビギーを妊娠させたことで父の逆鱗に触れ、援助を絶たれてしまう。息子コルムも生まれたものの、トランパーの生活はいっこうに落ち着かない...。トランパーは遂に家出し、旧友メリルに会うためウィーンへ飛ぶが、行方不明だった彼はドナウ河で水死していたことがわかる。その上、帰国してみれば、妻ビギーはトランパーの親友と結婚していた。傷心のトランパーはニューヨークで映画製作に加わり、トゥルペンという女性と暮らし始めるが...。現実から逃げ続けてきたトランパーに救いは訪れるのか?コミカルな現代の寓話。


「熊を放つ」の売れ行きはさんざんだったが、幸運にも後に「スターウォーズ 帝国の逆襲」の監督になるアーヴィン・カーシュナーの目にとまり、映画化権が売れた。映画化は実現しなかったが、映画化権が売れたことで経済的に余裕ができ、妻子とともにオーストラリアに2年間滞在。この間に書かれたのが「ウォーター・メソッドマン」である。
「ウォーター・メソッドマン」とは直訳すると「水治療の男」。尿道の感染症にかかり、その治療として水をとにかく飲む、という変わった治療をしている男、という意味。言外に「大人になりきれない男」という意味をもたせているように思われる。
小説は実験的な色合いが強く、だからと言ってつまらないわけではないのだが、大きく分けると過去と現在の二つの物語が入り組んで進んでいる。過去から唐突に大昔に突入したりするので、下記のような流れになる。

・現在:ニューヨークでのトゥルペンとの同棲生活。治療中。
・過去:アイオワ大学でのペギーとコルムとの生活
・大昔:ウィーン留学中、メリル・オーヴァーターフとスキーに行ってペギーに出会った頃の話

それぞれの物語が進んでいくが、「過去の話→大昔→過去→現在の出発点→現在から→」という流れに組み替えることもできる。
アイオワ大学時代、生活が苦しくて、公共料金をためてしまい、あちらこちらに支払いを待ってくれという手紙を書くが、それをずらずらと並べていたり、構成上は様々な試みがなされている。内容が面白いので、失敗してる、とは言えないが、後の作品を考えると、あまり成功しているとも言い難い。
また、人称の問題もある。主人公はトランパー、ボーガス、サンプー=サンプなど複数の名前で呼ばれる。しかも、三人称だったり、一人称だったり、語り手が時折入れ替わる。過去の物語の場合は一人称で、現在の物語になると三人称になったりする。
これらの試みはすべて、ボーガスが「大人になりきれない」「行き当たりばったりで中途半端」「何事も成しきれない」男のドタバタぶりを描くのに効果的に使われているように見える。本当にどうしようもない奴である。ラルフという実験映画の監督がトランパーの生活を描いた映画を作り、上映するのだが、この映画評の中に「どうしてこんなどうしようもない男に立派な女性がふたりも関わる気になったのか不思議」というくだりがあるが、まったくその通りだ。
気になるのが、実際のメリル・オーヴァーターフが大活躍してくれないところかなと思う。彼はジギーの生まれ変わりなのだから、もう少し頑張って欲しかった。でないと、どうしてウィーンまで探しに行ったのか、の意味が薄れているような気がする。
結局、このどうしようもない「夫にはなれない。だが、父親には...」というトランパーが何かを成し遂げ、父親として、夫として、社会に立ち向かうべくたたずむところで終わる。主人公が成長する過程を描くなんて、これも一種の教養小説か。
最初の3作までのアーヴィングは意外と小説の古典的なテーマのベースをもって、実験的な試みを行う「小説を学んでいる学生」っぽさがあり、後の巧みさから考えると、かえって新鮮に見えたりもする。もちろん、だからと言って内容がつまらないわけではない、というところが最大のポイントだが。

ウォーターメソッドマン 上ウォーターメソッドマン 下新潮文庫 1993.7.25 各520円
上:ISBN4-10-227306-9
下:ISBN4-10-227307-7